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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察

 

宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察

 

石 川 修 道

 

  はじめに

 

 日蓮聖人の生母の出自について諸説ある。「産湯相承事」は「悲母梅菊女、童女の御名なり、平の畠山殿の一類にて御座す」と記し、「日蓮大聖人註画讃」は清原氏の出身と記す。

 「貫名系図略縁起」は日蓮の母を北面武士・山崎左近将監良兼の女と伝え、「日蓮聖人御一代記」は下総国道野辺の豪族大野吉清の縁者とし、「御書略註」は大野吉清と道野辺右京の娘との間に生まれたとする。

 筆者はこの論考において、宗祖の母の出自・畠山重忠有縁説を論究する。

 

 一、安房国とは

 日蓮聖人が生誕された房総の国は、古代より大和朝廷と関係の強い国である。斉部(忌部)広成が大同二年(八〇七)に著わした「古語拾遺」には、神武天皇の御代に「天富命」が肥えた土地を求めて、阿波国より忌部族を率いて東国に移住したとある。麻や穀物を植え土地を開墾した。「麻」を「総」と言い、上総・下総の国名となり、忌部族は故郷の阿波(徳島県)と同じ音の安房国と表現した。忌部族の祖神「天太玉命」を祀ったのが安房国一の宮「安房神社」であり、忌部水軍の指令峰が清澄山であった。その頂上には天富命の廟所が祀られ、産鉄技術を有する忌部族の星神信仰が、後に仏教伝来に伴り、清澄に於ける明星・虚空蔵信仰、妙見信仰に発展するのである。そののち房総北部には、「経津主命」と「武みかづち命」の産鉄神が香取・鹿島神宮として東国へ進出する。大和朝廷と出雲王朝合体の功績神である。

 市原市の「稲荷台一号墳」から昭和五十一年「王賜」銘鉄剣が発見された。表に「王□□敬安」(王□□ヲ賜フ。敬ンデ安ゼヨ)。裏に「此廷刀□□□」(此ノ廷刀ハ□□□)とある。□□の部分は「辟百兵」(百兵を排除する威力を持つ)や「辟不祥」(不吉なことを取り除く)が入っていたと考えられる。古代房総地方に大和朝廷の力が及んでいたことは古墳や出土品から理解される。

 

 二、日蓮聖人の出自

 日蓮聖人は自らの出自を次の如く述べている。

一、日蓮は日本国東夷東條安房国海辺の旃陀羅が子也。(佐渡御勘気抄)

 

二、日蓮は今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり。(佐渡御書)

 

三、日蓮は賤身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して、此の国に来れり。(四條金吾殿御返事)

 

四、日蓮は安房の国東條片海の石中の賤民が子なり。(善無畏三蔵抄)

 

また宗門の伝承(祖伝)においては 宗祖と畠山一族、日昭・日朗・池上宗仲の血脈関係は次の如くになる。

 三、日蓮上人と畠山氏との関係

   産湯相承事 弘安五年(一二八二)日興著

 御名乗りの事、始めは是生、実名は蓮長と申し奉る。後には日蓮と御名乗り有る御事は非母梅菊(童女の御名なり)。平の畠山殿の一類にて御座す云云。法号妙蓮禅尼の御物語り御座す事には「我に不思議の御夢想あり、清澄寺に通夜申したりし処汝が志具に神妙なり、縁浮提第一の宝を与えんと思うなり、東条片海に三国の太夫と言う者あり是を夫と定めよと云云、其の歳の春、三月廿四の夜なり正に今も覚え侍るなり。

我父母に後れ奉りて己後詮方なく遊女の如くなりし時御身の父に嫁げり。」

  ◎我父母に後れ奉りて己後詮方なく、と言う事は、武士の子が、例へば戦陣で或いは落城の時などに、父母が討死又は自刃したりしたのに自分は運命を共に出来なくて……と解釈できる。とすれば重忠の側室である菊の前(足利遠元の娘)が悲しみのあまり駕篭に乗ったまま自害於二股川(駕篭塚)したと言う伝説より

 

     

 

畠山重忠が最初に結婚した女性が、足利遠元の娘「菊の前」である。生れたのが小次郎重秀である。重忠はのち北条時政の娘(栄子?)と結婚、六郎重保が生れる。この重保と北条時政の妻・牧の方の女婿、平賀朝雅の口論がきっかけとなり、重忠父子討伐計画が練られ、元久二年(一二〇五)六月、やはり北条時政の娘を妻とした畠山一族の稲毛重成の招きに鎌倉に出た畠山重保は謀叛人として討たれ、その事情を知らない父の畠山重忠は百三十四騎で秩父菅谷城を出て鎌倉に向い、武蔵国二俣川(横浜市旭区)で、時政の子息、北条義時以下、和田義盛、安達景盛らの数万の鎌倉幕府軍により謀殺された。畠山重忠と稲毛重成(桓武平氏秩父氏流の小山田有重の子)は従父兄弟である。その稲毛重成と子の小沢次郎重政も翌日、大河戸行元、宇佐美祐村に誅殺された。源頼朝に協力支援した家臣団が、北条時政と義時、政子の父子により謀殺されてゆくのが鎌倉時代のすさまじい政権闘争である。それが日蓮聖人誕生の歴史的背景である。

 また「日蓮大聖人註画讃」には、

  『蓮師(日蓮)姓は三国氏、父は遠州刺史貫名重実の次子重忠にして、日蓮はその第四子なり。父は遠州より安房州長狭郡東条郷片海市川村小湊浦に流され漁叟と成る。母は清原氏にして恒に朝曦(朝日)を仰いで念誦し、夢に日光の胸に映ずるを見て娠む。貞応元年歳次壬午 二月十六日午尅(うまのこく)誕生。』

とあり、父は三国氏流の貫名重忠、母は清原氏流と記されている。

 六牙日潮師の「本化別頭仏祖統紀」と境持日通師の「玉沢手鑑」によると、

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

     

 

 玉沢手鑑は六老僧日昭の父・畠山祐昭を印東祐昭と表記している。畠山は「坂東八平氏」の一流で、畠山・土肥・上総・千葉・三浦・大庭・梶原・長尾は血縁者である。

 畠山重忠は「吾妻鏡」に記される如く、鎌倉武士団の中で知・仁・勇の武将で音曲にすぐれ、力持ちの武将である。源頼朝は建久九年(一一九八)十二月、相模川の橋供養の帰路、病に倒れ、臨終際に嫡子頼家を呼び「頼朝ハ運命既ニ尽ヌ。ナカラン時、千万糸惜セヨ。八ヶ国の大名・高家ガ凶言(陰謀)ニ不レ可レ付ク。畠山ヲ憑テ日本国ヲバ鎮護スベシ」(承久記上)と言い、それ程に畠山重忠を信用していたのである。清水寿氏の「鋳師・鍛冶師の統領と思われる畠山重忠について」によると、

 「畠山重忠が武蔵七党の統領となり、武蔵武士の多数は製鉄技術を持ち、戦いに必要な武具、工具を製作できる武器生産技術集団であった。畠山重忠が財力を得てくると、将軍家に次ぐ北条氏も安閑として居られず、北条時政の後妻、牧の方に讒訴され二俣川の合戦で謀殺された。」(取意)

と考えられる。

 ◎畠山重忠と工藤祐経。

 日蓮伝承の中で、宗祖の母、梅菊は「畠山の一類」(産湯相承事・日興筆)といわれ、「本化別頭仏祖統紀」(六牙日潮筆)には具体的に「畠山祐昭」と、曽我物語で有名な「工藤祐経の女」の間に生まれた女児が長じて、池上康光の室となり(池上宗仲の母)、妹は平賀有国の室となり日朗上人を産んだと伝わる。畠山祐昭と工藤祐経の女の間に生まれた男児が六老僧日昭上人と伝わる。

 畠山も工藤も鎌倉幕府の重臣である。源頼朝より、義経追討の令が下り、吉野山で源義経と別れた側室の静御前(白拍子)は雪深い蔵王堂に逃れたが文治元年(一一八五)十一月十七日捕われ、翌文治二年三月一日、母の磯禅尼と共に鎌倉に護送された。義経の子を宿した静は、子が生まれるまで、鎌倉に留められた。京で名の通った白拍子の静の舞を頼朝も、妻の北条政子も所望したが、静は義経の恥辱と舞を拒否した。そこで鎌倉八幡宮に舞を奉納するということで合意がなされ、静は烏帽子、水干の装束で舞う事になった。

