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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

宗教的情操を獲得する課程について—唱題行による意識変容の研究から—

 

平成十九年度第8回日蓮宗教化学研究発表大会
 
宗教的情操を獲得する過程について
 ─唱題行による意識変容の研究から─
 
影 山 教 俊
 
<発表要旨>
 坐禅などの瞑想行によって誘導された意識変容の生理心理学的データ(脳波・呼吸数・心拍数など)と、唱題行によって誘導された意識変容の生理心理学的データを比較すると、なぜお題目を唱える法華系教団が流行るのか、そのすう勢がおおよそ理解できる。そして、このような意識変容の研究によって宗教的な情操を獲得する過程を理解してゆくと、宗教的な情緒の普及を目的とする「教化学」の何たるかが具体的に見えてくる。
 
1 はじめに
 
 今回は「宗的情操を獲得する過程について」—唱題行による意識変容の研究から—と題して、「教化学とは何か」を明らかにしたいと思う。なぜなら、日蓮宗は戦後いち早く現代宗教研究所を設立し、現代宗教の諸問題について研究をはじめ、とくに戦後まもなく折伏大行進と称する勧誘活動で大躍進を遂げた創価学会においては、その過激な教義の誤謬を精査し徹底的に破折するなど大きな成果を上げてきた。
 その後、このような現代社会の宗教現象に対応するための方策として、教学の現代的な解明が進められるにいたり、それは教化学と総称されるようになってきた。しかし、現在においても「教化学とは何か」という具体的な位置づけがなされていないために、種々雑多な考え方や研究方法が併存し曖昧模糊としたものになっている。
 ここでこの曖昧模糊としている教化学を学術的に位置づけるために、一つの模となる研究のあり方を披瀝しておきたい。それは医科学と看護学の関連である。従来、医療の世界では看護は医学の支配下にあり、医師の指示で看護師が患者を看護するという位置づけにあった。しかし、近年になって医科学と看護学は完全に分離し、看護学の知見から看護師が医師に患者の治療法を指示することもあるようになった。
 医師は治療の対象として患者を見るが、看護師は病気に苦しみ一喜一憂する患者の立場から治療を支援すべく看護する。すなわち、看護学とは看護師の現場の学問と言うことである。もし教学を医科学として比較すれば、教化学はまさに看護学そのものの立場になるとといえる。すなわち、教化学は布教教化という現場の学問だということである。
 ここで発表要旨へと話を展開し、従来行われてきた教化学の研究へと論を進めれば、今回発表する修行によって誘導された修行者の意識変容の生理心理学的な研究は、従来の教化学の研究方法は人文科学であり、後者が経験科学である。一見するとその研究分野がまったく異なっているために違和感を抱く方もあると思う。しかし、この二つの研究方法は、宗教現象(既存の思想信条を含む宗教的な「おこない」や振る舞い)に関連する研究には欠くことの出来ない両輪なのである。
 なぜなら、現在、教化学を学問的に論じようとすれば、常に宗教現象が人文科学の手法から思想信条によって論じられているように、やはりそのすう勢は思想信条によって論じられているに止まる。しかし、宗教現象は信仰による「おこない」(信行・修行)を前提として成立している以上、宗教的情操の普及を目的とする布教教化も、単に思想信条によって観念的に論ぜられるだけに止まらず、ヒトの生理心理的な状態として評価することも可能だからである。
 とくに近年になって「教化学」の必要性が声高に叫ばれている背景に、現代教学(宗教の教義理論の研究)が現代社会への布教教化につながらず、とくに宗内の現状を挙げれば、これまで『立正安国論』に学んだ諸師が、声を大にして「立正と現代社会」、はたまた「安国と現代社会」と叫ぼうとも、「ああ、それは僧侶方のそういう思想信条なのですね」と、なんとも社会的に閉塞した状況になっている事実が指摘できる。
 現代宗教研究所の「研究と調査規程」の冒頭にも、「教学の現代的解明に関する研究」(日蓮宗現代宗教研究所規程第二条第一項)とあるように、いま宗門では教学を現代的に解明しなければならない状況になっていると言うことである。
 ところが、これまでの教化学のとり組みとして行われている「教学の現代的解明」は、そのほとんどが人文科学の手法から思想信条によって論じられており、これでは教化学もさきに指摘した現代教学の問題をそのまま抱え込む結果になりかねないのである。ここに「教化学」とはいったい何であるかを明らかにする必要性があるということである。
 このように理解してくると、論点が教化学のとり組みとして行われている「教学の現代的解明」にあるのではなく、教化学を要請した社会状況、現代教学が現代社会の布教教化につながらないという宗教現象の解明にあると言うことである。
 このため宗教現象を研究する方法を限定して、どのようにしたら思想信条を離れ、客観的な考察が可能になるかを考えれば研究方法は二つある。一つは信仰による「おこない」にはげむ修行者への生理心理学的なアプローチ(意識変容の研究)、これによって修行者の宗教的な生理心理状態が評価できる。もう一つは文化史的事実の積みあげである。事実としての事例を拾いあげて、論ずる方法である。今回は前者の方法を前提にしながら、文化史的事実を踏まえて論及を試みた。
 
