現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
仏教学と教化—研究者と宗教者—
仏教学と教化
─研究者と宗教者─
─研究者と宗教者─
大 乘 文 晴
はじめに一
とある法話に関する研修会において、講師がこのように言った。
「宗学科を卒業された若いお上人によくあることですが、法話に用いる御妙判について、真蹟現存・曾存、真偽未決といったことにこだわってしまうことがあります。しかし通常、妙行日課に入っているものは用いて構わないと思います。」
これは教化の現場に立つ教師が、専門的学問研究の成果に(意図的かどうかは別にして)対応しきれていないという現実を端的に表す事例であろう。勿論、これは現場の教師、宗教実践者の問題だけではない。私は、我々宗教実践者と研究者、学問としての仏教学と実践教化の関係を見つめ直す必要があると常々考えていた。
ここで、大学でアカデミックになされる学問としての仏教学、仏教の基礎研究を便宜的に「学問仏教」と呼ぶことにするが、本稿は、教学と宗教実践の乖離という問題を、学問仏教に固有の問題、宗教者の有する問題などから検討したものである。
「宗学科を卒業された若いお上人によくあることですが、法話に用いる御妙判について、真蹟現存・曾存、真偽未決といったことにこだわってしまうことがあります。しかし通常、妙行日課に入っているものは用いて構わないと思います。」
これは教化の現場に立つ教師が、専門的学問研究の成果に(意図的かどうかは別にして)対応しきれていないという現実を端的に表す事例であろう。勿論、これは現場の教師、宗教実践者の問題だけではない。私は、我々宗教実践者と研究者、学問としての仏教学と実践教化の関係を見つめ直す必要があると常々考えていた。
ここで、大学でアカデミックになされる学問としての仏教学、仏教の基礎研究を便宜的に「学問仏教」と呼ぶことにするが、本稿は、教学と宗教実践の乖離という問題を、学問仏教に固有の問題、宗教者の有する問題などから検討したものである。
学問仏教の危機
大学は学問研究の場であるが、現在では教育機関としての側面が大きい。我が宗門は勿論のこと、殆どの伝統教団においても大学は僧侶の養成課程に組み入れられており、今や宗門系大学は宝器養成の場としての重要な役割も任されている。
しかし大学全入時代を迎え、宗門系大学も生き残りをかけて変化を余儀なくされている。
例えば、空海創建の綜藝種智院にその端を発する種智院大学(真言宗)は、本年度(平成十九年)を以て仏教学部を廃止する。また聖徳太子(厩戸王)の四天王寺教田院に溯る四天王寺国際仏教大学は、校名から「仏教」を取って「四天王寺大学」と改称し、更に仏教学科をも廃止する(平成二〇年度募集停止)。それらの理由は、種智院大学改組の新聞報道二に明らかな通り、経営上は「仏教」が足枷となっていると判断されているからである。
今更言うまでもないが、総じて仏教系の大学、学部・学科の偏差値・ランクは残念ながら高くない。これは大学や学部の質ではなく、単に志望者が少ない=人気がない、という指標である。理由を詳述する余裕はないが、仏教や宗教への無関心もあるし、卒業後の進路を考えるとこれを生かす職場がない、ということも理由の一つではあろう三。
一方、佛教大学(浄土宗)は、昭和四〇年に仏教学部を廃止して文学部に組み入れたが、逆に平成二二年度を目標に復活させるという四。その理由は「学科の垣根をなくして他の専攻からも仏教に関連した科目を学びやすいようにしたが、逆に専門性が薄れ、仏教の基礎研究が希薄になった」「仏教の専門家が少なくなっており、次代を担う人材の養成が大学の使命である」と説明する。結局、これも仏教を学びやすいように門戸を開いたものの、思うような結果が出ず、逆に弊害が見え始めたので仏教を必要とする者に的を絞ったわけである(近年、既存の専攻科(仏教学コース、仏教看護コース)を募集停止としている点も考慮するべきである)。
仏教研究に専門化した学部を持つ大学が、学生の確保に窮して仏教色を排そうとし、専門性を薄めようと仏教学部を排した大学は、逆に仏教の専門家(あるいは専門研究を基礎教養として必要とされる僧侶)を育成できなくなった、というわけである。ここに宗門の宝器養成をも担う宗門系大学の根深い悩みがある。
仏教学を専門職域としていかす職業、それは第一に僧侶であるが、我々もまた冒頭に記したように、学問仏教とは一線を画さざるを得なくなっている。僧侶からも距離を置かれ、大学経営上も負担となっている仏教は、どう生き残るべきなのか。昭和六二年頃からはじまる一連の「批判仏教」は、学問仏教研究者からの一つの回答ともいえる五。
しかし大学全入時代を迎え、宗門系大学も生き残りをかけて変化を余儀なくされている。
例えば、空海創建の綜藝種智院にその端を発する種智院大学(真言宗)は、本年度(平成十九年)を以て仏教学部を廃止する。また聖徳太子(厩戸王)の四天王寺教田院に溯る四天王寺国際仏教大学は、校名から「仏教」を取って「四天王寺大学」と改称し、更に仏教学科をも廃止する(平成二〇年度募集停止)。それらの理由は、種智院大学改組の新聞報道二に明らかな通り、経営上は「仏教」が足枷となっていると判断されているからである。
今更言うまでもないが、総じて仏教系の大学、学部・学科の偏差値・ランクは残念ながら高くない。これは大学や学部の質ではなく、単に志望者が少ない=人気がない、という指標である。理由を詳述する余裕はないが、仏教や宗教への無関心もあるし、卒業後の進路を考えるとこれを生かす職場がない、ということも理由の一つではあろう三。
