ホーム > 刊行物 > 現代宗教研究 > 現代宗教研究第42号 > 妙満寺伝承塚原三昧堂跡と日蓮正宗建立塚原跡碑の調査報告

刊行物

PDF版をダウンロードする

現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

妙満寺伝承塚原三昧堂跡と日蓮正宗建立塚原跡碑の調査報告

 

調査報告

妙満寺伝承塚原三昧堂跡と日蓮正宗建立塚原跡碑の調査報告

 

小 瀬 修 達

 

調査日時 平成一九年三月~一一月初旬

調査場所 新潟県佐渡市目黒町日蓮宗妙満寺周辺

調査内容 昨年の田中圭一著『新版 日蓮と佐渡』所説の「目黒町塚原配所説」の検証に引き続き、目黒町の妙満寺に伝承する「塚原三昧堂跡」の現地調査・検証と、日蓮正宗が田中説に基づき目黒町の「塚原配所」と推定する土地の一部を取得し建立した「塚原跡」石碑群の現地調査・検証を行い、妙満寺伝承説と田中説の比較検証を行った。

調査員 小瀬修達研究員

現地案内・調査協力 小菅徹也氏(社)資源素材学会・日本鉱業史研究会理事、『旧版 日蓮と佐渡』共著者

聞き取り調査 日蓮宗妙満寺住職竹中智英上人

 

 本稿は、第一節に田中圭一著『新版 日蓮と佐渡』所説の「目黒町塚原配所説」の検証、第二節に妙満寺伝承の塚原三昧堂跡地と伝日満上人墓地周辺の現地調査・検証、第三節に日蓮正宗が建立した「塚原跡」石碑群の現地調査・検証、第四節に結論として妙満寺伝承説と田中説の比較検証を述べる。なお、これ等の調査・検証において『旧版 日蓮と佐渡』共著者の小菅徹也氏の協力を得た。

 

一、田中圭一著『新版 日蓮と佐渡』所説の「目黒町塚原配所説」の検証

 

 妙満寺前塚原配所説は、①目黒町に阿仏房の在家があり、宗祖はこの在家内の三昧堂に預けられたとし、②在家に隣接する台地に古来墓地があり、付近に「塚の腰」の地名があることと、③波多の守護所が、現在の下畑玉作遺跡に在ったとする小菅旧説を根拠に、本間重連の館は、この守護所に近接する熊野神社遺跡であるとする推定に基づき、『種種御振舞御書』の「六郎左衛門が家のうしろ」との塚原配所の所在を示す記述から、④「北は熊野神社から、南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定」(『新版 日蓮と佐渡』七七頁)するものであるが、①②③の条件と田中氏の④「推定塚原配所」とする場所を検証すると以下の事が考えられる。

 

 先ず、『新版 日蓮と佐渡』七五頁の「図」について次の点を指摘しておく。

 「塚の腰」の地名は、実際は、「目黒町熊野神社」社殿西側にある地名であり、「図」に示される様な広範囲にある地名ではない。

 「横大道」(太線)は、実際は、「至「畑野駅前」信号」と、ある道より「伝・藤九郎墓」前を通り、「推定塚原配所」を横切る道であり、「図」に示される墓地「」脇を通る道ではない。

「図」に示される通り、実際は、「目黒町熊野神社」は「推定塚原配所」に含まれない。

 

 ①阿仏房在家

 鎌倉時代の佐渡では、百姓の開墾村落を「垣の内」または、「在家」と云い、周囲をくね木や田畑で囲んだ土地に、長である「名主」を中心として数戸の同姓の百姓が居住し、一つの堂と一つの社、共同墓地、稲場(稲を干す場所)等を共有していた。佐渡では、これを「一堂一社七かまど(屋敷)」と云う。目黒町に阿仏房の「在家」があり、宗祖はこの在家内の「三昧堂」(一堂)に預けられたとするならば、「三昧堂」は、「在家」内、もしくは、これに隣接する場所に在ると考えられる。また、宗祖を監視する必要性から「在家」から離れた場所に「三昧堂」が在るとは考えられない。

 

 ②墓地・塚原の推定

  『種種御振舞御書』

 「洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし」(昭和定本九七〇頁)

  『法蓮鈔』

 「野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂」(昭和定本九五二頁)

 「三昧堂」は、この様な御遺文の記述から「墓所にある葬式用の堂」であると考えられる。また、①と併せて考えると、「三昧堂」は、「阿仏房在家」の共同墓地内、又は、これに隣接して在ったと考えられる。

 周辺墓地の考察(『日蓮と佐渡』七六頁)

 「目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。これに対して畑野の共同墓地は、ずっと前から同じところにあった。すると、いまの寺田と目黒町の共同墓地辺り()が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。」

 以上が、田中氏の「推定塚原配所」に関する墓地の考察である。

 の共同墓地は、それぞれ、明治・大正期に他の場所から移転してきたものであり、畑野の共同墓地は、「ずっと前から同じところにあった。」と、あるだけで鎌倉期以降の墓地の変移を調査したものではない。いづれも明治以降の墓地の変移を見ただけであるが、田中氏は、特に、古来墓地があるに隣接する「()が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。」と、推測する。

 ここで云う「塚原」を三昧堂の在った「塚原配所」とするならば、畑野の共同墓地は、「阿仏房在家」から離れた場所にあり、阿仏房に関係する墓地等も存在しない。また、「阿仏房在家」の属する目黒町の共同墓地は、「藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したもの」である事から、の墓地は、「阿仏房在家」の共同墓地ではなく、畑野地区にあった他の集落の共同墓地であったと考えられる。したがって、に隣接するに、「阿仏房在家」の所有・管理する「三昧堂」が在ったとは考えられない。

 「阿仏房在家」とは無関係な畑野の共同墓地の隣に、「三昧堂」があったと推定した理由は、『種種御振舞御書』の文を「本間重連が家のうしろ」と解釈し、「三昧堂」が佐渡守護所・本間重連館の後ろから直接見える場所としてを特に「塚原配所」の可能性の高い場所に決めたのであろう。実際には、「本間重連が家のうしろ」は誤訳(『佐渡中世史の根幹』)であるし、畑野の共同墓地は「阿仏房在家」とは無関係の墓地であり、を「塚原配所」に特定する根拠は何もないのである。

 田中説のと区分する墓地を現地調査したところ、畑野の共同墓地は、実際には、田中氏の指定する場所より、約一二〇㍍程南方に位置することが判明した。よって田中説の畑野の共同墓地とする場所も明治以前は墓地ではなかった事となる。

 目黒町の共同墓地は、明治期まで、藤九郎守綱の墓地の周辺その他に分散して存在した事から、現在の藤九郎守綱(日満上人)の墓地の周辺が、「阿仏房在家」の共同墓地として考えられる場所の一つである。

 

 塚原の推定(『日蓮と佐渡』七六頁)