*1 宗教(religion):神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。(広辞苑第5版)
 
2 なぜお題目を唱える教団にヒトが集まるのか
 
 いままで「なぜお題目を唱える教団にヒトが集まるのか」という論題で行われた研究は、そのほとんどが人文科学の手法から、とくに教相判釈などによって思想性の優劣によって論議されてきた。ここでは経験科学の手法によって、坐禅などの瞑想行に誘導された意識変容の生理心理学的データ(脳波・呼吸数・心拍数など)と、唱題行によって誘導された意識変容の生理心理学なデータを比較し、宗教現象としての唱題行の優位性を明らかにしよう。
 まずここで経験科学の研究方法の一つである行動科学の手法を解説しておこう。行動科学とは、ヒトの存在を心と身体(心理と生理)の二つのファクターから理解することである。そして、この心と身体は「感情的に怒れば、心拍数が増加し血圧が上昇する」という、「悲しい気分になると、胃酸の分泌が抑えられ食欲がなくなる」という相関関係にあることを知るところからはじまる。まさにこの心身相関のメカニズムから、唱題行によって感情が鎮まれば、心と身体が共に安定し宗教的な情緒性が獲得され、宗教的にも健康になることが解説できる。
 近年、行動科学の研究成果から、禅の瞑想やヨーガの瞑想などによって、心理療法として医学的に確立した自律訓練法と同様に、神経症や心身症にまつわる症状の改善が報告されている。またそれは唱題行という修行法も同様である。
 それは唱題行によって「こころ」の無意識の扉が開かれて、それまで無意識の中に隠されていた悲しみや、怒りや、不安といったストレスが解放されたことを意味する。まさに日蓮聖人が観心(自分自身の心を観じて、地獄界から仏界までの十法界知ること)と呼んだ状態のことである。この修行法によって誘導された瞑想状態(変性意識状態・Altered State of Consciousness)が、心と身体の安定を促進させ自己調整能力(homeostatsis)を回復させるからだとい。
 さらにこの状態の生理学的な特徴は、脳波は通常の二〇ヘルツ以上の高振動のβ波から一〇ヘルツ代のα波ベースへと徐波化し、心拍数は不随筋の弛緩によって血管が拡張するため減少すると、現代の心身医学は解説している。
 