一方、佛教大学(浄土宗)は、昭和四〇年に仏教学部を廃止して文学部に組み入れたが、逆に平成二二年度を目標に復活させるという四。その理由は「学科の垣根をなくして他の専攻からも仏教に関連した科目を学びやすいようにしたが、逆に専門性が薄れ、仏教の基礎研究が希薄になった」「仏教の専門家が少なくなっており、次代を担う人材の養成が大学の使命である」と説明する。結局、これも仏教を学びやすいように門戸を開いたものの、思うような結果が出ず、逆に弊害が見え始めたので仏教を必要とする者に的を絞ったわけである(近年、既存の専攻科(仏教学コース、仏教看護コース)を募集停止としている点も考慮するべきである)。
仏教研究に専門化した学部を持つ大学が、学生の確保に窮して仏教色を排そうとし、専門性を薄めようと仏教学部を排した大学は、逆に仏教の専門家(あるいは専門研究を基礎教養として必要とされる僧侶)を育成できなくなった、というわけである。ここに宗門の宝器養成をも担う宗門系大学の根深い悩みがある。
仏教学を専門職域としていかす職業、それは第一に僧侶であるが、我々もまた冒頭に記したように、学問仏教とは一線を画さざるを得なくなっている。僧侶からも距離を置かれ、大学経営上も負担となっている仏教は、どう生き残るべきなのか。昭和六二年頃からはじまる一連の「批判仏教」は、学問仏教研究者からの一つの回答ともいえる五。
研究者の自己批判
「批判仏教」とは昭和六二年の日本印度学仏教学会学術発表大会における松本史郎(駒澤大学)の『如来蔵思想は仏教にあらず』という発表に端を発し、本覚思想批判を為した袴谷憲昭、中国仏教研究者である伊藤隆寿など、総じて本来釈尊が否定したはずの「有論」的な思考をはらんだ思想、あるいはそれを積極的に評価する研究者を、dhatu-vada、dhatu-vadinと呼んで激しく批判した研究手法、あるいはその主張である。
論争の詳細は割愛するが、批判仏教の論客は「何が仏教で何が仏教でないか」主体的に明確にしろ、と迫った。仏教は縁起論であって、如来蔵思想や本覚思想は有論であって本来釈尊が否定したものなのだ、という批判である。この結果、批判の対象者は自分の研究対象が仏教なのかそうでないのか、自分がそう信じているのか、という、一種の信仰告白を強いられることになったわけである六。当時、没価値的研究、すなわち研究対象と信仰はひとまず別物というコンセンサスがあったから、これは大変な衝撃を学界に与えた。
実は、当初批判仏教の論客の意図は正しく理解されなかった。彼らは、本来仏教的でないものをも仏教として没価値的に研究することのみを単に批判しているのではなく、実は客観的学問研究そのものを批判していたのだった。例えば、松本史郎は早い時期に次のように言っていた。
大学は、今や『職業としての学問』Wissenschaft als Berufに示されたマックス=ウェーバー流の価値判断排除の思想に導かれ、ただ単に知識の切り売りで事足れりとする似非客観主義に席捲されているように思われてならない。
その証拠に、私どもの関与する宗教学や文化人類学や民俗学では、もともと日和見主義の貶称として用いられていたシンクレティズム(和解主義)が急速に市民権を得て、その呼称のもとにどんな混淆宗教も下手な価値判断を加えずに細大漏らさず宗教現象として報告されるに至っている。
しかし、私は、宗教とは、少なくとも、自分の信念を言葉によって正邪を決しながら表明して行くことにあると思っているので、その最低条件を自らに課して、大学に職を得ている限りは、反ウェーバー的な意味で、『批判としての学問(Wissenschaft als Kritizismus)」の確立を目指したい。
(『駒沢大学学園通信』第一四六号・昭和六一年一二月五日)七
本人達は「仏教学者の大衆に対する責任は、非論理的・神秘的体験を強調するオウム真理教のようなオカルトや「ニューエイジ」宗教に対して日本人が熱心になってきた今日、ますます重要な問題になってきている」という発言をしている。つまり「(批判仏教とは)客観的学問の装いに隠された仏教徒としての責任を認識させようという試みであり、学者としてもその公的発言や説教や大衆向けに書くものの内容に責任を持たなければならない」というのだ八。批判仏教とは、仏教研究者は自分の研究対象にだけ責任を持つのではなく、大衆に対し、社会的に責任を持て、その社会的影響力を行使して責任を持てという自己批判であったことを特記しておく(本来、宗乗と余乗、仏教者以外による仏教研究という問題もあるが、本稿では主として仏教者による仏教研究と宗乗研究を取り扱う)。
論争の詳細は割愛するが、批判仏教の論客は「何が仏教で何が仏教でないか」主体的に明確にしろ、と迫った。仏教は縁起論であって、如来蔵思想や本覚思想は有論であって本来釈尊が否定したものなのだ、という批判である。この結果、批判の対象者は自分の研究対象が仏教なのかそうでないのか、自分がそう信じているのか、という、一種の信仰告白を強いられることになったわけである六。当時、没価値的研究、すなわち研究対象と信仰はひとまず別物というコンセンサスがあったから、これは大変な衝撃を学界に与えた。
実は、当初批判仏教の論客の意図は正しく理解されなかった。彼らは、本来仏教的でないものをも仏教として没価値的に研究することのみを単に批判しているのではなく、実は客観的学問研究そのものを批判していたのだった。例えば、松本史郎は早い時期に次のように言っていた。