「吉野山 みねの白雪ふみ分けて

   入りにし人の あとぞ恋しき」

 

「しずやしず しずのおだまきくり返し

   昔をいまに なすよしもかな」

 

吉野山中で別れた義経を慕い歌に込め舞踏した。頼朝、政子はじめ多くの武将が感激した。この時、静の舞に調子を合わせ銅拍子を打ったのが、二十三歳の畠山重忠であり、鼓を打ったのが工藤祐経であった。両人とも一流の白拍子の舞に伴奏する音曲才能が有る鎌倉武士であった。静は出産したが、義経の子という理由ですぐ殺されたと伝わる。

 工藤祐経は伊豆国の住人、祐継が父である。曽我物語で敵役として仇討ちされるが、平重盛(清盛の嫡男)に仕え左衛門尉となる。京都御所大番役の在洛中に、一族の伊東祐親に本領伊東庄を奪われ、訴訟するも全領は戻らなかった。更に妻を奪った祐親に怒り、安元二年(一一七六)、富士野の狩場で祐親を襲い、その子祐泰を討ったのが前段の話である。

 この畠山と工藤両家は鎌倉幕府にとって、前者は謀叛人となり二俣川合戦で討殺され、後者は敵役として仇討ちされる。この両家が日蓮誕生、六老僧日昭、日朗誕生、池上宗仲との関係が出てくるのである。

 この敗者の系譜により、日朗上人有縁寺院の縁起(平賀本土寺)でも「畠山祐昭」の畠山を隠し、「印東祐昭」(玉沢手鑑説)を全面に出して縁起とするのである。

 下総国印東庄(印旛沼の東)を支配したのは千葉氏である。千葉家初祖・千葉常胤の室は畠山重忠の叔母である。畠山一族が「畠山」姓を隠し、縁者の千葉氏の支配地、「印東」姓を名乗ったとも考えられる。印東氏は下総国印旛郡印東庄に住した千葉氏の支流である。東鑑巻一、治承四年十月二十日條に印東次郎常義が記録されている。

 

 四、畠山重忠と源頼朝の出会い

 畠山重忠は長寛二年(一一六四)武蔵国男衾郡畠山で生まれ、父は秩父庄司重能、母は相模の名門三浦大介義明の娘である。

 畠山氏は桓武天皇を祖先とし、孫の高望王が平の姓を賜って武蔵国に土着し、子の良文が村岡(現・熊谷市村岡)に住み勢力を張る。その子の忠頼が平将門の乱に武勲を立て、次の奨恒は武蔵権守となり、秩父牧を管理し秩父氏を名乗る。そして重能の代に荒川を下り畠山に舘を構えた。高望王を祖先とする関東武士の畠山・土肥・上総・千葉・三浦・大庭・梶原・長尾が「坂東八平氏」を形成し、そのほか「武蔵七党」の武士集団が各地に居た。その多くは源氏に仕えていたが、保元(一一五六)・平治の乱(一一五九)後、平氏が政権を握ると、自らの所領安堵のため平氏に仕えるようになった。重忠の父・畠山重能は平清盛の長子・小松内大臣平重盛とその子・宗盛に仕え、大番役として京都警護に当たっていた。平治の乱で敗れた源氏に以仁王の「平氏討伐」の令旨が治承四年(一一八〇)五月下り、各地の源氏武将が八月十八日、立ち上った。伊豆蛭ヶ小島に流された源頼朝は、北条時政、土肥実平の支援を得て、監視役の伊豆目代・山木兼隆を襲い挙兵したが八月二十三日、石橋山に敗れる。この時、重忠の父・重能と弟の小山田有重は京都大番役で留守であった。平氏方の大庭景親より源頼朝の討伐軍に加われの急使があるも、留守役の十七歳・畠山重忠率る五百余騎は石橋山合戦に間に合わず、鎌倉由比ヶ浜にいた。そこに源氏応援の三浦軍がやはり石橋山合戦に間に合わず引き上げる所だった。三浦氏は畠山重忠の母の生家である。当主三浦義明とその子・義澄は、重忠にとって祖父・伯父になる。重忠は戦う気は無かったが、両軍が殺気立ち誤解から一戦を交え、重忠軍は五十騎を失った。鎌倉「小坪の戦い」。重忠は一族の河越太郎重頼、江戸太郎重長はじめ武蔵七党の三千騎により軍を立て直し、三浦氏の本拠、衣笠城を落とした。この戦いで重忠が戦勝祈願したのが木古庭(葉山市)の不動明王である。この不動堂の前に高さ一丈七尺幅三尺の「不動滝」がある。不動堂北方には重忠とその子・重保の「畠山城跡」がある。その近隣に「大沢」、「大楠」、「長江」(長柄)という房州勝浦にある同名の地名が存在している。「大沢」は勝浦の興津に大沢(伊保荘)があり、「大楠」は勝浦の新戸郷にあり、日蓮宗三ヶ寺がある。妙勝寺は酒井日慎猊下の出身寺である。「長江」は承久の乱の原因となった後島羽上皇の白拍子・亀菊が拝領した摂津国「椋橋・長江の庄」と同名である。長江は長柄とも書き、房州茂原の隣が「長柄」である。房州では「ながら」と読んでいる。この長柄町金谷に畠山重忠一門から嫁した石井家は、重忠の子孫と言われ字畑山(畠山)に現在、石井秀夫家が住し、畠山重忠の位牌・画像と地蔵堂を護持している。先の葉山市木古庭の「高祖坂」は、日蓮聖人が房州より鎌倉に入る道程の坂である。宗祖が祈願湧水した「日蓮井戸」がある。この地に草庵を構え滞在したと伝えられ、この地に日蓮宗本円寺が建立てられ、畠山重忠の「身がわり不動堂」を管理している。寺紋は「五七の桐」で畠山家の家紋の一つと同じである。

 石橋山合戦に敗れた源頼朝は安房に逃れ、桓武平氏の下総千葉常胤が源頼朝に味方するカードを選択した。その理由の何かは不明であるが、時代の流れ「時勢」を巧みに読んだ結果であろう。つい先日、源氏を応援した三浦義明、義澄を破った平氏方の畠山重忠は、「吾妻鏡」によれば、治承四年十月二日、豊嶋清元、葛西清重が頼朝に参陣し、「十月四日、畠山次郎重忠、(隅田川)長井の渡(浅草・白鬚の付近)に参会す。河越太郎重頼、江戸太郎重長また参上す」とあり、平氏応援の関東武士が源氏方に付くのである。平氏の全盛が「時代閉塞」を生み出すと共に、源頼朝より平氏以上の報賞が確約されたに違いない。しかも畠山重忠は鎌倉進駐の先陣の名誉を得るのである。頼朝は名誉を与えて実益を得たのである。畠山に敗れ房州の頼朝に合流した三浦義澄等の「畠山反対派」を、源頼朝はどのように抑えたのであろうか。畠山重忠の先陣を見て、関東武士はぞくぞく源氏方に転身したのである。しかも長井の渡では重忠は「白旗」(源氏印)を掲げて頼朝を迎えたのである。平氏の旗印「赤旗」でなく源氏旗の「白旗」掲揚を頼朝より詰問されると、重忠は憶することなく、

 「三浦との戦いは好んでしたのではありません。それは三浦氏の人々に聞けば判るでしょう。この白旗は畠山の四代前の祖・秩父武綱が源義家に従い奥州討伐「後三年の役」に従軍し、武勲の恩賞として戴いたもので、いつもこの旗を掲げて先陣を努めて参りました。私も先祖から言われた通り、この旗を掲げて参陣しました。」

 