(1)坐禅などの瞑想行による意識変容の生理心理学的データを解析する
 まず修行者は「図1」のような生理学的測定器、日本電気三栄製の汎用脳波計(Electro Encefalogram 一A七四)を用いて五つの生理学的測定を行った。
・脳波8チャンネル
・容積脈波
・微細振動(Minor Tremor)
・鼻からの呼吸はサーミスター・ピックアップ
・腹部呼吸はカーボンチューブ型ピックアップ
 また計測機器が実習者の身体の微少な電位を計測するため、実習者は図のようにアースされたベッド上で坐具を用い「半跏坐」にて座り瞑想をはじめた。
 さて実習者の生理学的データから仏教用語を解説しよう。とくに脳波のアルファー・インデックス(α─INDEX)「グラフ1」と、心拍数(脈波PR─INDEX)「グラフ2」から評価すると、実習者の修行深化の過程が、次のように1「行法開始直後」、2「行法開始後二五分前後」、3「行法開始後四五分前後」の三つの段階に分類できた。
 この三つの段階をさきの実習者の報告を交えながら評価すると、止観の実習と自律訓練法に見られた「自律的ASCの誘導プロセス」の四種類の分類と大変良く相応していることが分かる。
 ㈰行法開始前の安静時
 この段階は行法を開始する前のコントロールをしている段階で目を閉じて座っている状態で、α─INDEXは三〇パーセント代、心拍数は八〇代で安定している。
 
 ㈪ 1「行法開始一〇分後」
 この段階は㈰「練習を始めるために、心身をリラックスさせる条件」から㈪「意識の身体的要素への集中(止の作法)」への実習によって、外界に向いていた意識が身体的な要素(呼吸、温感、重量感)へと集中されたことで、意識が単純化した状態を示し、脳波は前頭部、頭頂部を中心にアルファー波が全体へと同期する傾向を見せている。さらに呼吸は、身息から調息へと意識的に呼吸しているために、その数はとても少なく一分間に三回前後であった。また心拍数は一分間に八〇回代から六〇回代へと減少する傾向を示し、その後さらに減少している。
 このような生理状態では、自律神経系の交感神経系の機能が抑制され、副交感神経系が優位となる傾向を示している。副交感神経系が優位になるいうことは、変性意識状態が誘導され生理心理学的にリラックスが進んでいるということである。
 
 ㈫ 2「行法開始後二五分前後」
 この段階は㈬「その結果として生ずる心身の変化」として、さきの「1の行法開始直後」の段階が深まり、さらに意識が身体的な要素へと集中されたことで、生理的弛緩が広がり、変性意識状態(瞑想状態)が誘導された状態である。そして、それによって個人的な無意識に取り込まれている情動が発散し始め、生理的には、脳波ではアルファー波やFMシータ波の出現も見られるが、全体としてはベータ波優位になり始めている状態である。
 このような情動の発散が起きると、その情動の心理的、生理的な刺激によって呼吸数も一分間に六回へ、心拍数も一分間に七〇回〜八一回へと共に増加して、前段階より交感神経系の機能が昂進し、副交感神経系より優位になっている。ここでは前段階で誘導されていた変性意識状態が情動発散によって乱されているのである。
 