大学は、今や『職業としての学問』Wissenschaft als Berufに示されたマックス=ウェーバー流の価値判断排除の思想に導かれ、ただ単に知識の切り売りで事足れりとする似非客観主義に席捲されているように思われてならない。
その証拠に、私どもの関与する宗教学や文化人類学や民俗学では、もともと日和見主義の貶称として用いられていたシンクレティズム(和解主義)が急速に市民権を得て、その呼称のもとにどんな混淆宗教も下手な価値判断を加えずに細大漏らさず宗教現象として報告されるに至っている。
しかし、私は、宗教とは、少なくとも、自分の信念を言葉によって正邪を決しながら表明して行くことにあると思っているので、その最低条件を自らに課して、大学に職を得ている限りは、反ウェーバー的な意味で、『批判としての学問(Wissenschaft als Kritizismus)」の確立を目指したい。
(『駒沢大学学園通信』第一四六号・昭和六一年一二月五日)七
本人達は「仏教学者の大衆に対する責任は、非論理的・神秘的体験を強調するオウム真理教のようなオカルトや「ニューエイジ」宗教に対して日本人が熱心になってきた今日、ますます重要な問題になってきている」という発言をしている。つまり「(批判仏教とは)客観的学問の装いに隠された仏教徒としての責任を認識させようという試みであり、学者としてもその公的発言や説教や大衆向けに書くものの内容に責任を持たなければならない」というのだ八。批判仏教とは、仏教研究者は自分の研究対象にだけ責任を持つのではなく、大衆に対し、社会的に責任を持て、その社会的影響力を行使して責任を持てという自己批判であったことを特記しておく(本来、宗乗と余乗、仏教者以外による仏教研究という問題もあるが、本稿では主として仏教者による仏教研究と宗乗研究を取り扱う)。
学問仏教の限界
明治以降の近代仏教研究は、文献学を基本に据えた客観的研究であり、我が宗の教学研究も同様である。歴史や思想、あるいは文献そのものを文献考証によって解き明かす、主観を入れず客観的資料によってひたすら文献に語らせるという所謂「科学的」研究であるが、この分野は経験科学であって、新資料の出現などによって反証可能(主張が覆される可能性がある)であるし、立場や読み方によって異なった見解を導き出すことができるため、またそれぞれの立場や学説も等しく没価値的に取り扱う以上、学問上の仏教というのは予測と可能性の羅列となりがちである。また分野が多岐に亙り、その分析的な手法のために専門的な訓練を要する。その為、自ずと専門領域が生まれ、自分の専攻以外の問題については批評を為しにくい。自らの専門領域を深く掘り下げて分析するが、統合的な視点を持ちにくい、といった欠点がある九。従って、確実と証明された定説以外は「断言できない」のだ。
一方、我々宗教実践者はひたすら現実対決を迫られる。宗教の目的は幸福であるが、能化としてはこの信仰によって「幸福になれるのだ」と「断言する」ことを迫られる。それはまさしく松本史郎が「宗教とは、少なくとも、自分の信念を言葉によって正邪を決しながら表明して行くこと」といった主張と軌を一にする。ここに「傍観者的な研究者と熱心な宗教実践者との分離一〇」という問題が浮かび上がって来るが、研究者と違って宗教者は時として「非論理的」であったり、合理的説明が不可能な「神秘体験」すらも取り扱って行かなければならないのであって、ここに根源的な対立がある。
近代の仏教研究は多くの成果をあげているのは確かだが、その応用の場である宗教実践を学問仏教そのものがサポートしているといえるだろうか。日々「断言する」ことを迫られる宗教実践者の要請には、学問仏教はそう簡単には答えてくれない。研究者は自説と異論異説を提示しえても、その取捨は受け取った我々の側に任されてしまう(例えば我が宗においても未だ本尊論すら喧しい上、昨今の摂折論で現場は混乱をきたしている)。したがって、我々宗教実践者はその研究成果をうまく利用することが出来ず(専門的で煩瑣な議論は実践上「無視」されるし、次項で述べる通り、無視したところで当面問題は生じない)、従って実践の場を持たない学問仏教は、不本意ながらこのままではアカデミズムという檻から出ることが出来ないのだ。
一方、我々宗教実践者はひたすら現実対決を迫られる。宗教の目的は幸福であるが、能化としてはこの信仰によって「幸福になれるのだ」と「断言する」ことを迫られる。それはまさしく松本史郎が「宗教とは、少なくとも、自分の信念を言葉によって正邪を決しながら表明して行くこと」といった主張と軌を一にする。ここに「傍観者的な研究者と熱心な宗教実践者との分離一〇」という問題が浮かび上がって来るが、研究者と違って宗教者は時として「非論理的」であったり、合理的説明が不可能な「神秘体験」すらも取り扱って行かなければならないのであって、ここに根源的な対立がある。
近代の仏教研究は多くの成果をあげているのは確かだが、その応用の場である宗教実践を学問仏教そのものがサポートしているといえるだろうか。日々「断言する」ことを迫られる宗教実践者の要請には、学問仏教はそう簡単には答えてくれない。研究者は自説と異論異説を提示しえても、その取捨は受け取った我々の側に任されてしまう(例えば我が宗においても未だ本尊論すら喧しい上、昨今の摂折論で現場は混乱をきたしている)。したがって、我々宗教実践者はその研究成果をうまく利用することが出来ず(専門的で煩瑣な議論は実践上「無視」されるし、次項で述べる通り、無視したところで当面問題は生じない)、従って実践の場を持たない学問仏教は、不本意ながらこのままではアカデミズムという檻から出ることが出来ないのだ。