 この畠山重忠の参陣には、畠山の家老・本田次郎親恒と千葉常胤の全権大使の合意が有ったであろう。畠山重忠の父・重能の女姉妹(祖父・秩父重弘の娘)が千葉常胤の妻である。常胤の妻は畠山重忠の叔母である。千葉常胤の子・胤正は畠山重忠の従兄弟である。本田親恒は畠山重忠より十四歳上の「重忠守り役」であった。本田氏の祖も平姓の高望王の子・平良文(村岡五郎)の子孫である。良文の孫・兄の平将恒(常)系が秩父、畠山氏となり、弟の平忠恒(常)系が千葉、本田、村上系となるのである。本田親恒の五代前の祖・恒親(常親・常近)は安房国押領使をつとめ、安房国長狭郡穂田郷を本拠地とし穂田氏と称した。その穂田が現在の房州「保田」となったのである。この因縁により、のち富士門流・保田妙本寺が建立されるのであろう。恒親の孫・親幹は武蔵国本田郷へ住み開墾し、「本田姓」となり在地領主になってゆくのである。畠山郷と本田郷は隣り合わせである。この畠山の家老・本田親恒は源平合戦の摂津福原(現・神戸市中央部)において、平重盛の子・備中守平師盛が海中に落ちたのを熊手で引揚げ首級を上げたと平家物語は記している。この本田親恒は文治二年(一一八六)九州島津御荘の総地頭職に任命された惟宗忠久(後の島津家元祖・島津忠久)の職務代行者として薩摩入りする。惟宗忠久は源頼朝と丹後の局の間に治承三年(一一七九)に生まれた。丹後の局は比企禅尼の娘・比企能員の妹(比企能本=大学三郎の叔母)である。忠久は京都に滞在したままで、地頭職の実務は代官の本田親恒が薩摩(鹿児島)の桙礼城で執行した。こうして本田家は薩摩、大隅、日向と関係を持ち、現在もこの地区に本田姓が多く見られる。本田親恒が武蔵国に戻ると、養子の本田貞親が惟宗(島津)家の主将となるのである。貞親は畠山重忠の末子で畠山小二郎重秀(重末)であり、十三歳の時、本田親恒の養子となり貞親と改名した。畠山、本田、島津の血脈は、本田親恒の娘が畠山重忠の夫人となり。更にその娘が島津忠久の夫人となるのである。畠山重忠夫人と本田親恒夫人は加紀屋家の姉妹である。

 畠山重忠と本田親恒・貞親父子は、島津忠久をめぐって、機重にも縁が重なり合った、きわめて緊密な血縁共同体を構成していたのである。

 

 以上の畠山、本田家の関係から、元久二年(一二〇五)六月二十二日の北条時政、義時により畠山重忠一門が謀殺され、その一門が畠山家老の本田家先祖有縁の地(本田氏が安房国押領使)に亡命し、身を隠した地が鴨川太海〜二子地区、そして勝浦法華の畠山館・龍蔵寺である。その歴史的背景に基づいて、宗祖の母である梅菊御前の出自が「畠山重忠有縁説」となって成立する要素が大なるのである。

 

 五、産鉄民の統領・畠山重忠と房州清澄寺と日蓮周辺

 産鉄民の統領としての武将・畠山重忠については、清水寿氏著「鋳師・鍛冶師の統領と思われる畠山重忠について」が論究している。清水氏は埼玉県の古代鉱業について稲村担元論文を紹介している。

 先学の歴史学者稲村担元氏の「埼玉県史」「上」に「古代の鉱業について」の項が約一頁記載されているので之を先ず拝借して掲載させて頂こう。

 「鑛業、我が國に於ける鑛業が上古より可なりの發達を見て居たであらうと言ふことはその古墳中より刀劒、鏡等の銅鐡器が發見せらるゝことに依って察せられるのであるが、國史に散見する鑛抗の發見は多く飛鳥時代末期以後であって、天武天皇の御世對馬に於て白銀及銀を出し持統天皇の御代に伊豫より白銀を産し、文武天皇二年には因幡に銅鉱を、伊豫に鉛を、對馬に金鑛を、丹波に錫を出して居る。かくの如く当時大陸文化の影響によって鑛業も發達して國内の諸所に種々の鑛金を發見するに至り、遂に和銅元年(七〇八)には秩父郡に於て和銅を發見し、朝廷に獻上するに至った。元來北部武藏の地は早く大陸文化の影響を受けた土地ではあるが、この地がまた鑛業發達の上にも、由緒の深きものであって、彼の児玉郡に鎮座する神社の社傳に日本武尊東征の時伊勢の倭姫命より賜はれる火燧金を神體として祠ったと曰はれて居る。この火燧金竝に金鑽の社名は鑛山に密接に因縁を有する如く同郡の東児玉阿那志(穴師)や金屋村と相互に連絡を有する神社であることを思ひ出される。更に児玉、秩父両群にかけてはまゝ金山彦神を祭祀する神社が存して居り、其の神社祭神及地名等より推して北部武藏人は古くより鑛業に關して多くの知識と經験とを有して居たので、其の結果和銅の獻進を見るに至ったのであらう。和銅は即ち自然銅である。而した其の發見の場所は現今の秩父郡原谷村黒谷であって、現に其の地よりの發見と稱せられる自然銅は今も保存さるゝものがある。權威ある専門家の説に依れば同所の地質其の他の倏件は自然銅を産出し得るとのことであるから、傳説の如く此の地より和銅を發見したと、解すべきものと思ふ。」と。

 従って此の地の和銅発見により秩父は一躍鉱物資源の豊庫として有名になった。或はそれ以前から渡来系の人々の技術により此の西北武蔵の地は鉱業が行われていたのではあるまいか。

 児玉郡神川町の金鑽神社、或いはそのそばを流れる神流川の地名、美里町阿那志の地名等採鉱技術者の使う用語である所より古くから鉱業の歴史があると思われる。

 古代〜中世において製鉄工場の拠点として「別所」が存在する。その別所に建つ寺院は山号、寺号に東光山、東光寺。本尊は薬師如来、十一面観音が多い。日蓮聖人が幼少時、養育された小湊の天台宗西蓮寺(第二十一世は道善坊)山号が「地福山」と言い、地下鉱物資源の豊富を表示し、本尊は「薬師如来」である。鎌倉期には奥州からの俘因や採鉱技術のある山窩や施陀羅(砂取り)の居住する特別拠点である。

 埼玉の秩父・入間方面に畠山重忠関係の別所は次の如くある。

 1 深谷市上敷面別所 12 入間郡日高町高萩別所

 2 比企郡滑川町上福田別所 13 入間郡日高町高岡別所

 3 比企郡小川町高谷別所 14 富士見市水子別所

 4 比企郡小川町角山別所 15 飯能市大河原別所

 5 比企郡都幾川村別所 16 所沢市三ヶ島堀の内別所

 6 児玉町金屋別所 17 北本市常光別所

 7 秩父郡東秩父村別所 18 伊奈市小室別所

 8 秩父郡小鹿野町別所 19 大宮市別所町

 9 秩父市別所 20 大宮市美扇別所

 10 坂戸市青木別所 21 浦和市別所町

 11 入間郡毛呂山町毛呂本郷別所

 埼玉県下二十一ヶ所の別所のうち、北本から浦和にかけては畠山重忠の義弟・岡部六弥太が重忠の命により差配し、奥州の産鉄民が移住させられ、武蔵鐙を製造していたと言われる。神奈川葉山町の木古場に岡部六弥太と猪又小平六の五輪塔あり。更に青梅市高山不動尊の付近も岡部氏の支配なり。吾妻鏡には畠山重忠が鉱山産鉄の武将と思わせる記録がある。鋤鍬を持った八十人の工兵が先陣を務めている。工兵は産鉄鉱夫である。清水寿氏は次の如く述べている。

『吾妻鏡 巻九 文治五年(一一八九)七月

 御進溌儀。先陣畠山次郎重忠也。先疋夫八十人。在御馬前。五十人[人]別荷征箭三腰(以雨皮裸裏之)三十人令持鋤鍬。次引馬三疋。次從軍五騎。所謂長野三郎重清。大串小次郎。本田次郎。榛澤六郎。柏原太郎等是也。凡鎌倉出御征一千騎也。

自鎌倉出。御候御供輩。

次御篭(御弓袋差。御旗差。御甲著等。在御馬前。)(〇大系本モ吉本モ此條一千騎也二續キ、自鎌倉出言言)

文治五年八月 阿津賀志山合戦

 二品内内被仰合干老軍等。仍重忠。召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮巳通神歟。小山七郎朝光退御寝所邊。依為近習仰候。相具兄朝政之郎從等。到干阿津賀志山。依懸意於先登也。〇八日。乙未。金剛別当[季綱]率数千騎。陣干阿津賀志山前。卯剋。二品先試遺畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等。雖相防之。大軍慶重。攻責之問。及巳剋。賊徒退散。

(先陣の重忠が工兵隊(実は鉱山労働者では)を使って堀をうめてしまった記事で之の項は古典では初見ではあるまいか。)

吾妻鏡 巻十六 正治元年(一一九九)五月(建久八年)