 ㈬ 3「行法開始後四五分前後」
 この段階は、「2の行法開始後二五分前後」の段階の情動発散が刺激となって変性意識状態が乱され始めたため、㈫「意識の精神的要素への集中(観の作法)」を実習することで、その無意識からの応答として意識野に立ち上がる精神的要素(雑念などの刺激)を受動的受容(passive acceptance)しながら、その情動をさり気なく受け入れることで安定した自律的ASCを誘導し、そのために情動発散が続いているにもかかわらず、脳波的には優勢なFMシータ波が認められ、九ヘルツ、九〇マイク・ロボルト代の高振幅のアルファー波が脳全体に誘導されて同期している状態である。また心拍数も一分間に四八回へと低下した。呼吸数は一分間に一三回と増加したが、この増加は意識を身体的要素から精神的要素へと移行したため、意識的な呼吸から無意識的な一回の換気量の少ない自然呼吸へと変化したからである。
 そしてこの生理的な状態は、情動発散により交感神経系の機能昂進は続いているが、㈫「意識の精神的要素への集中(観の作法)」によって副交感神経系の機能も昂進し、共に拮抗しながら全体的には副交感神経系の機能が優位になっているのである。
 そして、このような生理学的な所見は、従来の「自律訓練法」の心理学的、生理学的な研究成果、すなわち「自律訓練法」の技法は筋緊張の弛緩、呼吸の調整などの末梢性のセルフコントロールによって、脳幹網様体・視床下部賦活系に至る求心性の刺激が適度にコントロールされること、さらに視床下部では交感、副交感の両自律神経系のバランスを促し、新皮質への交感性の賦活を減少させること、さらにまた皮質下(脳幹)の副交感性(trophotropic エネルギー補充的)の反応を活発化させることで、自律的ASC状態を誘導し大脳皮質と皮質下(視床、視床下部)との機能的な再調整を促すものであることなど、ほぼ同様の結果をえたといえる(WLuthe、FGellhorn、池見酉次郎)。また、このような脳のリズム活動の増加は、前頭連合野の統合性が高まることによって、より高次の意識や高い精神機能(宗教的には悟境)が誘導されたことを意味し、実習者の報告からも自我意識の安定性と時間的連続性が維持されていることがわかる。
 またこの止観の実習時の生理学的な特徴は「超越瞑想(TM)の生理学的効果」の報告とも一致している。
・酸素消費量と二酸化炭素排出量の大幅な減少による深い休息が見られること
・呼吸数、分時換気量、心拍数な低下するなど基礎代謝が低下すること
・皮膚電気抵抗値が急激に増加し、深いくつろぎの状態にあること
・動脈血の酸素分圧と二酸化炭素分圧、酸塩基平衡、血圧等の生理機能が安定すること
・動脈血の乳酸濃度の減少していること
・脳波の変化は前頭部と頭頂部でアルファー波とシータ波が増大し、深い休息状態にあること
 超越瞑想では、これらの生理学的な特徴を総称して「深い休息を伴なう目覚めの機敏さ」といい、これを第四の意識状態と呼んでいるのである。(拙著『仏教の身体技法』国書刊行会 二〇〇七年)
 
*2 瞑想状態(変性意識状態・Altered State of Consciousness)
   瞑想などの修行法によって誘導される意識状態は、変性意識状態(Altered State of consciousness)、または瞑想状態と呼ばれている。そして、この瞑想状態は生理的な情動回路(emotional-cirucits)によって作られる神経生理学的な現象で、それによって身体感覚と密接に結びついた情緒的な意識(情動)をコントロールする。さらに皮質と皮質下(心理と生理)の力関係を調整し、普段は抑えられがちな自己調整能力(homeostatsis)を回復させるという。修行法はこのような意識状態を誘導することで、まさに私たちの心と身体の分離から生ずるさまざまな神経症的、心身症的症状の解放を目指す技法といわれている。(池見酉次郎編著『科学・技術と精神世界』青土社、WLuthe編『自律訓練法』池見酉次郎監修誠信書房、佐々木雄二著『自律訓練法の実際』創元社)
 
(2)唱題行によって誘導された意識変容の生理心理学なデータを解析する
 まず「図1」のように生理学的測定機器を着装し、はじめの二〇分ほどは浄心行によって呼吸法によって心身を調え、その後に日蓮宗宗定本尊(臨滅度時の御本尊宗)を対境とし唱題行のプロセスに準じ三〇分ほどお題目を真剣にお唱えする。そこで汎用脳波計によってその唱題時の脳波、容積脈波、微細振動、鼻からの呼吸、腹式呼吸などを記録したが、今回も脳波のアルファー・インデックス(α─INDEX)「グラフ3」と、心拍数(脈波PR─INDEX)「グラフ4」で評価した。
 「グラフ3」は脳波のα─INDEXの推移、「グラフ4」は心拍数のPR─INDEXの推移である。生理学的には脳波のα─INDEXのパーセンテージが高ければ瞑想状態は深く、また心拍数のPR─INDEXは低ければやはり瞑想状態は深いことを示す。
 