 「在家に隣接する台地脇に「塚の腰」の地名がある事から、この台地を「塚原」と考える。」

 「塚の腰」の地名は、実際は、「目黒町熊野神社」社殿西側にある地名であり、「図」に示される様な広範囲にある地名ではない。

 一般論として「塚」とは、「土を高く盛って築いた墓。また単に、墓のこと。土を高く盛って物の標などにしたもの。」であり、「塚原」とは、「墓などのある野原。」(広辞苑)であるから、地名としての「塚原」も、塚のみではなく、塚・墓のある野原であることが考えられる。したがって、「推定塚原」の台地を「塚」とするならば、これに隣接する「阿仏房在家」と、共同墓地も「塚原」の地名として考えられる。

 

 ③本間重連館の推定、御遺文の文証

 小菅旧説(下畑玉作遺跡=波多の守護所)を根拠として、隣接する熊野神社遺跡を本間重連の館とし、『種種御振舞御書』の

 「同(文永八年)十月十日に依智を立て、同十月二十八日に佐渡国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。」(昭和定本九七〇頁)

の文から塚原配所を「六郎左衛門(本間重連)が家のうしろ」と解釈することにより、④「北は熊野神社から、南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定」(『新版 日蓮と佐渡』七七頁)した内、特に、「六郎左衛門が家」より後に見えて、且つ畑野の共同墓地に隣接するを「推定塚原配所」と推定するのである。

 ③を検証してみると、昭和定本『種種御振舞御書』(真蹟身延曾存)の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原」との文は、「六郎左衛門が家の、うしろみの家より塚原」であり、「うしろみ」とは、「後ろに見える」という意味ではなく、「うしろみの家」つまりは、「後見人の家」より塚原へという意味である。「六郎左衛門が家」と「うしろみの家」とを明確に区別した表現である。

 『角川古語大辞典第一巻』によると、「うしろみ」とは、「背後にあって補佐し世話すること。また、その人。後見。」(三三八頁)とあり、「後ろに見える」という意味はない。他の古語辞典においても同様である。つまりは、「うしろみ」という古語に「後ろに見える」という意味は元来ないのである(『佐渡中世史の根幹』)。

 したがって、塚原三昧堂は、「六郎左衛門(本間重連)が家」から後ろに直接見える場所であるという条件は成立しない。田中氏には、昭和定本と他の御遺文集との比較も見られるが、昭和定本の『種種御振舞御書』は、身延曾存の真筆(日乾師写本)に基くものであり、他の写本や読者向けに読み下したり解釈を加えた御遺文集等との信頼性における比較の必要はないであろう。

 また、小菅旧説(下畑玉作遺跡=波多の守護所)は、小菅氏本人の指摘によると、旧説は下畑玉作遺跡ではなく、下畑沖(北側)の第三次佐渡国府域を波多の守護所と推定したものであり、以降の研究調査によると、鎌倉時代の佐渡の守護所・本間重連の館は、竹田城跡(佐渡市竹田)であり、旧畑野熊野神社遺跡付近は、本間重連の「後見人」である波多本間氏の館跡(『歴史と地理』四九六号平成八年「佐渡の歴史」小菅徹也)との報告があり、鎌倉期の下畑沖の第三次佐渡国府域=波多の守護所、旧畑野熊野神社遺跡=本間重連の館とする説は、既に同氏により否定されている。

 鎌倉期の佐渡守護所は、守護代職の本間総領家雑太本間氏居城の竹田城(雑太元城現佐渡市竹田)であり、総領家の雑太本間氏は、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退し、南北朝期の動乱を経て、庶子家の波多本間氏の勢力が増大し、室町期には波多郷(現在の旧畑野熊野神社遺跡)に守護所が移転したと云う。守護所の移転に伴い、「公道も松ヶ崎川茂雑太から、この段階ではじめて松ヶ崎檜山越え波多へと移り変わった。なお、安国寺も真野・合沢から現在地に移転したもので、畑野熊野神社も真野・竹田の小田家の屋敷から下畑へ移転した可能性が高く、熊野神社の鍵取りである真野・竹田の小田氏が行かないことには、当初畑野熊野神社の祭礼は始まらなかったと長年伝わってきたことも、傍証として述べた。」(『佐渡中世史の根幹』六六頁)と云う。なお、小菅氏は、これ等の内容を平成七年の『朝日百科・歴史を読みなおす9中世の村を訪ねる』朝日新聞社、平成八年の『歴史と地理』日本史の研究〔一七五〕巻頭論文「佐渡の歴史」山川出版社等に発表してきたと云う。

 

 以上の検証から①②③の条件の内、②③に問題のある事が判明した。

 ②「墓地・塚原の推定」では、④「推定塚原」に関する墓地の分布については、明治以降を調査したのみであり、鎌倉時代の考証ではない。台地=塚原とする事により、「阿仏房在家」と関係のない、の土地を「推定塚原」に入れてしまっている。

 ③「本間重連館の推定、御遺文の文証」では、「六郎左衛門(本間重連)が家のうしろ」との訳は、実際には、「本間重連の【後見人】の家より塚原へ」という意味であり、本間重連の館の後ろに三昧堂が直接見えるという条件は成立しない。

 以上の②③を重視する事により、①の「三昧堂」は、「阿仏房在家」内にあるという条件に反する、「在家」から離れたの土地を④「推定塚原」(「北は熊野神社から、南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲」)に入れてしまったのである。

 田中氏の塚原配所説には、この様な問題が指摘できる。

 

二、妙満寺伝承の塚原三昧堂跡地と伝日満上人墓地周辺の調査

 

 妙満寺には、境内地に隣接する場所に、日蓮聖人が配流された三昧堂が建っていたとの伝承が残る、通称「三角田」と呼ばれる三角形の田地と、「重箱田」と呼ばれる二枚の小規模な田地の二箇所が存在する。

 

 今回、妙満寺周辺における塚原三昧堂の所在を現地調査するに当って、前の田中氏の研究に対する検証と妙満寺の伝承を参考に以下の推測を立てた。

 

一、日蓮聖人は、佐渡守護代の本間重連より、波多郷地頭代へ、更に、名主である阿仏房の下に預けられ、阿仏房在家(現佐渡市目黒町)の所有・管理する三昧堂に居住された。

 『種種御振舞御書』の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし。」(昭和定本九七〇頁)の文から、日蓮聖人が、佐渡守護代の本間重連より、「うしろみ」=後見人である波多郷地頭代の波多本間氏へ、更に波多郷内の在家の名主阿仏房の管理する三昧堂へと預けられた事が推測できる。聖人の直接の監視者は阿仏房である。

 

二、三昧堂は、日蓮聖人への監視が行届く、阿仏房在家内の共同墓地に隣接する場所に在った。

 阿仏房在家は、「一堂一社七屋敷」と呼ばれる様に、一つの堂・社と七~八軒の同族の屋敷からなる開墾集落で、日蓮聖人はこの「一堂」である三昧堂へ預けられた。三昧堂は、同在家の共同墓地の中に在り、在家の中央部分は、「垣の内」と呼ばれる田地で囲われていた。したがって、この「垣の内」の田地を検証する事で阿仏房の在家の範囲が特定できる。また、これにより、三昧堂の所在の範囲も特定できる。

 