 五月小七日。戊戌。雨降。醫師時長昨日自京都参著。左近将監能直相具之。廻伊勢路。参向言言。旅館以下事者。兵庫頭并八田右衛門尉知家等。可致沙汰之由。含御旨者也。今日時長自掃部頭亀谷家。移住干畠山次郎重忠南御門宅。是令候近近。姫君御病悩為奉療治也。此事度度雖辭申。去月早可参向關東之旨。被下。院宣之問。如此言言。〇八日。己亥。陰。時長始獻朱砂丸於姫君。仍賜砂金廿両以下録言言。(辰砂より製造、水銀含有の丸薬(不老長寿薬)

 〇廿九日。庚申。今夕。姫君聊有御食事。上下喜悦之外無他言言。

吾妻鏡 巻十六 正治元年六月、七月

 〇廿六日。丙戌。醫師時長歸洛。自中将家。馬五疋。旅粮雑事。送夫二十人。國雑色二人。并兵士給之。又兵庫頭巳下引馬。去比雖給身暇。相待守宮令[之]下向干令遲留言言。〇丗日。庚寅。陰。午剋。姫君(三幡)遷化。(御年十四)尼御臺所御歎息。諸人傷嗟不遑記。[之]乳母夫掃部頭親能遂出家。宣豪法橋為戒師。今夜戌剋。姫君奉葬干親能亀谷堂傍也。江馬殿。兵庫頭。小山左衛門尉。三浦介。結城七郎。八田右衛門尉。畠山次郎。安立左衛門尉。梶原平三。宇都宮彌三郎。(最末。著素服)佐佐木小三郎。藤民部丞等供奉。各素服言言。

 (姫君三幡の病気治療のため京より医師時長を迎えた記事である。)

 時長はわざわざ伊勢路を廻って来ているが之は当時伊勢水銀の産地から朱砂丸を手に入れるためである。又重忠館が姫君の近くにあり、重忠は京に馴れる輩と呼ばれている通り京都の事に通じていた人物で医師の宿泊場所にされたが、水銀鉱採取(辰砂)の武蔵の統領である重忠館に朱砂丸を用いて治療する京の名医が宿泊することも何か関連がある様な気がしてならない。』

 源頼朝の奥州征伐に際し、畠山重忠は先陣を務め武勲を立て、宮城県葛岡の地を賜った。現在の岩出山町、真山、磯田あたりである。他の武将の恩賞地と比べれば狭小の地である。この地から金が産出し、弘安七年には砂金五十両が鎌倉に送られた記録が金沢文庫に保管されている。池月の小黒崎鉱山は昭和四十年頃まで金鉱山であった。鉱物的にはグリーンタフ層で金、銀、銅を含む緑色の埋積岩である。また岩手県田野畑村も畠山領地となった。特に平井賀海岸の砂中の砂鉄は五十%近いと分析結果が出ている。平安末期に源頼義は奥州征伐のあと、鍛冶集団を鎌倉に移住させ刀剣を製造させた。鎌倉稲村ヶ崎、横須賀は砂鉄が豊富である。鎌倉の鍛冶集団は源氏興隆と共に発展した。畠山重忠も鎌倉周辺にタタラ、鍛冶場を有し、岡部六弥太、猪保小平六等が葉山町木古庭付近の生産基地で産鉄していた。

 畠山重忠は伊勢国(三重県)の治田厨の地頭識になる。伊勢には四ヶ所の治田厨があり、外宮、内宮に関係している。員部郡の治田厨の近くには産鉄の多度大社があり、現在も住友金属鉱山がある。北勢町の治田鉱山は金銀銅、水銀の産出地で、慶長六年には摂津国の多田銀山から鉱夫が多数移住し採鉱した。四日市の治田厨は「神鳳鈔」に両宮領土分米各三石とある。給人として「高雄」の名が見え、四日市大治田に比定される。飯野郡松坂の治田(八田、八太)厨は、水銀産出が日本一の地であり、伊勢おしろいが有名。伊賀国上野の治田厨も畠山重忠の領地で鉄・水銀の産地である。松坂の上の位置に当る雲出川流域の須可庄、波出厨は島津忠久が地頭識であり、この当時より畠山、島津氏の関係は接近している。伊勢国の畠山領の隣接には、やはり武蔵武士の岡部六郎太が粥安富を領地とし、丹生山公田、松永名、多々利庄は武蔵児玉党の四方田五郎の領有で畠山の家臣である。小阿射賀厨、甲賀山、箕田大功田(厨)は畠山の同族・渋谷五郎、四郎が領有する。 日蓮聖人と伊勢国の関係は未研究の分野である。

 鉱物としての丹生は「水銀」を表わし、「たんしょう」「にゅう」と読み、「にゅう」は「壬生」(ミブ)と読む。産鉄地名である。栃木県下都賀郡壬生町は下野国府や国分寺に接し、利根川の一支流・黒川が開いた広大な沖積平野で壬生氏が開拓した。

 安房国は「倭名抄」の平郡、安房、朝夷、長狭の四郡から成り、そのうち壬生郷を管括した長狭郡は加茂川の谷沿いである。現在、壬生の地名は残っていないが、その西南の富浦町(もと八束村)に「丹生」の地名が存在する。房総西線の那古船形駅から北へ四キロ山に入った地点である。丹生川は岡本川に流入して富浦町の多田良部落の北端を通り海に注ぐ。多田良は製鉄の溶鉱炉、それに送風するフイゴの意味で冶金部落である。この産鉄地を領有したのが、畠山重忠の家老職の本田親恒(経)の先祖、安房国押領使の本田恒親である。鎌倉時代の日蓮聖人活躍期も本田家の築いた人脈の力は大きなものであったろう。

 

 六、壬生系清原家と池上家

 斉藤典男著「武州御嶽山史研究」によると、

 畠山重忠の出生地は男衾郡榎津郷である。畠山家が住する以前は、壬生氏の領地であった。その壬生氏が荒川下流、そして多摩方面に移住した。現・鴻巣市荒川左岸の箕田に移ったのが壬生系三田(箕田)氏であり、或は壬生系清原氏、壬生系足立氏(安達氏)となる。足立氏(安達氏)は藤原北家系で桶川市〜大宮市を領有した。安達盛長の等身大座像が箕田の隣り、糠田の東光寺に安置されている。この地域に居住した壬生系清原氏、安達氏から比叡山延暦寺第二世・天台座主円澄が出自する。

 畠山重忠は建久二年(一一九一)奥州征伐の先陣軍功により武蔵国青梅方面の杣保郷地域の領主となったと伝承され、産鉄の神・蔵王権現勧請の御嶽神社に重忠は、「赤糸威鎧」を奉納し、国宝に指定され、「宝寿丸」太刀は重要文化財に指定されている。建長八年(一一五六)の縁起によると、大仲臣国兼が金剛蔵王権現を勧請し開山したとある。「散位大仲臣国兼」は元伊勢神宮の大司にして、承久の乱に順徳天皇の命に応じ佐々木広綱と共に北条義時と争ったが敗れ、佐渡にのがれ、のち旧領遠江国、浜名民部の家に隠れて浜名を氏としたとある。諸国巡行し武蔵国御嶽山を開くとある。日蓮聖人の父・貫名重忠が「平氏の乱」に加担し敗れ、安房国に亡命又は、流罪説となる共通性がある。大仲臣氏は平安中期以降、上総、下総(香取神宮司)常陸(鹿島神宮司)・下野(日光二荒神社神主)の神官の系統である。そして日蓮聖人の檀越・池上宗仲も「大仲臣」を名乗っている。池上本門寺胎内銅器銘に

弘安五年壬午十月十三日巳刻御遷化

  大別当大国阿闍梨日朗

  大施主散位大中臣宗仲

  大施主   清原氏女

 とあり、「散位大仲臣国兼」と同様に「散位大仲臣宗仲」と称している。また多摩郡の高幡不動尊及び不動堂の修復を「暦応二年(一三三九)己卯檀那平助綱地頭並大仲臣女。各箭合力励大功。仍重奉修造本堂一宇並二童子尊体」。大中臣の女性が修復の施主となっている。