 ㈰グラフの推移は[開始]から二〇分までが「浄心行」の段階
 グラフの推移は[開始]から二〇分までが「浄心行」で、三〇分あたりから五〇分までが「正唱行」である。まず「浄心行」の[開始]から二〇分あたりまでは、脳波のα─INDEXでは三二パーセント代へと上がり、心拍数のPR─INDEXでは六八回へと減少して瞑想状態が誘導されはじめている。
 ところが、共に二〇分から三〇分あたりで変化が見られ、α─INDEXでは三二パーセント代から三一パーセント代へと下がり、心拍数のPR─INDEXは六八回から六五回と減少が緩慢になって、この段階では誘導されはじめた瞑想状態によって、実習者の無意識の扉が開かれたため、意識の中にストレスによる雑念が流れ出たために瞑想状態が乱されていることが分かる。
 
 ㈪「正唱行」の段階
 そして、次の「正唱行」の段階では、α─INDEXは四〇パーセント代から四三パーセント代へと上がり、心拍数のPR─INDEXは六一回から五〇回へと急激に減少し、安定した瞑想状態が誘導されていることが分かる。
 これによって唱題行においても、さきの坐禅などの瞑想行によって誘導された瞑想状態(変性意識状態・Altered State of Consciousness)と同様の生理心理状態が誘導されたことが分かる。
 
(3)坐禅などの瞑想行と唱題行の生理心理学的データの比較から分かること
 この両者の比較で明らかになったことは、坐禅などの瞑想行と唱題行はその修行プロセスは異なっていても、誘導された瞑想状態(変性意識状態・Altered State of Consciousness)は共に同様な生理心理学的状態であると言うことである
 しかし、さきの坐禅などの瞑想行と唱題行の脳波と心拍数のグラフを比較すれば一目瞭然で、坐禅などの瞑想行では瞑想状態が誘導されはじめると、いっとき安定した心理生理状態が情動発散と呼ばれる生理心理的な刺激で瞑想状態が乱され(「グラフ1・2」の二五分前後)、その刺激を意識集中などの瞑想技術で補正して、瞑想状態を維持していることが分かる。
 かたや唱題行はどうかと言えば、唱題する時間と共に生理心理状態は安定し、瞑想状態が深まっていることが分かる。もう少し解説すれば、この生理心理的な変化でなにが分かるのかといえば、坐禅などの瞑想行のように、身体や呼吸の心地よさに意識集中をして瞑想状態を誘導する修行法より、南無妙法蓮華経のお題目を観想し唱える唱題行の方が、より簡便に瞑想状態を誘導できるということである。
 なぜなら、声を出すという行為はそのままストレスの発散につながる情動作業のため、ストレスの発散にともなう脳への刺激が声を出すことで情動処理され、安定した瞑想状態が継続的に維持されるからである。
 さきに「お題目を唱える新興が仏教教団が隆盛である理由が見えてくる」といったのはこのためである。坐禅のように黙して語らず、意識を呼吸などに集中し瞑想状態を誘導する修行法は、それなりに脳を刺激する情動処理のために高度なテクニックを身につける必要がある。唱題行はといえば、南無妙法蓮華経のお題目を声を出して真剣に唱えることで、より簡便に瞑想状態を誘導できるのである。
 このようなお題目による修行法の効用によって、お題目を唱える新興教団が隆盛と考えるのは早急すぎるだろうか。唱題行は無理することなく宗教的な情緒性を簡便に獲得することができるのである。
 