三、阿仏房は、日蓮聖人の信者となり給仕した為、現在の「阿仏房元屋敷」(現佐渡市新保)と呼ばれる地に所払いとなった。日満上人は、晩年、目黒町の旧阿仏房在家内に草庵(後の妙満寺)を建て、三昧堂を管理・供養をされた。その為か、現在「三角田」「重箱田」に三昧堂跡の伝承が残る。

 阿仏房亡き後、息子の藤九郎盛綱(日満)は、追放先の「阿仏房元屋敷」(現佐渡市金井新保)で「阿仏寺」を開いた。「阿仏寺」は、さらに同日満上人の代に、「八瀬ヶ平」(佐渡市竹田)へ移転した。(『佐渡中世史の根幹』二八頁)

 

四、藤九郎守綱・日満上人の墓地と伝承される通称「日満塚」の周辺も阿仏房在家の共同墓地として考えられる。

 

 以上の推測の基に、古来より妙満寺に伝承する三昧堂跡地と、伝日満塚の周辺の二箇所を中心に現地調査する事とした。調査に当り、佐渡在住の歴史家であり、『旧版 日蓮と佐渡』(昭和四六年刊)の共同研究者・共著者である小菅徹也氏のご協力を得た。同氏は、最近、日蓮聖人の佐渡における聖蹟を最新の研究成果を以て解明した『佐渡中世史の根幹』を著され、「阿仏房在家」についても言及されている為、これを参考とさせて頂いた。

 

 阿仏房在家の範囲の特定

 三昧堂は、阿仏房在家内に存在する事から、最初に、阿仏房在家の範囲を特定する必要がある。

 田中氏は、阿仏房在家の範囲について

 「この「在家」の名残を、明治期に作成された地籍図の上で確認することができた。そこには、「城の内」との記載を見出すことができる。この「城の内」を真ん中にして、西端に熊の権現、南を日蓮宗妙満寺、東を「釈迦堂沢」の釈迦堂で区切られる。「在家」があった。これこそまさしく、阿仏房の「在家」にちがいない。(中略)

 阿仏房の「在家」は、推定塚原配所に最も近い「在家」というよりも、推定塚原配所を含む「在家」である。」

(『新版 日蓮と佐渡』八五頁)

 と、述べている。

 田中氏の「推定塚原配所」とする場所と「阿仏房在家」の接する場所は、熊野神社の建つ台地の部分のみであり、「推定塚原配所」の中央を横切る道(「横大道」)より、特に「塚原配所」の可能性が高いとする「目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで」は、「在家」ではない。

 

『佐渡中世史の根幹』(五五頁)によると、小菅氏は、『旧版 日蓮と佐渡』において、「歴史地理学的手法で目黒町における阿仏房在家を図面上で復元する」作業を行い、「目黒町の中間の西光寺西側の渡辺一族の城址」を「阿仏房在家」として図面上に復元した。」と云う。だが、近年の『文化十三年の目黒町絵図』(一八一六年)に基づく再調査により、以下の事が判明したという。

 「妙満寺の直ぐ東南に隣接する五兵衛の屋敷周りに、在家の存在を示す「垣の内」地名を確認したからである。そして妙満寺そのものが、一つの在家の中心であることに気づいた。そして渡辺一族の小さな城を中心とした在家と妙満寺の在家を一つのものと考えると、在家規模の常識に対して少々大きくなりすぎるのではなかろうかとの感も抱いた。」(五六頁)

 したがって、『旧版 日蓮と佐渡』に示された「阿仏房在家」は、「渡辺一族在家」と「妙満寺(阿仏房)在家」を一つにした在家であった事となり、田中氏の『新版 日蓮と佐渡』に記された「阿仏房在家」も、両者を一つにした在家であると考えられる。

 つまりは、前記の『新版 日蓮と佐渡』では、「阿仏房在家」は、「城の内」=「渡辺一族の城址」を中心とした範囲であるのに対し、小菅氏の『佐渡中世史の根幹』における「阿仏房在家」は、「妙満寺」を中心とした範囲である。そもそも、「在家」の規模は、「一堂一社七屋敷」と云う様に、七~八軒の同族集団であり、面積規模として一町(一〇八㍍)四方を越えることはないという。前者の在家の規模では大き過ぎた訳である。

 

 阿仏房の妻である千日尼の実家が目黒町に存在するが、同家の伝承によると、以前、当家は、妙満寺裏の地にあり、江戸時代に現在地に移転して来たと云う。千日尼の実家の屋号は「本間源兵衛」と云うが、『元禄検地帳』には、「源兵衛」の家が妙満寺の隣に在り、実在した事を確認できる。また、『文化十三年の目黒町絵図』には、その場所に別の氏名の屋敷が見られる事から、元禄年間から文化十三年の間に「源兵衛」家は現在地へ移転したと考えられる。

 妙満寺は、阿仏房の屋敷跡と推測されるが、千日尼の実家が隣に存在した事から、千日尼の実家は阿仏房と同族であり、名主である阿仏房と同家の屋敷を中心として「阿仏房在家」が形成されていた事がこの古地図により確認できると云う。

 ここに、小菅氏の新説とする「阿仏房在家」を『佐渡中世史の根幹』掲載「文化一三年の目黒町絵図」(一八一六年)の図上に於いて考証してみる。

妙満寺

五兵衛屋敷

源兵衛屋敷(千日尼)

三角田

熊野神社

渡辺城址

薄墨色の部分が「垣の内」の水田

『文化十三年の目黒町絵図』(『佐渡中世史の根幹』五七頁)

現在の地図と上下逆になる。(地図上が南、下が北)

 「在家」=「垣の内」の中心部は、田で囲まれていた。古地図に示した薄墨色の部分が「垣の内」の水田である。五兵衛の屋敷周りより妙満寺の西側を囲む田が、「阿仏房在家」の「垣の内」の田の一部であり、の南側の田に「かきの内」の表記が見られる。この妙満寺の西側「垣の内」をあらわす田に見られる三角形の区分が、通称「三角田」と呼ばれる「三昧堂」の伝承のある場所である。が熊野神社であり、神社から伸びる直線の道の両脇は昔松林であったと云う。この台地と妙満寺の境内地の間に「垣の内」を囲む田が続いている。妙満寺と千日尼の実家を中心とした「阿仏房在家」の北東に、「渡辺一族の城址」があり、この城跡を中心とした「渡辺一族在家」が隣接して存在した。

 

 現地調査

 『文化一三年の目黒町絵図』における考証を、現代の『佐渡市目黒町地図』を基に「伝承三昧堂跡」を含む「阿仏房在家」とその周辺を検証する現地調査を小菅氏立会の下に行った。最初に現地調査の結果を記した『佐渡市目黒町地図』を図示し、後に個々の説明をする事とする。

 次の『佐渡市目黒町地図』の市松模様の部分は、「在家」の中心部を取り囲む「垣の内」の田地を調査確認した箇所である。これにより、妙満寺を中心とした「阿仏房在家」の南~西~北西側を取り囲む「垣の内」の田と、渡辺城址を名主屋敷とした「渡辺一族在家」の東西を取り囲む「垣の内」の田が存在することが確認できる。なお、地図上の二つの円は、それぞれ、「阿仏房在家」と「渡辺一族在家」の範囲を表すものである。