康永元年己牛六月二十八日修復功畢

  別当権少僧都儀海  大檀那平助網

  本尊修復小比丘朗意  大中臣氏女

   大工橘広忠 鍛冶  橘行近

 また奈良時代より武蔵国に栄えていた壬生(みぶ)氏は承和十二年(八四五)三月、武蔵国分寺の七層塔一基が同二年焼失したものを、前男衾郡大領従八位上・壬生吉志福正が再建を申請したので許可するが記録されている。仁安二年(一一六七)武蔵府中定光寺の経筒銘に「大施主 壬生成恒」とあり、治承五年(一一八一)武蔵五日市大悲願寺の大般若経奥書に「大施主 壬生氏末正清原氏」とあることから、壬生氏の後裔たる清原氏の存在が判る。日蓮聖人が活躍した弘安五年(一二八二)北足立郡新郷村峰岡八幡神社(川口市)の僧形八幡神像胎内銘に「清原光兼」があり、池上宗仲の妻「大施主 清原氏女」と同族である。産鉄関係の武将・壬生系清原氏が武蔵に存在していた。御嶽神社に格護されている嘉暦四年(一三二九)の木版本・大般若経修復に「施主・清原氏女」が暦応三年(一三四〇)登場している。

(1)大般若波羅蜜多経巻第十三

   暦応第天五月五日一校畢      沙門  澄融

                   大檀那清原氏女

                修理檀那左衛門尉清兼

(2)大般若波羅蜜多経巻第十五 地

   暦応第三天庚辰五月六日一校畢    沙門  澄融

                   本檀那清原氏女

                 今修理左衛門尉清兼

(3)(巻数不明)

   平天下豊国土神明擁護也払□□招福禄

   般若威験也故謹奉修理者也 

     暦応第三庚辰五月七日一校畢  沙門  澄融

                   奉施入清原氏女

(4)(巻数不明)

   暦応第三天五月八日奉一校     沙門  澄融

                  奉施入 清原氏女

                  奉修理大中臣清兼

 この文献により清原氏女と大仲臣清兼の住所が「金子三木住」と判明する。埼玉県入間郡金子郷三木(入間市三木)と考えられる。ここは畠山重忠の領域である。この大仲臣清兼は国兼の後継者である。また御嶽神社のある青梅地方杣保の戦国時代領主・三田(箕田)氏は、壬生系清原氏と同族であろう。「荘園志料」は三田姓の起源を武蔵国足立郡三田荘としている。

 「三田荘 和名抄足立郡箕田郷の地なり、今郡中忍領内箕田、小谷、市縄、寺谷、川面、三ツ木六村を箕田荘と云ふ。」この三田荘は今の埼玉県鴻巣市の一部であり、壬生氏が畠山を出て荒川下流に移住した地域である。壬生氏の支族が三田荘を支配して三田氏を名乗ったと考えられ、鎌倉期に南下して多摩郡青梅に進出したのであろう。大仲臣の流れにある壬生氏、清原氏、三田氏が平安期〜鎌倉期にかけて同族関係を有し、寺社に関係し、その復興に尽力したのに間違いない。青梅市御嶽山の麓が旧三田村である。慶應大学のある港区三田も三田氏在住の地であり、池上氏とは近い関係にあった。

 

小西元子著「畠山重忠と善明寺の鉄仏について」によると、

 畠山重忠が国分寺市恋ケ窪に遊女・夙妻太夫を供養した鉄仏があり、この鉄仏を胎内仏とした大仏——重忠の菩提心を後世に伝えるため——がある。

 東京の府中市善明寺に現存する鉄仏の最大座像(阿弥陀仏座像)である。国の重要文化財で、左の襟に「建長五年(一二五三)、僧の念阿弥陀仏が勧進し、藤原■近が製作した」とあり、像高一七〇・三cmである。大工・藤原■近は埼玉県嵐山町平沢寺所蔵の経筒を鋳造した藤原守道、藤原■員の同族系譜の人物と考えられると林宏一氏は「埼玉県史研究」(藤原守道とその系譜)に述べている。平沢寺の経筒は「久安四年(一一四八)、平朝臣 茲縄」と刻まれ、平朝臣・茲縄は畠山重忠の曽祖父・秩父重綱に比定される、大工とは「ダイコウ」と読み、鍛治師・鋳物師・木工などの工匠集団の棟梁である。池上宗仲はこの「大工」であり、「藤原」姓、大中臣氏である。「藤原守道」銘のある経筒は以下の三点があり、その一つは池上本門寺付近より出土している。

一、長寛元年(一一六三)の銘ある経筒。銘・工匠、藤原守道。日野市松蓮寺より出土。

二、長寛三年(一一六五)の銘ある経筒。銘・工、藤原守道。伝池上本門寺付近より出土。

三、仁安二年(一一六七)の銘ある経筒。銘・大工、藤原守道。府中市常光寺より出土。

 

 七、清澄寺梵鐘と塚田道禅

 畠山重忠研究家・清水 寿氏は、安房国清澄寺梵鐘(明徳三年・一三九二年塚田道禅銘)を考究している。寄居町塚田(現深谷市)は畠山館より西南一km、荒川南の江南台地にある。鎌倉街道の通る塚田千軒と言われた地である。この地で鋳造され現存するものは、清澄寺梵鐘(明徳三年・一三九二年塚田道禅銘)と塚田三島神社蔵の鰐口(応永二年銘・一三九五)である。対岸の黒田台構地には八世紀のたたら跡が発見され、刀、馬具等が多数発掘されている。塚田からも鉄鉱石の風化した露頭”吹払の赤土”に鉄含有量十七・八%、一般鉄鉱石には五〜六%の鉄含有量がある。高品度の鉱脈があったことが判明した。この塚田には大沢半兵衛という関守の長と、塚田道禅という製鉄技術集団の長がいた。

 清澄寺梵鐘は高さ一二三・二cm、口径六六・七cm。三段組で鋳上げられている。乳は四段五例、上帯に飛雲文、下帯に唐草文を鋳出している。池の間第一区に房州千光山清澄寺の寺名に始まる銘文を刻み、第三区に明徳三年(一三九二)の紀年銘と武州塚田道禅の作者名が刻されている千葉県文化財である。深谷市の畠山館から百米の所から発掘された文明七年(一四七〇)板碑には、塚田道禅とは「道西禅門」の略であった事が分かる。

 このように秩父畠山と清澄寺は、産鉄関係の人的交流と物流があった。清澄寺にとって武蔵国都幾山慈光寺は天台宗の名刹で、清和天皇より「天台別院一乗法華院」の勅額が納まっている。畠山重忠の領域内にある慈光寺には、後鳥羽上皇と中宮宜秋門院、関白九条兼実等が書写した法華経一品経(装飾経)が納経され、都と比企氏、畠山氏のつながりを示している。平塚納経、久能寺経と共に三大装飾経に数えられている。同じ天台系の名刹として清澄寺──桶川の関東天台の学問所円頓房泉福寺──慈光寺の仏教関係者の交流は多く有った筈である。秩父畠山の支配地は産鉄地、清澄寺の本尊「虚空蔵菩薩」の梵名「アーカーシャ・カルバ」は鉱物の水銀を表す産鉄神である。畠山家の家老・本田親恒の五代前の祖、本田恒親は安房国押領使である。安房国鴨川の江見の民話がある。「昔、畠山重忠が曽呂に来て二子地区の畠山四郎右衛門の家に泊まり、半年か一年滞在し、そこの家の娘との間に双児(浜波・岡波)が生まれた。この二子は成長し、現在の浜波太へ、一人は山へ行きました。太海の香指神社に姉妹のかんざしが納っている。」民話になるほど畠山重忠は安房国を数多く訪れているのである。

 

 八、房州勝浦の畠山館

 日蓮聖人の両親、貫名重忠と梅菊は、建長五年の宗祖立教開祖後、最初に受戒を受け「妙日・妙蓮」の法号を授かったと日蓮伝説にある。それを八大龍王が祝した縁起に由り、「龍蔵寺」が勝浦市法花に存在する。龍蔵寺の手前に由緒ある「畠山館」がある。深い堀を渡って館に入る。後の急坂を登ると荒川が流れている。自然地形による城跡である。まさに武家屋敷で、龍蔵寺はむしろ畠山氏の持仏堂と理解される。その畠山館の玄関脇にある樹木下より風の強い日に「地鳴り」がしていた。家人が不思議に思い調べると、根元土中より鰐口が出土した。直径二三・五cm、厚さ五・五cm。銘帯に上総国滝上寺之鰐口と刻まれ、紀年銘の永和四年(一三七八)を正嘉二年(一二五八)に改刻したことは惜しまれる。千葉県最も古い鰐口として貴重な文化財である。畠山重兼の館と伝えている。先の畠山四郎右衛門と畠山重兼は兄弟なのか。宗祖の母・梅菊の兄弟、叔父なのかは不詳であるが、その可能性もある。歴史資料は無いが、源頼朝の時代に畠山氏もしくは秩父氏が安房国、上総国の一部(勝浦方面)を領有していた可能性がある。でなければ安房国押領使の本田氏が、何故武蔵国の畠山氏の家老職として移住するのか判らない。勝浦の上野(植野)は古代より大和朝廷の産鉄技術を有し、四国阿波より房州安房に東国開拓のため移住した「忌部族」の拠点である。植野と法花は隣り合せであり、勝浦の隣り御宿町は浜砂鉄が豊富である。畠山氏なら自ら望む領地である。