宗教実践者の問題(葬式仏教と教学)
一方、宗教実践者にも問題があるのも事実である。
現在の宗教実践は、葬儀・法要が中心である。我が宗風として、説教・法話は大変重要な地位を占めるが、こと葬儀・法要だけに限って言えば、今やマニュアルに則って行えば事足りてしまう(勿論、洗練された法式を成すための訓練は必要であるし、精神性も重要なのは言うまでもない)。所謂「葬式仏教」と批判される在りようがそれであり、教学がなくても型通りの宗教実践は成立してしまうのである。しかし詳述しないがこのままでは葬式仏教すらいずれ崩壊することが予見される一一。型通りの葬儀法要だけで、実際の人間生活と向き合うことがない今の仏教が批判され、そっぽを向かれるのは当然である。
しかし、多くの教師は宗教者としてどのように社会に関わりを持つべきか、どう影響力を持つか考え、自らを高めようと様々な努力を試みる。我が宗門にあっては、荒行堂もあるし、布教院、声明師という道もある。しかし、教学だけは改めて学ぶ機関がないのだ。勧学院もあるが、まことに残念な話であるけれども、地方においては地方教区教育研修会不要論を耳にする程なので(運営上の問題もあるが、講義が難しくてわからない、実践上の問題に教学的に応えて欲しいのに学説を列挙して混乱させられたり、自説を述べるだけで実践性がない、机上の空論だという批判もある)、これは改善を期待するしかない。
そもそも実際の教化上、教学とは何なのだろうか。
人々が宗教を選択するのに最初から教学を基準にするかといえば、そうではなかろう。数多ある宗教はすべて「正しい教え」を持っているし、それを公平に比較する機会はほぼないのだから、教学が宗教選択の決定的な動機とはなりにくい。結局、先祖の宗教を選んだり、近隣や有縁の寺を選んだり、場合によっては新宗教を選んだり、また宗教を選ばないという選択もある。言い換えれば教化や布教は、人々に「選んでもらう」努力でもあるのだ。
そもそも宗教の目的は安心立命、畢竟「幸福」の追求である。新宗教が多くの人々を集めているのは、我々が人々の要求に応えていない、宗教的幸福を与えることが出来ていないということの裏返しである。我々がいくら教学的にあの教団はおかしい、と批判しても、現実に人々はそこに宗教的幸福を見いだして集い、その結果、我が宗門よりはるかに大きな社会的影響力を持つ教団も少なくない。つまり、教学の正しさがそのまま幸福や信仰、宗教を保証していないという現状である一二。我々は教学という知性に縛られているうちに、社会において行かれてしまったのだ。
誤解なきように申し添えるが、これは教学とその研究を否定するものではない。それは絶対に必要なことである。しかし教学は飽くまで理であって現実(事)ではない。その理を実践する人物や集団(やその信仰)が個人の宗教的幸福を支えているのだ。残念ながら、現在の学問仏教あるいは教学は、現場の教師が使えるような、あるいは現実に即した研究とはいえない、あるいは統合的な応用研究がないということである。我が宗勢が盛り上がらないというのは、葬儀法要を主とせざるを得ない教師も、過度に先鋭化し現場の実践・現実社会とリンクしない研究も、現状では人々の幸福追求という目的に合致していない、選んでもらうには足らないという社会からの回答と言える。
現在の宗教実践は、葬儀・法要が中心である。我が宗風として、説教・法話は大変重要な地位を占めるが、こと葬儀・法要だけに限って言えば、今やマニュアルに則って行えば事足りてしまう(勿論、洗練された法式を成すための訓練は必要であるし、精神性も重要なのは言うまでもない)。所謂「葬式仏教」と批判される在りようがそれであり、教学がなくても型通りの宗教実践は成立してしまうのである。しかし詳述しないがこのままでは葬式仏教すらいずれ崩壊することが予見される一一。型通りの葬儀法要だけで、実際の人間生活と向き合うことがない今の仏教が批判され、そっぽを向かれるのは当然である。
しかし、多くの教師は宗教者としてどのように社会に関わりを持つべきか、どう影響力を持つか考え、自らを高めようと様々な努力を試みる。我が宗門にあっては、荒行堂もあるし、布教院、声明師という道もある。しかし、教学だけは改めて学ぶ機関がないのだ。勧学院もあるが、まことに残念な話であるけれども、地方においては地方教区教育研修会不要論を耳にする程なので(運営上の問題もあるが、講義が難しくてわからない、実践上の問題に教学的に応えて欲しいのに学説を列挙して混乱させられたり、自説を述べるだけで実践性がない、机上の空論だという批判もある)、これは改善を期待するしかない。
そもそも実際の教化上、教学とは何なのだろうか。
人々が宗教を選択するのに最初から教学を基準にするかといえば、そうではなかろう。数多ある宗教はすべて「正しい教え」を持っているし、それを公平に比較する機会はほぼないのだから、教学が宗教選択の決定的な動機とはなりにくい。結局、先祖の宗教を選んだり、近隣や有縁の寺を選んだり、場合によっては新宗教を選んだり、また宗教を選ばないという選択もある。言い換えれば教化や布教は、人々に「選んでもらう」努力でもあるのだ。