3 行動科学から宗教現象を解明して何が見えたか
 
 いま経験科学の研究方法の一つである行動科学の手法によって、唱題行によって感情が鎮まれば、心と身体が共に安定し宗教的な情緒性が獲得され宗教的に健康になる、という生理心理状態が誘導されていることが分かった。さらにこの修行法によって誘導される生理心理状態が意味するものは、修行法(宗教現象)が宗教的な情緒性の獲得をその目的として構築されていると言うことである。
 仏教という宗教現象の目的が「抜苦与楽のケア」にあれば、そういう宗教的な情緒性の獲得が行わなければならないと言うことである。ところが、これまで教化学のとり組みとして行われている「教学の現代的解明」は、はじめに指摘したようにそのほとんどが人文科学の手法から思想信条によって論じらているため、現代教学の問題をそのまま抱え込む結果となっている。
 ここで現代教学の問題が何処にあるかを指摘すれば、まさに獲得された宗教的な情緒性(心と身体の体験)を思想信条によって、観念的に論ずるところにあると言える。なぜなら、さきのように宗教現象がヒトの宗教的な情緒性の獲得を目的とするということは、それはヒトの生理心理的な状態の追求であり、まさにそれは具体的な「おこない」そのものである。かたや現代教学はその現象を思想信条によって論ずると言うことは、ヒトの「おこない」(生理心理的な状態)を観念化しているに他ならないと言うことである。つまり、この「おこない」を観念化し思想信条として論ずる現代教学は、人文科学の学問研究としては成立するが、宗教現象としては成立しないことを意味する。
 さきに「教化学を要請した社会状況、現代教学が現代社会の布教教化につながらないという宗教現象の解明にある」と言ったのはこのことである。ようは現代教学は学問であって、宗教ではないと言うことである。教化学を要請した社会状況は、学問を求めたのではなく宗教現象そのものを希求していると言うことである。この意味で教化学とは、現代教学を宗教現象へと、宗教的な情緒性が獲得できる「おこない」へと誘う学問的な方策だと言える。
 ところで、いま現代教学は学問であって宗教ではないと言ってしまったが、さらに浅学を省みずに言えば、思想信条として語られる日蓮教学は、教義学として学問的には成立するが、宗教的には成立しないと言うことでもある。くり返すが、思想信条として語られる現代の日蓮教学は哲学的な思惟の産物、学問的な観念の産物ということである。また社会に要請された教化学は、宗教的な情緒性が獲得できる「おこない」へと誘う学問的な方策であり、さらに自分自身を自己として認識する見当識(私は誰、ここは何処、いまは何時)を基軸とする心の探究法そのものなのである。それはまさに宗教の機能的な側面を補償するもでもある。
 このように理解してくると、現代教学の問題点がおよそ明らかになったはずである。つまり、現代教学の観念的な知のあり方と、宗教的に心を探究する知のあり方の断絶によって、現代教学は現代社会への布教教化につながらず、なんとも社会的に閉塞した状況になっている事実はさきに指摘した通りである。
 