^k妙満寺

五兵衛屋敷

源兵衛屋敷(千日尼)

三角田

重箱田

熊野神社

日満上人墓地

妙満寺千部供養塔

渡辺城址

「阿仏房在家」

「渡辺一族在家」

①~⑧写真撮影地点

『佐渡市目黒町地図』(ゼンリン一/三〇〇〇を加工)

 

 

 

 

 

 次の写真①は、中央の林が妙満寺の境内地であり、「阿仏房在家」の西側を取り囲む「垣の内」の田が確認できる。田を区切るアーチ状の畦道の内側が「三角田」である。この様な台地間の谷間に作られた田は、中世の田地の形状を保っている典型的な例であると云う。写真の背後は、熊野神社の建つ台地になる。

 

 写真②は、「三角田」の鋭角の頂点部分から見たもので向かって左側が妙満寺の境内地、右側が熊野神社の建つ台地であり両側を繋ぐ位置にある。現在は、休耕田となっている。

 写真③が、「重箱田」である。「三角田」から約五〇㍍程離れた場所に、重箱の形状に似た小さな二枚の田が道を挟んで左右に並んでいるが、現在は休耕田となっている。右側の田は周囲の畦の形状が確認できた。写真奥が熊野神社の建つ台地である。

 

 妙満寺の竹中住職の話によると、「三角田」と二枚の「重箱田」の二箇所に「三昧堂跡」との伝承があると云う。したがって、両者を含む範囲が妙満寺伝承における「三昧堂跡」の推定箇所となる。

 この二箇所の田は、いづれも妙満寺境内の西側の「垣の内」を形成する田地に属するものである

 熊野神社の建つ台地の西側に「塚の腰」の地名が残る事から、この台地より東側に広がる「垣の内」の田地にかけてが「塚原」の地名が考えられる場所である。

 「三角田・重箱田」の存在する近辺が、阿仏房在家の所有・管理した「三昧堂跡地」であるとするならば、そこから熊野神社の建つ台地に面する部分に「阿仏房在家」の「共同墓地が存在したとも考えられる。「在家」を形成する平均的な戸数は七~八件であることから、「共同墓地の規模としてもそれほど大きなものとは考えられない。

 

 『文化一三年の目黒町絵図』によると、熊野神社の建つ台地一帯は、神社の境内地となっている。鎌倉時代この地は、墓地であったとするならば、神社の聖域と相容れぬ条件となるが、『畑野町史 信仰篇』には、以下の説明がある。

 「その答えを得るためには、普通は不浄を忌むとされる神社が、埋葬地や死体捨場にも建つことがあるものかどうかを知る必要がある。宮浦の一宮神社から出土した「時雨の瓶」は、目黒町にあるものだけで三個ある。その他に一宮神社にも別の瓶が社宝になっており、戦後社の西側に開墾した畑からも大型須恵器破片が出土して、ここが埋葬地であることは歴然としている。目黒町の場合は、日蓮の初めの配所が、この熊野社の近くで、妙満寺付近ということであればやはり同じ条件の土地といえる。ここを塚原とする人たちの説が根拠としている「塚の腰」の地名は、いまも社のすぐ西側にある。もし現社地を三昧堂跡とすれば、同社がこの地へ創立したのは日蓮以後のこととなりかねない。サンマイが埋葬地であることはすでに定説となっており、これは墓石を伴うダントウ以前のもので、火葬・土葬に移った後に、かつてのサンマイはしばらくは空地状態になっていた時期があったということになる(「墓のはじまり」の項)。

 古い埋葬地に社が建つ例は、すでに伊勢神宮の山宮にある。この山宮は古くから両官の荒木田・度会両氏の祖先墳墓の地と伝承されており、その祭場は元来彼ら一門の古い葬地と推定されている(柳田国男『山宮考』)。そこで目黒町熊野社についても、同地境内から東と南にひろがる目黒・寺田・畑野の新旧墓地を含めて、この徽高地の西部一帯は波多郷の埋葬地であり、その南端に山宮的性格をもって建てられた社ではないかということである。」(『畑野町史信仰篇』畑野町史編纂委員会一四六~七頁)

 ここでは、埋葬地に関する考古学的な考証を参考とした。

 

  『種種御振舞御書』

 「洛陽の蓮台野のやうに死人を捨る所に一間四面なる堂の仏もなし」(昭和定本九七〇頁)

  『法蓮鈔』

 「野中の御三昧ばらに、おちやぶれたる草堂」(昭和定本九五二頁)

 この様な記述にある鎌倉時代の「三昧原」とは、前の『畑野町史 信仰篇』によれば墓石を伴わない埋葬地であった事となる。したがって、当時の墓石等は発見されないが、埋葬品としての「時雨の瓶」や「大型須恵器」の破片等が発掘される事によって、埋葬地であった事が証明された訳である。この目黒町の熊野神社においても「時雨の瓶」が社宝としてあり、また、社殿西側の石祠内に中世風の一石五輪塔が見られる。

 

 写真④が、三角田・鳥居・重箱田・熊野神社の位置関係である。熊野神社の建つ台地背後(西側)に「塚の腰」の地名がある事から、「塚のある野原」として台地から前面(東側)の「垣の内」の田地にかけてが「塚原」の地名が考えられる。

 「三昧堂跡」との伝承のある「三角田」と「重箱田」との距離は、約五〇㍍程離れている。両者を含む範囲が妙満寺伝承における「三昧堂跡」の推定箇所となる。

『種種御振舞御書』には、塚原三昧堂について、「塚原の堂の大庭山野に数百人」「六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云」(昭和定本九七四・五頁)との記述があり、「三昧堂」には、「大庭」(広い庭)が在ったことを記している。

 したがって、「三昧堂」は「大庭」が造れる場所であることが条件となる。

 「三角田」は、中世より「垣の内」の田地であった可能性が高いが、「阿仏房在家」と「共同墓地」と繋ぐ場所に位置する事から「三昧堂」が在った可能性は考えられる。

 「重箱田」の前は、当時の田が今日の面積より狭いとすれば、「大庭」が造れた可能性はある。「重箱田」の位置に「三昧堂」が在り、「垣の内」の田との間に「大庭」があり、背後の台地が「阿仏房在家」の共同墓地であったと推測できる。

 また、現在の熊野神社境内には「大庭」と呼び得る庭がある事から、熊野神社の建つ場所が、「三昧堂跡地」である可能性は十分あると考えられる。神社が建立された事により、「三昧堂」の事跡が下の「三角田」もしくは「重箱田」へ移されたとも考えられるのである。なお、この台地は熊野神社社殿裏より鳥居の辺までが「大庭」を造れる広さの平面があり、鳥居から先は、細くなっている事から、社殿裏より鳥居の辺までを「三昧堂跡地」として推定することも出来る。

 

 以上の考証を基に、①推定「塚原三昧堂跡」を図示すると次の様になる。

 図の線で囲った部分が、①推定「塚原三昧堂跡」の範囲である。この内、熊野神社背後から「三角田」の上まで(約一五〇㍍)の台地の部分を「阿仏房共同墓地」と推定する。熊野神社の建つ台地の西側に「塚の腰」の地名が残る事から、この台地より東側に広がる「垣の内」の田地にかけてが「塚原」の地名が考えられる。