そもそも宗教の目的は安心立命、畢竟「幸福」の追求である。新宗教が多くの人々を集めているのは、我々が人々の要求に応えていない、宗教的幸福を与えることが出来ていないということの裏返しである。我々がいくら教学的にあの教団はおかしい、と批判しても、現実に人々はそこに宗教的幸福を見いだして集い、その結果、我が宗門よりはるかに大きな社会的影響力を持つ教団も少なくない。つまり、教学の正しさがそのまま幸福や信仰、宗教を保証していないという現状である一二。我々は教学という知性に縛られているうちに、社会において行かれてしまったのだ。
誤解なきように申し添えるが、これは教学とその研究を否定するものではない。それは絶対に必要なことである。しかし教学は飽くまで理であって現実(事)ではない。その理を実践する人物や集団(やその信仰)が個人の宗教的幸福を支えているのだ。残念ながら、現在の学問仏教あるいは教学は、現場の教師が使えるような、あるいは現実に即した研究とはいえない、あるいは統合的な応用研究がないということである。我が宗勢が盛り上がらないというのは、葬儀法要を主とせざるを得ない教師も、過度に先鋭化し現場の実践・現実社会とリンクしない研究も、現状では人々の幸福追求という目的に合致していない、選んでもらうには足らないという社会からの回答と言える。
両者のあいだ
実は、批判仏教を待つまでもなく、我が宗門の研究者・勝呂信静は早くからその警告を発していた。勝呂は昭和四〇年に出版した『日蓮思想の根本問題』において、
今日の布教はますます技術化して実践とかけ離れているし、他方学問はますます専門化して実践と無関係になっている。両者のへだたりが今後とも一そう大きくなって行くように思われるところに、今日の仏教の問題点があるのではあるまいか。
最近の仏教研究、特に日蓮聖人や法華経の思想に関する研究が、聖人の実践的立場を無視するような方向において行われていることを、私は久しく不満に思っていた。しかしそれよりももっと不満に思うことは、こうした方向の研究方法をかえって正当視するような傾向が学界にあるようにみうけられることである。近代の仏教学は、学問と信仰、あるいは思想と実践とを分離するような立場に立っているところに盲点があると私は考える…一三
と言っている。勝呂の言う「布教の技術化」とはその精神性無視のマニュアル化であるし、「学問の専門化」とは実践性の無視である。残念ながら勝呂の指摘は、出版後四〇年を経ても色褪せておらず、まさに炯眼である。
結局、研究者と宗教実践者の距離というのは、本来仏教学を生かすべき宗教者が、あまりにも高度に細分化・先鋭化しすぎてしまった学問と、また専門化してしまった宗教行為・修行をマッチングさせないまま行動している、そうせざるを得ない、という問題なのである。
我々にとって「行学二道」は両立しなければならないもののはずであるが、そもそも大学という場は学問の場であって修行の場ではない。したがって、学問と修行を別々にやらざるを得ず、行と学を表裏一体のものとして学び体験する機会がないという不幸が、教学と教化をうまく両立させられない結果を引き起こしているとも言えるだろう。無理に学制の中に僧侶の育成も組み入れてしまい、宗教者としての修行の中に、体験的に教学を学ぶ機会が組み入れられていない、ということは法器養成の上でも重大な欠陥であろうと思う。
今日の布教はますます技術化して実践とかけ離れているし、他方学問はますます専門化して実践と無関係になっている。両者のへだたりが今後とも一そう大きくなって行くように思われるところに、今日の仏教の問題点があるのではあるまいか。
最近の仏教研究、特に日蓮聖人や法華経の思想に関する研究が、聖人の実践的立場を無視するような方向において行われていることを、私は久しく不満に思っていた。しかしそれよりももっと不満に思うことは、こうした方向の研究方法をかえって正当視するような傾向が学界にあるようにみうけられることである。近代の仏教学は、学問と信仰、あるいは思想と実践とを分離するような立場に立っているところに盲点があると私は考える…一三
と言っている。勝呂の言う「布教の技術化」とはその精神性無視のマニュアル化であるし、「学問の専門化」とは実践性の無視である。残念ながら勝呂の指摘は、出版後四〇年を経ても色褪せておらず、まさに炯眼である。
結局、研究者と宗教実践者の距離というのは、本来仏教学を生かすべき宗教者が、あまりにも高度に細分化・先鋭化しすぎてしまった学問と、また専門化してしまった宗教行為・修行をマッチングさせないまま行動している、そうせざるを得ない、という問題なのである。
我々にとって「行学二道」は両立しなければならないもののはずであるが、そもそも大学という場は学問の場であって修行の場ではない。したがって、学問と修行を別々にやらざるを得ず、行と学を表裏一体のものとして学び体験する機会がないという不幸が、教学と教化をうまく両立させられない結果を引き起こしているとも言えるだろう。無理に学制の中に僧侶の育成も組み入れてしまい、宗教者としての修行の中に、体験的に教学を学ぶ機会が組み入れられていない、ということは法器養成の上でも重大な欠陥であろうと思う。
まとめにかえて
教学と現場の乖離を考えるために、昨今の浄土真宗本願寺派(西)の動きは参考になろう。本願寺派は平成一四年一二月の定期集会で大転換を迎えた。やや長いが新聞報道を引用する。