 その法華(花)村の畠山重兼は「上総国誌」によると元久元年(一二〇四)畠山重忠一族が安房国から上総国に移住し、さらに東金市の依古島に入り、南白亀川と真亀川に挟まれた湿地帯に水城「大関城」を築いた。水城は馬での攻撃は出来ない利点がある。戦国の畠山重康の時代、近くの土気城も畠山氏の城であったが、中野城主・酒井定隆の勢力拡大により土気城を撤退し酒井氏に対抗した。酒井隆敏(東金城主)の時代になり、大永六年(一五二六)十二月二十日攻められ落城となる。畠山重康の領地は二万八千石、兵数は三百といわれる。このように畠山重忠が謀殺される元久二年(一二〇五)以前に畠山氏は安房、上総、下総東金、領地を有していたと考えられる。鎌倉幕府の北条氏が元弘三年(一三三三)滅亡するまでの間は、畠山氏は姓名を変え、密かに亡命して暮らしていたに違いない。大関城主の畠山重康は上谷常福寺に逃れ隠れたが、翌年二月七日歿したとある。家臣の今関、山岸家は重康の甲冑姿の木像を祀ったが、のち僧形姿に変え「玄勘大聖人」として祀っている。

 

 九、安達泰盛と日蓮聖人

 日蓮聖人の生母梅菊は「元祖化導記」(日朝)や「日蓮大聖人註画讃」(日澄)によると清原家の女、父は遠江国の貫名重実の子重忠と伝える。また「産湯相承事」(日興)や「本化別頭仏祖統紀」によれば、父は三国の大夫と称し、母は桓武平氏の畠山一門の出身者であると伝える。そのほか「貫名系図略縁起」は、宗祖の母を北面の武士・山崎左近将監良兼の娘。「日蓮聖人御一代記」(柳水亭種清・年次未詳)は下総国大野吉清と道野辺右京の女との間に生まれた女性と伝える。

 宗祖の母系たる畠山家をみると、畠山重忠の最初に結婚した妻は、安達遠元の女である。安達(足立)氏は武蔵国足立郡を本拠地とする武将。平治の乱には源義明(頼朝の父)に従い、平安時代以来源氏の家人である。治承四年(一一八〇)十月、頼朝が平氏追討令を出すとそれに従軍する。元暦元年(一一八四)十月、公文所創設に当たりその寄人となり、幕政に参与する。遠元の二人の娘は畠山重忠と北条時房に嫁した。畠山重忠に嫁した安達遠元の娘・「菊の前」は夫の重忠が、元久二年(一二〇五)六月、北条時政、義時、政子により謀殺された報を二俣川戦場を見渡せる高台で受けた。夫重忠の戦死を悲しみ自害した。乗っていた駕篭ごと埋葬された事から「駕篭塚」と呼ばれ、横浜市旭区の史跡となっている。この「菊の前」(畠山重忠の妻)が梅菊の母と推考すると、安達氏と日蓮の系図は次の如くなる。

 

 

 

 

 安達泰盛の祖父・景盛は、建保六年(一二一八)三月で出羽守となり、秋田城を管し「秋田城介」と称し、これ以降「秋田城介」は安達氏の世襲する職となった。承久元年(一二一九)正月、将軍実朝の死により出家、大蓮房覚智(地)、高野入道と号し、高野山に金剛三味院を建立。明恵上人と親交を結び和歌の贈答があった。景盛のは徒然草で質素倹約を示した松下禅尼で、執権北条泰時の嫡子時氏の室となり、のちの執権経時、時頼を生んだため、景盛は外祖父として権勢を高めた。執権となった若き北条時頼と実力者三浦氏が対立すると、高野山より鎌倉に戻り、宝治元年(一二四七)安達一族が中心となり三浦氏討伐に成功した。(宝治合戦)

 このような人間関係を背景にして、文永八年(一二七一)九月龍口法難におて大学三郎は、日蓮聖人の助命嘆願を安達泰盛にするのである。

 

  大學三郎御書

「いのりなんどの仰セかうほるべしとをぼへ候はざりつるに、をほせにびて候事のかたじけなさ。かつはしなり、かつは弟子なり、かつはだんななり、御ためにはくびもきられ、遠流にもなり候へ。かわる事ならばいかでかかわらざるべき。されども此ノ事は叶フまじきにて候ぞ。大がくと申ス人は、ふつうの人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてゝかたうどして候し人なり。此ノ仰セは城殿の御計ヒなり。城殿と大がく殿は知音にてをはし候。其故は大がく殿は坂東一の御てかき、城介殿は御てをこのまるゝ人也。」

 

 安達泰盛は寛喜三年(一二三一)〜弘安八年(一二八五)の武将で、日蓮聖人より十歳年少である。父祖の権勢をうけて早くから将軍藤原頼嗣の近習であった。文永元年(一二六四)六月に三番引付頭、同十月より文永四年四月まで越訴奉行をつとめ、文永三年六月の将軍宗尊親王廃立には、北条時宗、政村、実時との秘密会議に参加し、それ以後二十年間、執権北条政村、時宗、貞時の三代にわたり幕政の重要な地位を占めた。弘安の蒙古来襲時には、子盛宗を九州へ送り、自らは鎌倉に在って恩沢奉行を務めた。安達泰盛の女は北条時宗の妻となり貞時を生み、安達氏と北条家の強い関係を築いた。弘安七年四月執権北条時宗の死去により泰盛は出家し、法名覚真となる。その頃、御内人代表の内管領(得宗家執事)・平頼綱(平ノ左衛門)と外様代表の安達泰盛の対立が表面化し、泰盛の子宗盛が源姓を名乗ったことから、謀友を企し将軍になろうとしていると、幼い執権貞時に密告され、(貞時の乳母は平頼綱の妻)平頼綱以下御内人勢力に攻められ、安達氏一族は滅びた。(霜月騒動)泰盛五十五歳。安達泰盛は好学の武将であり、朝廷の書道家たる世尊寺経朝から書論を送られた文人である。坂東第一と言われる能書家の大学三郎(比企能本)は旧知の師である。安達泰盛は信仰家で祖父・安達景盛が実朝菩提のため建てた高野山金剛三味院の法爾から弘安三年鎌倉で潅頂を受けている。その真言信仰の泰盛が法華経行者日蓮のため龍口法難の助命に動いたのである。安達泰盛の女が北条時宗の室となり懐妊中である。その期間の斬首は不吉という理由で、日蓮殺害を中止させたと言われる。(北条貞時は文永八・十二・十二生)但しそれだけの理由ではあるまい。泰盛にとって畠山重忠夫人は我が一門の安達家出身であり、父義景と畠山夫人「菊の前」は従兄弟であり、泰盛には叔母筋に当る。その娘が日蓮の生母「梅菊」と言う何らかの情報は得ていた可能性はある。縁もゆかりも無い一僧侶のために、侍所々司・平左衛門頼綱の「日蓮殺害」という意思決定を変更させる事は有り得ない。