 地図上の市松模様の部分は、「阿仏房在家」中心部の西側を取り囲む「垣の内」の田地である。妙満寺に「三昧堂跡」との伝承のある「三角田」及び「重箱田」は、いずれも、「阿仏房在家と「阿仏房共同墓地」との境界上に存在する事が確認できる。『種種御振舞御書』の三昧堂には「大庭」があるとの記述から、熊野神社後方から鳥居までの境内地も「三昧堂跡」の可能性が考えられる。神社建立により事跡が下のへ移された可能性がある。以上、推定「塚原三昧堂跡」の範囲の内、「三角田」、「重箱田」、熊野神社境内の三箇所が、特に「三昧堂跡」の可能性が考えられる場所である。

 

 

 南側・東側の「垣の内」の田地

 

 写真⑤が妙満寺南側の「垣の内」の田地である。写真中央の建物が妙満寺本堂、右端の建物辺りが五兵衛屋敷跡である。『文化一三年の目黒町絵図』には、写真中央の道路右側上の田地二枚に「かきの内」の表記が見られる事から、これ等の田地が、妙満寺を中心とする「阿仏房在家」南側の「垣の内」を形成する田地であった事が確認できる。

 

 写真⑦は、渡辺一族「在家」の東側の「垣の内」の田地である。写真右側が宝蔵寺、中央奥が西光寺で両寺の谷間に田地が続いているのが確認できる。西光寺西側の道路を挟んだ場所に「渡辺城址」が現存している。

 写真⑧は、渡辺一族「在家」の西側の「垣の内」の田地である。中央奥が「渡辺城址」である。

 なお、後の研究で「渡辺城址」は伝説上の話で、実際には金子氏の居城であることが判明したと云う。この城を中心とした「在家」が「阿仏房在家」と隣合って存在した事となる。

 

 以上の様に「阿仏房在家」の周辺の中世の「垣の内」の田地が目黒町の地に現存している事が確認できる。

 

^k 日満塚周辺

 日満上人の墓地とされる「日満塚」は、妙満寺より南側へ約二〇〇㍍程離れた、県道と妙満寺へ向かう道とが分岐する場所にある。塚の高さは約一五〇㌢程で土で築かれている。頂上には、中央に題目の彫られた墓石。左右に石塔が安置されている。特に、向かって左側は、一つの石で作られた中世の一石五輪塔(高さ五二㌢)である。これ等は昨年、妙満寺竹中住職の下で全面的な改修が行われた時に復元されたものである。塚の前面には、新たに五輪の塔形式の墓碑が建立された。また、修復作業中に寛文二年(一六六二年)の居士の墓石が発掘された。なお、「日満塚」の土地は、千日尼の実家である本間源兵衛家の所有地である(『佐渡中世史の根幹』七七頁)と云う。

 

 「日満塚」の道を挟んだ向かいに、「妙満寺千部供養塔」が五基程並んでいる。

 いずれも、中央の題目の下に「千部(供養)塔」とあり、妙満寺の山号「長慶山」、施主名の「畑・寺田・目黒町三ヶ村講中」、建立年月日が刻まれている。

 ①の石碑の年号は、寛政十一年己未(一七九九年)。②は、弘化三年丙午(一八四六年)。③は、明和八年辛卯(一七七一年)。④は、宝暦十四年甲申(一七六四年)。⑤不明。と、江戸中~後期の建立である。

 この「千部塔」の建つ、道路で三角形に囲まれた土地は、目黒町の旧共同墓地の一つであり、明治期に田中氏が「推定塚原」とする場所(「目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したもの」『日蓮と佐渡』七六頁)へ移転した墓地群である。また、この土地内には、馬頭観音堂と庚申塚碑があり、「横大道」の分岐点として交通の要所であったと考えられる。なお、『文化一三年の目黒町絵図』によると、同区域内に阿弥陀堂が建っていた事が記されている。

 上の写真⑥は日満塚周辺の位置関係を示すものである。①日満塚、②妙満寺千部供養塔群、③馬頭観音堂となる。②③の建つ三角形の土地が、目黒町の旧共同墓地である。

 ①日満塚や寛文二年の墓石(研磨した石を一般の墓石に用いるのは江戸中期以降)、②妙満寺千部供養塔群の存在から、この周辺が妙満寺の共同墓地の一つであったと考えられる場所である。また、庚申塚碑の前に③馬頭観音堂があり、他の地区にも同様の例(石碑群の隣に小堂)が多数あることから、②妙満寺千部供養塔群の前にも妙満寺管理の小堂が三昧堂の名残として存在した可能性が考えられる。これ等は、目黒町熊野神社が現在地へ建立される以前に墓地と共に移転してきたとも考えられる。

 小菅氏によると、日満塚の土地は千日尼の実家である本間源兵衛家の所有地であると云う事から、源兵衛家が江戸時代に妙満寺の隣から写真手前の土地に移転して来た時に、日満上人の墳墓・一族の墓地もこの地に移された可能性があるとの事である。

 なお、同氏の調査によると、江戸時代までの墓地は目黒町内に分散してあったが、明治四十二年の行政命令(墓地の衛生問題)により、現在の「目黒町の共同墓地」へ一箇所に集められたとの事である。

 

 

 日満上人について

 妙満寺開山・阿仏房二世日満上人については、二説がある(『畑野村志』二五一頁)。一説は、阿仏房日得上人(一一八九~一二七九)の子である藤九郎守綱(一二五五~一三四三)=日満上人とする説であり、もう一説は、阿仏房日得上人の曾孫で日興上人の弟子となった興円(一二七二~一三六〇)=日満上人で、年齢差は一七歳ある。つまりは、佐渡の伝承では、盛綱と興円という二名の同名の日満上人がいたと云うのである。

 この内、田中氏は、「佐渡の伝承では阿仏房の子・藤九郎と日満を混同して、同一人物とする伝承があるため、この寺の開基も墓の埋葬者も藤九郎とされたり日満といわれたりして定まらない。」(『新版 日蓮と佐渡』七四頁)と、藤九郎守綱=日満上人説を否定している。また、妙宣寺に伝わる「開山日得系図」(為盛盛綱盛正盛安・興円)を、阿仏房を摂津渡辺党の遠藤為盛と同一人物にする為に、『続群書類従』の「遠藤系図」(為盛盛綱盛正盛安)を用いて一六世紀末以降に作られたものとし、日興上人が日満上人に与えた宗祖真筆曼荼羅に日興上人が加筆された「佐渡國法花棟梁阿仏彦如寂房日満相伝之」の文から、「彦」は、「孫」または「曾孫」と解釈し、妙満寺開山・阿仏房二世日満上人を曾孫の興円(佐渡阿闍梨日満)としている。

 小菅氏は、日興上人が曼荼羅に加筆された「阿仏彦」の「彦」とは、孫や曾孫以外にすぐれた男子の尊称・美称としての意味がある事から、阿仏房の息子である藤九郎守綱の尊称として「彦」の文字が用いられたとし、佐渡の伝承と同じく藤九郎守綱=日満上人を妙満寺開山の日満上人とする説を立てている。