4 教化学を要請した社会状況と宗教的な情緒性の伝達について
 
 だいぶ煩瑣になったので、ここでこれまでの経緯を整理しておこう。まずこの小論の目的は、「教化学とは何か」を明らかにすることであった。そして、その論点は教化学のとり組みとして行われている「教学の現代的解明」にあるのではなく、教化学を要請した社会状況、現代教学が現代社会の布教教化につながらないという宗教現象の解明にあることが分かった。さらにそのよう宗教現象は現代教学の観念的な知のあり方と、宗教的に心を探究する知のあり方の断絶によって生じていることも分かった。
 ところで、現代教学の観念的な知のあり方と、宗教的に心を探究する知のあり方の断絶を理解するには、私たち僧侶が本来もっていた知のあり方、宗教的に心を探究する知のあり方を理解する必要がある。それは大きな意味では日本文化が断絶させられた背景を理解することである。それはまた日本人が感性の文化を放棄する過程であり、欧米の理性の文化によって払しょくされる過程でもあるである。現代人は衣服や食事などの日常生活は欧米化されていることは認めながらも、その大多数は自分は純血の日本人だと思って疑わない。しかし、その変化の過程がおよそ一四〇年という長きにわたって進行したため、現代に生きる私たちの目には、日本人の伝承文化を支える歴史や伝統を失っているように見えないのである。まことに大づかみではあるが、これからその事実を挙げてみよう。
 とくに僧侶の養成を「檀林廃止から帝国大学令による教育の変化」として眺めると、その事実が明らかとなる。もともと伝統教団の僧侶養成カリキュラムは、各門流の学問所は檀林と呼ばれ、そこでは自宗の教義や経典を学ぶ宗乗と他宗のそれを学ぶ余乗が義務づけられ、その一方で僧堂における着衣喫飯の修養生活が行われていたために、学んだ観念的な知識に身体性が付加されて宗教的な感性が育っていたといえる。
 檀林では、それまで各門流の歴史と伝統、本山なりの由緒や故事来歴という宗教的な権威を支えてきた「おこない」、とくに宗教情操を養ってきた法式作法(行規行法)などを継承し、どう伝承するかが問われていたのである。しかし、明治時代になって欧米の大学を範として帝国大学令などが施行されると、檀林に蓄積された宗乗や余乗などの古典的な知識は大学教育へと移譲されたため、そこで知識と僧堂の修養生活が分離したために宗教的な感性のあり方が変化してしまったのである。ここに私たち僧侶が宗教現象と宗教体験との区別ができなくなってしまった理由がある。
 さらに檀林が崩壊した後の宗門子弟の教育構造が確立されてゆく中で、明治以降どの様なことが行われてきたかといえば、教育構造は西洋を模した大学制度に取り込まれ、西欧流のキリスト教学、教義学を模した宗学、日蓮教学へと変化し、日蓮聖人の思想信条を理解することに重きが置かれるようになった。そのため私たちは現在のように、日蓮聖人の教学という具体的な思想信条が、連綿と受け継がれているような感覚をもっている。しかし、このような感覚はさきのように明治以降に形作られてきたことである。日蓮聖人の教えの全体を誰もが閲覧できるようになったのは、およそ明治年間なってご遺文が活版印刷化され普及してからであり、まさに近現代になってからなのである。その経緯は以下をみれば一目瞭然のはずである。
 ○江戸期に録内・録外御書が編集書写刊行される
  元和年間(一六一五〜二三)に録内御書の刊行始まる
  寛文二年(一六六二)に録外御書の刊行始まる
 ○録内・録外に対し、遺文の編年を企てる方法が始まる
  貞享三年(一六八六)に御書新目録
  明和七年(一七七〇)に境妙庵目録
  案永八年(一七七九)に祖書目次
  文化十一年(一八一四)に新撰祖書目次
 ○明治 十三年(一八八〇)小川泰道の高祖遺文録
 ○明治三十七年(一九〇四)日蓮聖人御遺文(縮刷遺文)
 ○大正三年(一九一五)類纂『高祖遺文録』
 
 これでお分かりいただけただろうか、まさに僧侶養成の上で必須であった宗教的な知識を情緒性へと高める僧堂の修養生活が分離したために、僧侶自身の知のあり方が変化し、日蓮聖人の宗教に関するとり組み方が変化したと言うことである。これがさきに「現代教学の観念的な知のあり方と、宗教的に心を探究する知のあり方の断絶によって生じている」と言ったことである。さきに現代教学は学問であって宗教ではないと言い、思想信条として語られる現代の日蓮教学は哲学的な思惟の産物、学問的な観念の産物と言ったのはこのことである。
 ここに教化学を要請した社会状況がクローズアップされている。要約すれば僧侶養成の上で必須であった宗教的な知識を情緒性へと高める(自身の心を探究する)僧堂の修養生活が分離したために、現代の僧侶は知識偏重型となり、宗教的な情緒性の伝達が出来ないという状況に追い込まれていることである。
 あえて結語を挙げれば、教化学とは、現代教学を宗教現象へと、宗教的な情緒性が獲得できる「おこない」へと誘う学問的な方策だと言える。そして、それはどの様にして行われるかといえば、現在そのとり組みとして行われている「教学の現代的解明」にあるのではなく、教化学を要請した社会状況、現代教学が現代社会の布教教化につながらないという宗教現象を解明することであり、さらにそれは宗教的に心を探究する知のあり方、宗教的な知識を情緒性へと高める僧堂の修養生活のあり方を具体化することだと言える。
 次回はこれらを踏まえ、宗教的に心を探究する知のあり方、観心の実際について論じたいと思う。

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