合格祈願や無病息災といった現世利益を求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と〝公認〟する見解を示していたことが九日、明らかになった。浄土真宗は宗祖・親鸞聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。(略)
宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、〝内閣法制局長官〟ともいえる教学研究所長の大峯・大阪大名誉教授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。(略)
他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。
「宗教の原点」祈りを公認 「不純な動機」の解釈変更 浄土真宗本願寺派
平成一四年一二月一〇日 毎日新聞朝刊二九面
これは昭和五六年に内部的に提起された「教学なき現場と現場なき教学」という問題(『ポスト・モダンの親鸞─真宗信仰と民俗信仰のあいだ』同朋舎・平成二年公刊)から惹起されている。つまり教学なき現場とは、寺が単なる経営の場になっていくこと、現場なき教学とは、教学が実践性を失い、心情のない専門的知性になってしまうという批判である。寺院を支える強大な門徒集団を以てしても、人々の素朴な宗教的要求(現世利益の欲求)を抑えることが出来なかったし、それに応えられない教学が批判にさらされた。我が身として考えても、人々の宗教的欲求があるのにそれに僧侶が答えられない、というのは相当なジレンマであったろうと思う。
「教学なき現場と現場なき教学」という語は、これまで記してきた如く我が宗門にも当てはまろう。我々は教学と現場をつなぐ何かを見失っている。現在の教学の立ち位置にも問題があり、宗教実践者にも同様に問題がある。しかしその問題をお互いに補完しあわず、まるで背を向けて別々の方向に走り出してしまっているように思えてならない。研究者は現場実践を顧みなければ社会性を失って埋没するだけだし、寺離れどころか宗教離れと言われる昨今、宗教者もこのまま自分の足下を固めないまま安住していては、人々の要請に応えることができず、いずれ仏教そのものが死に絶えるのが目に見えているのだ。
我が宗門の目的、社会教化は、宗憲第二条に「(略)三大秘法を宗旨として法華経を行じ且つあらゆる思想を開顕して妙法に帰せしめ、もって即身成仏、仏国土顕現を思想とする」とある。つまり明確に現世の幸福を願うこと(即身成仏=仏国土顕現)であって、本来人々の幸福追求の目的に合致しており、教学的にも本願寺派のように方向を変える必要すらない。しかし本願寺派の大転換は、我々に大きな示唆を与えることを特記する必要がある。
合格祈願や無病息災といった現世利益を求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と〝公認〟する見解を示していたことが九日、明らかになった。浄土真宗は宗祖・親鸞聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。(略)
宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、〝内閣法制局長官〟ともいえる教学研究所長の大峯・大阪大名誉教授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。(略)
他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。
「宗教の原点」祈りを公認 「不純な動機」の解釈変更 浄土真宗本願寺派
平成一四年一二月一〇日 毎日新聞朝刊二九面
これは昭和五六年に内部的に提起された「教学なき現場と現場なき教学」という問題(『ポスト・モダンの親鸞─真宗信仰と民俗信仰のあいだ』同朋舎・平成二年公刊)から惹起されている。つまり教学なき現場とは、寺が単なる経営の場になっていくこと、現場なき教学とは、教学が実践性を失い、心情のない専門的知性になってしまうという批判である。寺院を支える強大な門徒集団を以てしても、人々の素朴な宗教的要求(現世利益の欲求)を抑えることが出来なかったし、それに応えられない教学が批判にさらされた。我が身として考えても、人々の宗教的欲求があるのにそれに僧侶が答えられない、というのは相当なジレンマであったろうと思う。
「教学なき現場と現場なき教学」という語は、これまで記してきた如く我が宗門にも当てはまろう。我々は教学と現場をつなぐ何かを見失っている。現在の教学の立ち位置にも問題があり、宗教実践者にも同様に問題がある。しかしその問題をお互いに補完しあわず、まるで背を向けて別々の方向に走り出してしまっているように思えてならない。研究者は現場実践を顧みなければ社会性を失って埋没するだけだし、寺離れどころか宗教離れと言われる昨今、宗教者もこのまま自分の足下を固めないまま安住していては、人々の要請に応えることができず、いずれ仏教そのものが死に絶えるのが目に見えているのだ。
我が宗門の目的、社会教化は、宗憲第二条に「(略)三大秘法を宗旨として法華経を行じ且つあらゆる思想を開顕して妙法に帰せしめ、もって即身成仏、仏国土顕現を思想とする」とある。つまり明確に現世の幸福を願うこと(即身成仏=仏国土顕現)であって、本来人々の幸福追求の目的に合致しており、教学的にも本願寺派のように方向を変える必要すらない。しかし本願寺派の大転換は、我々に大きな示唆を与えることを特記する必要がある。