 宗祖の母、梅菊が「菊の前」の娘だと推考すると、梅菊と大学三郎(比企能本)の生育ちは似ている。大学三郎の父・比企能員は源頼朝の乳母、比企尼の養子・寿永元年(一一八二)十月、源頼家が誕生し、その乳母夫となる。能員の女は頼家に嫁し一幡を生む。将軍頼家が病気重体になった建仁三年(一二〇三)八月、北条時政は関東二十八ヶ国の地頭職と惣守護職を一幡に、関西三十八ヶ国を弟の千幡(実朝)に譲ることに決定した。能員はこれに反対し、娘若狭局を通じて頼家に北条時政の専政を訴えた。頼家は能員に討伐を命じたが、この密議を隣室にいた北条政子から父時政に通報され、時政は仏事に比企能員を招いた。能員は家人の制止を聞かず時政の名越亭を訪れ、天野遠景、新田忠常に刺殺され、比企一族は一幡を擁して小御所を護ったが敗れ、自害し、頼家も将軍を廃された。(比企氏の乱)この時、三歳の比企能本(大学三郎)は安房に逃れ一命を保った。幼い能本は畠山一族に世話になったのではと筆者は推測する。畠山重忠三十八歳の成熟期である。伯父の伯耆法印圓顕に引き取られ京都東寺に身を移し養育される。儒者として見出され、順徳天皇の侍者として承久の乱(一二二一)には、順徳天皇の供として佐渡に渡り、嘉禄年中(一二二五─二六)には上皇のもとを離れ鎌倉に戻る。これは能本(大学三郎)の姉(讃岐局)が将軍頼家に嫁ぎ、その子たる「竹の御所」が将軍頼経の夫人となったことから赦面され、儒者として幕府に仕えることになる。日蓮聖人より二十一歳年長である。宗祖は幕府献白の「立正安国論」の構文・校定を大学三郎に依頼している。鎌倉幕府の儒者、坂東一の書道家が旃陀羅出身の日蓮聖人に帰依するだろうか? その大学者である大学三郎(比企能本)が三十歳年少の安達泰盛に龍口法難の日蓮助命を依頼し、動くだろうか? 大学三郎がそれほどまでして護る日蓮という人物は、如何なる出自なのか、そのえにし(由縁)を知っているからであろう。大学三郎(比企一族)がその生い立ちの中で日蓮関係者に恩を感じる程の事柄が有ったと考えられる。

 

十、梅菊の出自

 一方、日蓮聖人の生母梅菊が畠山重忠と「菊の前」の間に生まれた人物であるとすれば、元久二年(一二〇五)六月の畠山重忠謀殺の二俣川合戦の時、畠山重忠は四十二歳、自害した「菊の前」は年齢不詳であるが五〜十歳年少であろう。「菊の前」に女子二人がいる。亀姫二歳、菊姫四歳である。勝浦法花(華)の龍蔵寺過去帳によると、菊姫(のちの梅菊)は承久元年(一二一九)千葉介胤綱ノ取次、菊姫十八歳、貫名重忠に嫁す。重忠二十九歳」とある。

 龍蔵寺過去帳によると 菊姫はのちの梅菊であり、建仁二年(一二〇二)生まれ、弟の畠山重兼は二歳下の元久元年(一二〇四)生まれとなる。母方祖父の畠山重忠が謀殺された元久二年(一二〇五)には菊姫は四歳であり、亀姫、重兼が共に二歳であることは、そのどちらかが腹違いの兄弟と 考えられる。

 また貫名重忠が正嘉二年(一二五八)二月十四日歿、六十八歳の龍蔵寺説によれば、建久二年(一一九一)の生誕であり、母の梅菊が文永四年(一二六七)八月十五日歿、六十六歳とすれば、母の誕生は建仁二年(一二〇二)となる。承久元年(一二一九)に梅菊十八歳、貫名重忠は二十九歳の時、後鳥羽院は四十歳、土御門院は二十五歳、順徳院は二十三歳である。宗祖生誕の貞応元年は四月に改元されるので、二月十六日の宗祖生誕はまだ承久四年(一二二二)である。この時、貫名重忠は三十二歳、母梅菊は二十一歳で日蓮聖人を出産したことになる。もう一つの伝承である貫名重忠の安房配流、三十二歳。梅菊十九歳説(誕生寺・妙蓮寺説)を取れば、正嘉二年(一二五八)歿の貫名重忠は八十七歳、九年後の文永四年歿(一二六七)の梅菊は八十一歳となり長命すぎる感がある。

 龍蔵寺伝承によると、畠山重忠が合戦死した時、四歳と考えられる菊姫はどこへ避難したか?おそらく房州へ渡り、畠山氏家老の本田親恒(ちかつね)領の保田を経由して鴨川、小湊、勝浦法花の畠山館へ避難したと考えられる。四歳より十八歳で貫名氏へ嫁ぐ間の十四年間の生育は不詳であるが、畠山重忠自身の北条幕府謀叛説は、すぐ否定される。それは畠山重忠が一三四騎と少軍勢であったことと、畠山軍が武具を着せず二俣川まで到着したことで、鎌倉武士には畠山の謀叛の意志が無い事がすぐ分かったのである。事実、北条時政が畠山討伐令を出した時、子の北条義時は畠山擁護の態度を示したと伝わる。よって徹底した畠山追討は少なく、遺領は正室へ伝領される。(正室の栄子は北条時政の女で、吾妻鏡では足利義純と再婚)。このような情勢下で勝浦法花の畠山館、東金の大関城(畠山重兼)も残ったと考えられる。日蓮聖人の鎌倉・京都研学の費用も、畠山家及びその有縁者から富木胤継、領家尼を通じて資金提供も可能であったと考えられる。畠山重忠の死(一二〇五)より二年前の建仁三年(一二〇三)の「比企能員(よしかず)の乱」に、安房に逃れ三歳の比企能本(のち大学三郎)は、京都で学び儒者となることが可能であった。梅菊も姓を変え、鎌倉、京都に出ることは可能であったろう。事実、畠山重忠の殺害されたあと、子息の畠山小三郎重慶は日光へ逃れたが、のち埼玉都幾川の名刹慈光寺別当となる。弟の円燿も慈光寺別当となり、薩摩に下向し大久保利通の祖となっている。

正室、側室

 北条時政娘(正室)(栄子?)吾妻鏡では足利義純と再婚

 足利遠元の娘(側室)(菊の前)(その娘、梅菊日蓮の母?)重忠最初に結婚した女性

 本田家の加紀屋  (側室)

 その妹        〃

 田村氏の娘      〃

 松尾姫の母      〃

 松崎姫の母      〃

 夙妻         〃

 平宗盛の女 石川県に資料有調査中

(清水寿氏作成図)

 

 畠山重忠の子・重季は本田家に養子に入り、本田貞親として薩摩に下向、島津家々老となる。忠澄、重尚も薩摩に下向すし、六女は(家老本田氏の娘を畠山の養女として)薩摩藩主・島津忠久の室となり、畠山・本田の血脈は関東各地、そして遠く離れた薩摩、日向、大隅に流れて生きている。

 

 以上の如く、宗祖日蓮聖人の出自については不確かな伝承しかない。筆者は宗祖並びに初期教団が、意図的にその出自を隠されたとしか思えない。宗祖が生誕されるのは、畠山重忠が討殺された十七年後である。畠山家の血脈を引いた人物とは公表できなかったであろう。それが旃陀羅出自説の根底にあるナゾである。大久保雅行氏は「日蓮誕生論」において、次の如く述べている(一〇一〜二頁)

 

 日昭は父印東次郎左衛門尉祐昭、母工藤祐経の長女(妙一尼)、日朗は父平賀二郎有国、母印東祐昭の次女(日昭の妹)、日興は父大井橘六、母由比氏の娘、日向は父男金の藤三郎実長、日頂は、父南条伊予守定時、母は定時死後に富木常忍に再婚、日持は父松野六郎左衛門の次男とされる。彼らは概して武士階層に属する。この他にも日蓮の弟子檀越には天皇の家臣団の関係者が多く見られる。この点に付いて、石川修道の「名刀『数珠丸』への一考察」の説も引用しておこう(『日蓮宗新聞社』H六(一九九四)・六・二〇)。

 伝承によると、宗祖の檀越に天皇近従の武士またはその子孫と伝えられる人々(北面西面の武士)がいる。(イ)阿仏房は左馬允龍口為長の四子で遠藤盛遠の弟。北面の武士。(ロ)富木常忍の父光行は後鳥羽院西面の武士。その先祖土佐判官光行は鳥羽院四天王の一人と言われる。(ハ)日向上人の父は男金藤三郎実長。祖父と言われる小林民部実信は北面の武士。そこで日向上人を民部阿闍梨佐渡公と言った。(ニ)貫名重忠、梅菊を小湊の浜で迎えたと言われる瀧口兵庫の「瀧口」は御所内裏の滝口陣を守護する蔵人職の武勇の士で官職名による。(ホ)瀧口三郎左衛門の娘「雪女」は日蓮の本乳母であった(西蓮寺文書)。(ヘ)日持上人の生家、父松野六左衛門は京都西華門院の蔵人職。自宅は蔵人屋敷法蓮寺と呼ばれる。(ト)四條金吾は本名中務三郎左衛門という。中務(なかつかさ)とは宮中八省の中務省を意味すると思われる。宮中政務を扱い、天皇に侍従した内薬司があり、天皇の健康管理に関与する。四條金吾も宗祖の侍医役を仕めた。(チ)日蓮の乳母・梅菊は清原氏出身で。第四十代天武天皇の子、舎人親王三十五代の後胤山崎左近従五位良兼の娘。良兼は修理太夫信隆公の甥。後鳥羽院北面の武士と言われる。(リ)他の伝承(御書略註)によると、梅菊の父大野吉清、そのまた父を清原右衛門尉清定と言い、代々故実の博士、大進家という。皇后の宮の大進(かみ、つかさ)長官であったと言う。