^k

 三、日蓮正宗建立塚原跡碑の調査

 

 平成十九年五月十六日、田中圭一氏が『新版 日蓮と佐渡』において「塚原配所」として推定した土地の一部に、日蓮正宗が「塚原跡碑」を建立し、落慶法要を行った。

 場所は、田中氏が「推定塚原配所」とした台地の中央を横切る道路より、目黒町の共同墓地の手前までの箇所で、昨年、前管長阿部日顕の名義で土地が購入され、今年二月より工事が始まったと云う。

 日蓮正宗購入地は、上の写真の配置①~⑤の通りに構成されている。

①「塚原跡」石碑大石寺六十八世日如筆。立正安国論正義顕揚七百五十年記念局。高さ三.九㍍。

②「日蓮大聖人と塚原」石碑碑文に塚原跡碑建立までの経緯を記す。同局佐渡塚原跡碑建立委員会。

③「塚原配所考」石碑銘板に塚原配所推定の根拠を記す。元筑波大学教授田中圭一・佐渡博物館館長 山本仁。

④庭石二個大石寺の方角を向くと云う。⑤駐車場。

場所佐渡市目黒町鳥居畑五五九番一。総面積六六二坪。

施行業者株式会社本井建設(日蓮正宗妙護寺檀家総代)佐渡市東大通八六三─一。

 以上、日蓮正宗が、立正安国論正義顕揚七百五十年記念事業として、田中圭一氏の「推定塚原配所」説に基づき、この地を購入し「塚原跡碑」を建立したものである。

 

 『塚原配所考』石碑の検証

 ③『塚原配所考』石碑の銘板には、以下の文が記されている。

 

『銘 板 「塚原配所考」

 

 日蓮大聖人の佐渡配流の地「塚原」については古来諸説がある。しかし、それらはいずれも根拠に乏しく、これまで「塚原」の地を確定するには至らなかった。

 

 一、佐渡守護所跡と本間重連館跡

 佐渡において日蓮大聖人を預かったのは守護代・本間六郎左衛門重連である。当然、佐渡守護所と本間重連の館とは近距離にあつた。守護所を特定する方法として、室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。佐渡に安国寺が建てられた時期は、日蓮大聖人の佐渡配流から六十年ほど後のことであるが、守護所の近くに建てられた安国寺は畑野の下畑にある。本間重連の館について言えば、『佐渡本間系図』には、日蓮大聖人が塚原に入ってから三十七年後の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多(現・畑野町下畑)に熊野権現を建立したことが明記されている。これは本間氏館の敷地内に熊野神社を建立したものであり、この熊野神社は後に移転し、その跡に「熊野神社遺跡」の碑が建てられている。また周辺には「城」や「宮」の付く地名がいくつか残っている。これらのことから本間重連の館や守護所は、波多熊野神社跡とそれに隣接する下畑玉作遺跡とされる場所を含む約一町四方の地域にあったと考えられる。

 

  二、塚原配所

 守護所跡とされる下畑熊野神社付近から望むことのできる範囲で、日蓮大聖人遺文の「里より遥かにへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり」に符合する場所は目黒町のこの台地をおいてほかにない。この地の近くには、日蓮大聖人に深く帰依した阿仏房の子・藤九郎守綱のものと伝えられる墓があり、阿仏房の曽孫・日満が建てたとされる妙満寺もある。また妙満寺の西側に建つ目黒町熊野神社の水田には「塚の腰」の地名が残っている。

 このように、守護所から監視できる場所に位置し、周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、古くから地域の共同墓地であったことなどから、この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。

 

 平成十九年三月一日

元筑波大学教授 文学博士  田中圭一

佐渡博物館館長 佐渡史学会会長 山本仁  』

 

 以上が、銘板『塚原配所考』記載の文である。

 

 この銘板の文は、第一節に「一、佐渡守護所跡と本間重連館跡」、第二節に「二、塚原配所」とある様に、「塚原配所」が「佐渡守護所跡と本間重連館跡」から「望むことのできる範囲」にあるという前提に成立する内容であるが、その根拠とは、『新版 日蓮と佐渡』において『種種御振舞御書』の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(昭和定本九七〇頁)の文から、塚原配所を「六郎左衛門(本間重連)が家のうしろ」(『新版 日蓮と佐渡』四二頁)と解釈したものである。

 この文の正しい解釈は、「六郎左衛門が家の、うしろみの家より塚原」であり、「うしろみ」という古語には、「後ろに見える」という意味は元来なく、「うしろみの家」つまりは、「後見人の家」より塚原へという意味である。「六郎左衛門が家」と「うしろみの家」とを明確に区別した表現であり、「六郎左衛門が家」との距離や方向を示したものではない。したがって、「守護所跡とされる下畑熊野神社付近から望むことのできる範囲」に「塚原配所」があるという根拠は存在しない。

 

「一、佐渡守護所跡と本間重連館跡」の検証。

 『新版 日蓮と佐渡』では、「下畑玉作遺跡を波多の守護所とする」根拠に小菅徹也氏の説を引用している。

「佐渡の守護所が波多本郷にあったことを裏書するのは、足利尊氏の命令で置かれた安国寺があることや、国衙領の一宮社や三宮社が波多郷にあり、二宮社ももとは波多熊野神社であった可能性が強いことなどである。」(『新版 日蓮と佐渡』六五~六頁)

 小菅氏は、『旧版 日蓮と佐渡』の共同研究者として、当時、「下畑沖の第三次佐渡国府域を波多の守護所とする」説を立てたと云う。しかし、同氏の以降の研究調査によると、鎌倉時代の佐渡の守護所・本間重連の館は、竹田城跡(佐渡市竹田)であり、畑野熊野神社遺跡付近は、本間重連の「うしろみ=後見人」である波多本間氏の館が在った(『歴史と地理』四九六号平成八年「佐渡の歴史」小菅徹也)事が判明したと云う。

 銘板には、「守護所を特定する方法として、室町幕府が各国の府中(国府の所在地)に建てた安国寺の存在が欠かせない。」と、安国寺のある畑野の地に国府があった(『新版 日蓮と佐渡』五九~六四頁)とするが、小菅氏の『佐渡中世史の根幹』(六一~二頁)によると、「明治期の地図や土地台帳等の各地籍図、及び、『畑野町史総篇 波多』に掲載されている一六九四(元禄七)年の畑方村検地帳及び畑本郷村検地帳、旧版や『新版 日蓮と佐渡』などで畑方村に「下国府坊」(世尊寺の前身といわれる下江坊=下国府坊)という地名があった証拠としている一六六三(寛文三)年の世尊寺の田地預り証文等を詳細に調べた結果、下畑地域に国府関連地名を一筆も見出すことは出来なかった」と、調査結果を述べている。つまりは、畑野(波多)の地域に国府の存在を裏付ける歴史的証拠は一切ないのである。したがって、国府が畑野の地になければ、室町幕府が府中に建てた安国寺が、現在畑野にある安国寺の場所に建っていた証拠とならない事となる。また、「波多郷の安国寺集落は、「垣の内」地名は近くにあるものの、これまでに鎌倉期に集落があったことを証明する陶磁器片や遺構が只の一度も確認されたことはない。」(『佐渡中世史の根幹』四〇頁)と、云う事から、安国寺が室町期の創建已來、現在の地にあるという考古学的証拠も実際には存在しない事となる。