教学と宗教実践、すなわち行と学について、我々は祖師の遺誡を信じ、両立させようと努力してきた。
行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給べし。
『諸法実相鈔』の一章に、どれだけ多くの先師が鼓舞され、微力を尽くして一文一句を述べ「教化」してきたであろうか。しかし最蓮房に宛てられた本書は近代仏教学の成果によれば偽書とも言われる。また最蓮房そのものの存在すら否定する研究もある。我々はどう整合させればいいのだろうか。少なくとも、羅列された学説を統合して実践性を持たせるような研究は必要であろう。それが教化「学」なのかもしれないが、教化を分析だけして統合できず実践性を喪失する、という近代仏教学の失敗一四を繰り返さないことだけを祈る。種々の遺漏を認めつつも、規定の紙幅を超えているので擱筆する。
(平成一九年一一月三〇日脱稿)
行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給べし。
『諸法実相鈔』の一章に、どれだけ多くの先師が鼓舞され、微力を尽くして一文一句を述べ「教化」してきたであろうか。しかし最蓮房に宛てられた本書は近代仏教学の成果によれば偽書とも言われる。また最蓮房そのものの存在すら否定する研究もある。我々はどう整合させればいいのだろうか。少なくとも、羅列された学説を統合して実践性を持たせるような研究は必要であろう。それが教化「学」なのかもしれないが、教化を分析だけして統合できず実践性を喪失する、という近代仏教学の失敗一四を繰り返さないことだけを祈る。種々の遺漏を認めつつも、規定の紙幅を超えているので擱筆する。
(平成一九年一一月三〇日脱稿)
※浄土真宗の転換について資料等教示賜った梅澤宣雄師と、重要な示唆を賜った服部即明師、影山教俊師に謝意を表します。
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一 本稿において基本的に敬称は付していないが、体裁上の問題であり他意はないので諒とされたい。研究の現場から離れて十五年以上たつが、本稿は客観研究に没頭していた自分への反省を込めたものである。
二 平成一九年五月二六日付け京都新聞の記事によると、「種智院大学に対するイメージが学部名によって「仏教」に固定されがちで、社会福祉学科を受験生に知ってもらうことが難しいなど、学生募集の際に不利になっていたという。大学間で受験生獲得競争が激しくなる中、仏教学部の名称を変更することにした。学内から反対の声はなかったという」とある。仏教が学生募集に「不利」であるという正直な告白である。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007052600014&genre=G1&area=K1I
三 近年、非実学系の学部学科の低迷が叫ばれるが、宗教学の分野では、社会学の「社会調査士」をモデルとして、日本宗教学会が中心となって「宗教文化士(仮称)」という認定資格制度を創設することを模索している。これは明らかに肩書きによって学生の就職をサポートしようという試みである。(『中外日報』平成一九年九月二二日号)
四 平成一九年一〇月二三日付け京都新聞(「仏教学部、四五年ぶり復活 佛教大、「看板」前面に人材育成」)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007102300159&genre=G1&area=K1A
五 拙稿「教学研究をめぐる批判的覚え書き」(『行道第五号』日蓮宗霊断師会・平成一九年)に少し詳しくふれたことがあるので往見されたい。
六 批判された如来蔵思想の研究者・高崎直道は「(ただし、〝あれかこれか〟に対し、〝何でもかでも〟は論外としても、〝あれもこれも〟という会通の立場が全く認められないとはいえまい。研究発表の度に信仰告白を強いられてはたまったものではない。)」と括弧付きで困惑を表現している。高崎直道「最近十年の仏教学─仏教思想学会十年にちなんで─」(『仏教学第三六号』仏教思想学会・平成六年)九頁
七 松本史郎「批判としての学問」(『批判仏教 critical buddhism』大蔵出版・平成二年)九四頁
八 J・ハバード「批判仏教の背景の批判的考察」(『南山宗教文化研究所 研究所報 第九号』南山宗教文化研究所・平成一一年)二一~二二頁
九 近年ではその所謂「学問のタコ壺的状況」を憂慮して、積極的に分野の枠を超えた学際的研究を推進しようとする動きがある。例えば平成一四年に「日本仏教研究会」の後を承けて設立された「日本仏教綜合研究学会」などはその例であろう。
一〇 平成五年、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)でも批判仏教は主要なテーマと位置づけられ、それは「今日の学問におけるポストモダン的傾向、傍観者的な研究者と熱心な宗教実践者との分離、そして学問における社会的行動主義の立場」と評された。
一一 例えば法事が少なくなったという実感は多くの教師が共有できるであろうし、葬儀も既存の宗教行為を成さず、直接火葬場で火葬して公営墓地に埋葬、あるいは散骨などする所謂「直葬」が増えていることは御承知の通りである。