 この他にも(ヌ)池上本門寺の重要文化財、祖師像の施主は胎内銅筒によると「弘安五年壬午十月十三日巳刻遷化、大別当大国阿闍梨日朗、大施主散位大中臣(池上)宗仲・大施主清原氏女」とあり、池上宗仲公の室が清原出身と判る。(ル)梅菊の兄大野政清の室も清原一族(大進)の出身と言われ、その子である曽谷教信は大野次郎兵衛尉清原ノ教信と言う。それ故、教信の弟は出家し、大進阿闍梨日行(三位公)と称した。彼が建治二年没すると、曽谷教信は子供を出家させ、大進阿闍梨を襲名させ日心(日進)と号し身延山三世を継承している。このように日蓮のまわりには、天皇近従の武士を祖に持つ弟子檀越がいる。

 これらから日蓮の家系はなお不明だが、戸頃(重基)は武士の身分に由来と推定し(『日蓮の思想と鎌倉仏教』四九六頁)、石川修道は後鳥羽院との関係を「珠数丸」に基づいて推察しており、いずれも旃陀羅の自称は出身の秘密を打ち明けたことばとはならないという見方に立っている。この様な見方の原型の一つはすでに「此等皆卑下の御言也。世に此例あり明恵上人の書状に明恵は旃陀羅が家より出たりと書き玉ふ此類也」(「日蓮聖人年譜」 日精)にも見えている。更に川添昭二も権守に関連して、有力名主層から有力地方豪族の家系を推定している。

 それでは何故日蓮はこのような旃陀羅が子としての出自の自己規定をしているのであろうか。網野善彦は鎌倉仏教の共通課題に求めて次のように述べている。すなわち「世にたぐいなき悪人なれ共、南無阿弥陀仏ととなえれば、一念にても、決定往生をとげ候なりと言い女性の不浄を否定し、遊女往生談によって知られる法然」、「悪人正機を強調し妻帯を積極的に肯定した親鸞」、「非人の救済に力を注いだ叡尊」、「女性・非人の血縁、往生を課題とした一遍」、そして「自らを旃陀羅が子といった日蓮も、女性の血穢による不浄観を否定」するという末法の悪人である武士や旃陀羅、遊女、賤民等の救済の目的によるというのである(『中世の非人と遊女』 一九七頁)。

 

  おわりに

 

 日蓮宗門おいて長らく宗祖の生母・梅菊の出自研究はなされなかった。日蓮聖人自身も、自らの出自を明示せず「旃陀羅が子なり」と言うのみである。この時代、多数の兄弟でも、その半数が幼年で死去する時代である。宗祖は何人兄弟で、その何番目の子であるかを説示しなかった。建長五年の立教開宗時、宗祖の言説(法華第一・念仏批判)に多くの聴衆が驚き反対したと伝わる。その中で両親が我が子を信じ改宗・受戒し、最初の弟子信徒となり、「妙日・妙連」の法号を授かった。「法華経は内典の孝経なり」(開目妙)と孝を重視した日蓮聖人である。多くの論文・消息文を記した日蓮遺文に、両親宛の手紙類が一通も残っていない事は不思議である。これらは承久の乱や鎌倉幕府内の闘争を時代背景に封印・隠蔽されたに違いない。本論は、日蓮伝承の「宗祖の母・梅菊は畠山重忠の一類」なりを論究した。その中で宗祖を外護した千葉家文官の富木胤継や池上宗仲などは、畠山重忠と強き絆が結ばれていた事が判明した。千葉家始祖の千葉常胤の妻は、畠山重忠の叔母であり、池上宗仲の母は畠山一族の畠山祐昭と工藤祐経の娘の間に生まれた娘(長女)であり、弟は弁阿闍梨日昭師となり、妹(二女・妙朗尼)は大国阿闍梨日朗(筑後房)の母であった。

 畠山重忠は武蔵国の領主のみならず、奥州征伐の勲功により奥州葛岡、相州木古庭・釜利谷、伊勢国治田廚などを領し、房総の二子(鴨川)や法華(勝浦)にも領地を有していた。その多くが産鉄地であり、武将としての畠山重忠に産鉄民として「鍛冶師の統領」であった事が窺える。畠山の鍛冶師として武器製造と、その資金力に恐れたのが、北條時政、義時、政子であった。逆にその産鉄による豊富な資金力が宗祖の幼年から立教開祖までの十五〜二十年間の清澄・鎌倉・京・奈良の勉学資金となったと考えられる。それらは領家尼や富木殿を通じて宗祖に提供された筈である。清澄寺の虚空蔵菩薩を「智恵」の菩薩と把えるのは一面であり、「産鉄神」としての虚空蔵を把えなければ日蓮信仰の深層は見えてこない。宗祖が佐渡流罪の往復に一泊した武蔵国の児玉一族(玉連寺)が何故、改宗し宗祖を外護したのか、産鉄民としての畠山重忠と児玉一族(のち久米家)が判らないと日蓮聖人の人脈の謎が解けないのである。畠山重忠の本貫地である秩父の入口(都幾川村)にある天台宗名刹・慈光寺は清澄寺と人的交流・物流も強き関係が有り、千葉県文化財の清澄寺梵鐘(明徳三年・一三九二)は畠山の隣地の塚田道禅作である。また埼玉県で最初の国宝になった慈光寺蔵・後鳥羽上皇や関白九条兼実等の書写した法華経一品経は、畠山重忠や比企氏の関与がなければ慈光寺に納まらなかったと考えられる。

 産鉄民(鍛冶師)統領としての畠山重忠は、壬生系足立(安達)氏と関係を持ち、一は池上宗仲夫人となり、二は龍口法難の日蓮■命運動に動いた安達泰盛との関係である。これらの関係も宗祖の母が畠山家出自であれば、宗祖の人脈関係の謎が解けるのである。

 日蓮聖人の弟子。日朗師誕生は下総国野手の朗生寺と伝わっている。父は平賀有国と言う。平賀の地名は現在も印旛沼の東に存る。よって平賀は「印東」である。印東氏の実像は千葉家の支族であろう。だから境持日通の「玉沢手鑑」に畠山祐昭を「印東祐昭」と別称するのは間違いでない。印東は平賀であるが、畠山を印東と別称した当処は、北条幕府の謀友人としての畠山姓を消す必要が有った為と考えられる。印旛沼の東を延張すると、平賀—富里—三里塚—多古—飯高寺(八日市場)となる。日蓮の弟子・日高、日祐(法華経寺)や檀越金原法橋、斎藤兼綱(茂原殿)が活躍した千葉胤貞の千田庄がある。しかし朗生寺は匝瑳南条庄であり、印東・平賀とは離れ過ぎている。そこで、宗祖の母・梅菊の弟と考えられる勝浦・法華村の畠山重兼が、父の重忠の領有する下総国依古島(東金市)大関城に進出し拠点としたと考えると疑問が解けてくる。大関城を拠点に浜砂鉄を求めて九十九里海岸を八日市場方面に北上すると、成東町に「本須賀」八日市場に「横須賀」という産鉄地名が存在している。鍛冶技術の畠山一族だったら当然、採鉱目標となる地点である。八日市場の「横須賀」の海岸寄りが、野手の朗生寺である。畠山氏の大関城から二〇〜二五kmの所に、畠山氏の小さな居住地が有れば、そこで日朗師が誕生した可能性はある。そして平賀有国の死去に伴い、日朗の母・妙朗尼は平賀忠晴に再嫁し、日像(経一磨)・日輪(亀王磨)を出生し松戸の平賀(本土寺)に住するのである。このように宗祖の母を畠山氏出自と考察すると、日蓮聖人と千葉氏・富木胤継。宗祖と池上宗仲。宗祖と壬生系清原家、壬生系安達泰盛の関係が明瞭となってくる。龍口法難のおける日蓮■命に安達泰盛が関与する理由が見えてくるのである。

 

※清水 寿氏に多くのご教示を頂き、勝浦畠山氏末裔の田口としよ氏(柏市住)に現地調査に同道いただいた事に深謝致します。

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