 銘板には、『佐渡本間系図』の徳治三(一三〇八)年、本間十郎左衛門が波多に熊野権現を建立したという記述があるが、小菅氏の『佐渡中世史の根幹』(四二頁)によると、『西蓮寺本間系図』(寛永二〇年)の原文には、「宗忠 左衛門十郎忍連 住雑太徳治三年畑野村熊野権現宮御正躰建立」と、ある事から、「本間六郎左衛門重連」の次の佐渡守護代であろう「本間十郎左衛門宗忠」は、「雑太」に住していた事が明白であるという。つまりは、佐渡守護代の館は、徳治三年の時点で「雑太」に在った事となる訳である。

 この様に、「安国寺」や『佐渡本間系図』の記述は、鎌倉時代に「本間重連の館や守護所は、波多熊野神社跡とそれに隣接する下畑玉作遺跡とされる場所を含む約一町四方の地域にあった」根拠となり得ないと考えられる。

 そもそも、「下畑玉作遺跡」は、県・市の教育委員会により弥生時代後期の玉造りの作業場・集団墓を昭和四六・四七年に発掘調査したもので県指定史跡として認定されている場所であり、ここを「鎌倉時代の佐渡守護所」と推定する説は、田中氏等一部の学者の仮説に過ぎない非公認(県・市の教育委員会)の説である。

 

 「二、塚原配所」の検証

 「このように、①守護所から監視できる場所に位置し、②周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、③古くから地域の共同墓地であったことなどから、④この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」便宜上①②③④の記号を付け、順に検証する。

 

 ①「守護所から監視できる場所に位置し」

 『新版 日蓮と佐渡』では、「塚原配所」が「守護所跡とされる下畑熊野神社付近から望むことのできる範囲」にある理由として『種種御振舞御書』の「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申山野の中に」(昭和定本九七〇頁)の文から、塚原配所を「六郎左衛門(本間重連)が家のうしろ」(『新版 日蓮と佐渡』四二頁)と解釈し、根拠として多用しているが、この銘板では、「守護所から監視できる場所に位置し」と、新たな理由を付け加えている。『新版 日蓮と佐渡』にこの様な理由は見当たらない。実際に検証してみると、田中氏が「守護所」とする場所から、この石碑の在る場所まで、約七五〇㍍程離れており、高さ三.九㍍という「塚原跡」石碑ですら一点にしか見えない。更に、夜間や様々な気象状況を考慮すれば、一人の人間を監視できる距離とは到底考えられない。そもそも、『新版 日蓮と佐渡』における、日蓮聖人は、阿仏房の下(佐渡守護代→波多郷地頭代→在家名主)に預けられ、その監視下に置かれたという仮説を既に忘却しているのである。『新版 日蓮と佐渡』で多用した「本間重連が家のうしろ」という「塚原配所」の所在を表す文証を、この銘板では明示せず、「守護所から監視できる場所」という言葉に置き替えた理由は、御遺文の解釈上に問題を発見した事かもしれない。

 ②「周辺に多くの史跡や関連する地名が残る」

 「関連する地名が残る」とは、「塚の腰」の地名のことであるが、「塚の腰」の地名は、熊野神社脇の田にある地名であり、そこから約二〇〇㍍程離れたこの石碑の建つ場所とは無関係の地名である。

 ③「古くから地域の共同墓地であった」

 『新版 日蓮と佐渡』では、「推定塚原配所」内の墓地について、「目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。」(七六頁)と、述べている。つまり、明治以前は墓地でなかった訳である。したがって、銘板の「塚原配所」と推定する理由として挙げた、「古くから地域の共同墓地であったこと」という条件は、『新版 日蓮と佐渡』の「推定塚原配所」内のは墓地でなかったとの記述と矛盾する事となる。

 これ等の石碑が建つ場所は、何の発掘調査もせずに工事を進めたが、この場所が「古くから地域の共同墓地」でなかった事実は、工事の際に敷地一帯を削り整地しても、墓石、人骨、埋葬品の陶器等何も出土しなかった事実により、自ら証明した事となるのである。

 ④「この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」

 「塚原配所」の推定範囲は、『新版 日蓮と佐渡』では、「北は熊野神社から、南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」と推定するのである。」(七七頁)、また、『銘板』では、「この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」(二町歩=約二一八㍍)と、ある。よって、「塚原配所」の推定範囲は、「北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで」の二〇〇~二一八㍍の範囲という事になる。

 実際に『ゼンリン佐渡市地図一/三〇〇〇』を用いて計測してみると、「北は目黒町の熊野神社(社殿)から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで」で距離は、約四〇〇㍍程ある。そこで、『銘板』の「この地を中心に」の文や、『新版 日蓮と佐渡』(七五~六頁)の「図」や「写真」を参照すると、「推定塚原配所」の中央を横切る道路を中心とした半径一〇〇~一〇九㍍の範囲という事になる。上の図②がその範囲である。したがって、正確には、北の熊野神社側では、鳥居より約一〇〇㍍程手前の場所から「推定塚原配所」となる。これは、「図」によっても確認できる。推定範囲の内、記号②上の三角形の土地が日蓮正宗が「塚原跡」石碑群を建立した場所である。^k 「日蓮大聖人と塚原」石碑の検証

 ①「塚原跡」石碑の解説である②「日蓮大聖人と塚原」石碑には、塚原跡碑建立までの経緯として、以下の文が記されている。

 

『碑 文 「日蓮大聖人と塚原」

 

 佐渡配流以前の日蓮大聖人

 日蓮大聖人は、建長五年(一二五三)四月二十八日に衆生救済の大法たる南無妙法蓮華経の宗旨を建立された。文応元年七月、『立正安国論』を前の執権北条時頼に奏呈したことから、翌弘長元年五月には伊豆配流に処された。

 赦免後の文永元年十一月、大聖人は安房東条小松原で念仏者の地頭東条影信に要撃されて額に刀傷を負い、弟子と信徒の中に殉教者も出た。文永五年には執権北条時宗をはじめ幕府要人や有力寺院を諌暁し、文永八年には大聖人の破折によって極楽寺良観の雨乞いが失敗したことから、大聖人に対する仏教界の怨嫉は強まった。同年九月十日、鎌倉の評定所に召喚された大聖人は侍所所司平頼綱に見参し、その二日後、平頼綱に対し書状をもって厳しく諫めた。そのため平頼綱は同日、不法にも大勢の兵士を率いて大聖人の草庵を襲い、大聖人を補縛して竜口の刑場に連行し、そこで斬首しようとした。しかし不思議な光り物の出現によって大聖人を亡きものにすることはできなかった。