上田紀行『がんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代』(日本放送出版協会・平成一六年)の「はしがき」に登場する一般大学に通う寺院子弟の言葉は、端的に葬式仏教崩壊の不安を指摘しているし、我々、特に若い世代はその不安は共有できるのではないだろうか。
一二 簡単に言えば教相判釈は現代の社会では説得力を持っていないし、同様に(我々専門家はともかく一般大衆には)経典そのものが説得力を持っていない。教学は直接宗教的情操を保証するものではない。
一三 勝呂信静『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社・昭和四〇年一二月)四~五頁
一四 前田惠學、玉城康四郎、平川彰、吉津宜英などが文献学偏重の弊害を指摘し、現在の葬式仏教の中でどのように仏教に生命力を吹き込むか、という様々な提案をなしている。前出拙稿往見。
もう一点、現代のような教学が成立する以前、僧侶は宗教実践できていなかったのか、という問題を考える必要がある。宗教の本質が教学そのものではないことは本稿中に指示しているが、影山教俊師の社会制度上からの検討は傾聴に値する。
一 本稿において基本的に敬称は付していないが、体裁上の問題であり他意はないので諒とされたい。研究の現場から離れて十五年以上たつが、本稿は客観研究に没頭していた自分への反省を込めたものである。
二 平成一九年五月二六日付け京都新聞の記事によると、「種智院大学に対するイメージが学部名によって「仏教」に固定されがちで、社会福祉学科を受験生に知ってもらうことが難しいなど、学生募集の際に不利になっていたという。大学間で受験生獲得競争が激しくなる中、仏教学部の名称を変更することにした。学内から反対の声はなかったという」とある。仏教が学生募集に「不利」であるという正直な告白である。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007052600014&genre=G1&area=K1I
三 近年、非実学系の学部学科の低迷が叫ばれるが、宗教学の分野では、社会学の「社会調査士」をモデルとして、日本宗教学会が中心となって「宗教文化士(仮称)」という認定資格制度を創設することを模索している。これは明らかに肩書きによって学生の就職をサポートしようという試みである。(『中外日報』平成一九年九月二二日号)
四 平成一九年一〇月二三日付け京都新聞(「仏教学部、四五年ぶり復活 佛教大、「看板」前面に人材育成」)
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007102300159&genre=G1&area=K1A
五 拙稿「教学研究をめぐる批判的覚え書き」(『行道第五号』日蓮宗霊断師会・平成一九年)に少し詳しくふれたことがあるので往見されたい。
六 批判された如来蔵思想の研究者・高崎直道は「(ただし、〝あれかこれか〟に対し、〝何でもかでも〟は論外としても、〝あれもこれも〟という会通の立場が全く認められないとはいえまい。研究発表の度に信仰告白を強いられてはたまったものではない。)」と括弧付きで困惑を表現している。高崎直道「最近十年の仏教学─仏教思想学会十年にちなんで─」(『仏教学第三六号』仏教思想学会・平成六年)九頁
七 松本史郎「批判としての学問」(『批判仏教 critical buddhism』大蔵出版・平成二年)九四頁
八 J・ハバード「批判仏教の背景の批判的考察」(『南山宗教文化研究所 研究所報 第九号』南山宗教文化研究所・平成一一年)二一~二二頁
九 近年ではその所謂「学問のタコ壺的状況」を憂慮して、積極的に分野の枠を超えた学際的研究を推進しようとする動きがある。例えば平成一四年に「日本仏教研究会」の後を承けて設立された「日本仏教綜合研究学会」などはその例であろう。
一〇 平成五年、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)でも批判仏教は主要なテーマと位置づけられ、それは「今日の学問におけるポストモダン的傾向、傍観者的な研究者と熱心な宗教実践者との分離、そして学問における社会的行動主義の立場」と評された。
一一 例えば法事が少なくなったという実感は多くの教師が共有できるであろうし、葬儀も既存の宗教行為を成さず、直接火葬場で火葬して公営墓地に埋葬、あるいは散骨などする所謂「直葬」が増えていることは御承知の通りである。
上田紀行『がんばれ仏教! お寺ルネサンスの時代』(日本放送出版協会・平成一六年)の「はしがき」に登場する一般大学に通う寺院子弟の言葉は、端的に葬式仏教崩壊の不安を指摘しているし、我々、特に若い世代はその不安は共有できるのではないだろうか。
一二 簡単に言えば教相判釈は現代の社会では説得力を持っていないし、同様に(我々専門家はともかく一般大衆には)経典そのものが説得力を持っていない。教学は直接宗教的情操を保証するものではない。
一三 勝呂信静『日蓮思想の根本問題』(教育新潮社・昭和四〇年一二月)四~五頁
一四 前田惠學、玉城康四郎、平川彰、吉津宜英などが文献学偏重の弊害を指摘し、現在の葬式仏教の中でどのように仏教に生命力を吹き込むか、という様々な提案をなしている。前出拙稿往見。
もう一点、現代のような教学が成立する以前、僧侶は宗教実践できていなかったのか、という問題を考える必要がある。宗教の本質が教学そのものではないことは本稿中に指示しているが、影山教俊師の社会制度上からの検討は傾聴に値する。