 佐渡以後の日蓮大聖人

 鎌倉幕府は、大聖人を佐渡に流すため身柄を佐渡の守護代本間六郎左衝門尉重連に託した。大聖人は十月二十八日佐渡に到着、十一月一日塚原の配所に入られた。「塚」とは死人を葬る場所のことで、住まいは墓場に建てられた一間四面の荒れ果てた三昧堂であった。大聖人の側には日興上人が常随給仕された。塚原での五箇月間に人本尊開顕の書『開目抄』を述作されたほか、阿仏房夫妻の入信、諸宗の僧等との法論である塚原問答、本間重連の入信、最蓮房の入門などがあった。大聖人は文永九年四月、一谷に移されたが厳しい状況は変わらなかった。その中で『観心本尊抄』をはじめ重要御書を著わされた。文永十一年二月、赦免となった大聖人は、三月二十六日鎌倉に帰り、平頼綱に対面して三度目の諌暁をされた。

 その後、日興上人が教化した波木井実長の請いによって甲州身延に移られ、弟子の育成・信徒の教化・講説・執筆に努め、弘安二年十月十二日には出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を建立された。そして弘安五年(一二八二)、一期弘通の仏法を日興上人に相伝し、武州池上において入滅された。

 

 日興上人と佐渡布教

 後継の日興上人は、地頭は波木井実長が数々の謗法を犯したため身延を離山し、正応三年十月、駿州富士上野の地に大右寺を建立された。日興上人が佐渡で大聖人に常随給仕されたこともあって、その門弟から如寂房日満師や大和房日性師など佐渡有縁の僧侶を輩出した。当初、佐渡の布教は日興上人門流が主体であったが、僧侶・寺院とも次第に大石寺と疎遠になった。さらにこれらの僧侶・寺院は、有力者の庇護の許に勃興した他門日蓮宗に与同し、日興上人門流の教義信仰を失っていった。また日蓮宗寺院の派生に伴い佐渡には史実に反する伝説も生まれた。

 塚原史跡をたずねて

 日蓮大聖人の法灯を継ぐ日蓮正宗では、大正四年に第五十九世日亨上人が佐渡の史料調査を行い、後の著書に「佐渡の各寺の記録物は信用に足らぬ」と記された。昭和四十三年から第六十六世日達上人の命を受けた宗門僧侶が佐渡史跡を踏査し、御書の記述と史実をもとに目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した。その主な理由は、この地が波多守護所から監視できる距離にあり、近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓があること、周辺に「塚の腰」の地名が残り、目黒・寺田地区の共同墓地があることなどである。これは昭和五十六年刊行の大石寺版『日蓮大聖人正伝』において広く発表された。

 なお、この史跡の確定は、田中圭一氏並びに山本仁氏をはじめ佐渡郷士史家各位の長年にわたる精細な研究成果に負うところが大きい。

 

 塚原跡碑建立の経緯

 第六十七世日顕上人は、立正安国論正義顕揚七百五十年の記念事業として正当な塚原跡碑の建立を志され、これを受けて日蓮正宗では先に当地を取得し、このたぴ記念局として第六十八世日如上人の揮毫を賜って碑を建立することとした。

 ここに日蓮大聖人の忍難弘通の御振る舞いを偲び奉り、大慈大悲の御恩徳に報謝申し上げるべく跡碑を建立し、その縁由を誌し留める。

 

 日蓮大聖人曰わく、

 「十月十日に依智を立って、同じき十月二十八日に佐渡国へ著きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(種々御振舞御書)

 

 平成十九年五月十六日

 

      立正安国論正義顕揚七百五十年記念局

        佐渡塚原跡碑建立委員会   』

 

 以上が、碑文『日蓮大聖人と塚原』記載の文である。

 

碑文『日蓮大聖人と塚原』の検証

 

「佐渡以後の日蓮大聖人」

 「弘安二年十月十二日には出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を建立された。そして弘安五年(一二八二)、一期弘通の仏法を日興上人に相伝し、武州池上において入滅された。」

 

 「出世の本懐である本門戒壇の大御本尊」とは、大石寺「板曼荼羅本尊」のことである。この板曼荼羅には、本門戒壇の願主として「弥四郎国重」なる人物名が刻まれているが、『三大秘法禀承事』によれば、本門戒壇の願主は国主であり、一般人が願主となることはありえない。また、造立の日付として「弘安二年十月十二日」と刻まれているが、授与されたとする日興上人は、その日付の頃駿河にご滞在中で身延不在であった。「板曼荼羅」は、七面山の池に浮かんでいた楠で造られたと云うが、七面山の池付近は標高約一七〇〇㍍程あり、楠が生育しない環境である事は有名な事実である。大石寺九世日有が造立した板曼荼羅が二枚現存している事から、この「板曼荼羅本尊」も日有が造ったものと考えられている。(『創価学会批判』現宗研編、『日蓮宗事典』日蓮宗)

 近年の犀角独歩氏の研究により、大石寺の板曼荼羅は、北山本門寺・大石寺所蔵の「日禅授与曼荼羅」を臨写したものを基に彫刻された偽作であることがほぼ判明した。(『現代宗教研究第三九号』所収)

 

 「一期弘通の仏法を日興上人に相伝」とは、「二箇相承」の内、「身延相承」の内容である。同相承には、「国主此の法を立てらるれば、富士山本門寺戒壇を建立せらるべきなり。」とある様に、本門戒壇は、大石寺ではなく、「富士山本門寺」に建立されるべきであるとある。また、この相承書の日付は、「弘安五年九月 日」(一二八二年)とあるが、北山本門寺が建立されたのは永仁六年(一二九八年)であり、日蓮聖人滅後一六年のことである。

 顕応日教の文明一二年『百五十箇条』所載の「身延相承」の日付は「九月十三日」とあるが、『元祖化導記』によると、日蓮聖人は九月八日に身延山をご出発になり、池上には十八日に到着された。したがって、十三日は身延不在であり、相承書の日付と矛盾する。現在の書に「九月 日」と、日付がない事から、大石寺側で矛盾に気づき削除したと考えられる。

 日興門流における二箇相承の最古の記録は、大石寺九世日有の代に、顕応日教の文明一二年(一四八〇年)『百五十箇条』に見られる。また同じく、日教の長享二年(一四八八年)『六人立義破立抄私記』所載の二箇相承と、『百五十箇条』の二箇相承では「身延相承」と「池上相承」と文章が入れ替っていることから、二箇相承は、日教の(聖人滅後二〇〇年)頃に日興門流で作られ、「身延相承」と「池上相承」の内容は、簡単に入れ替わり定まっていなかった事が推測される。(『創価学会批判』現宗研編、『日蓮宗事典』日蓮宗)

 以上の様に、大石寺の正統性の根拠となる「板曼荼羅本尊」や「二箇相承」は偽作であり信用に足らぬものである事が、本宗において既に定着している。

 

  「日興上人と佐渡布教」

 「正応三年十月、駿州富士上野の地に大右寺を建立」とあるのみで、永仁六年に北山本門寺が建立された事は「碑文」の記述にない。現在、「板曼荼羅本尊」や「二箇相承」等の贋物を以て正統を主張する大石寺を日興門流の主流と認識する宗派は、日蓮正宗以外に存在しない。

 「当初、佐渡の布教は日興上人門流が主体であったが、僧侶・寺院とも次第に大石寺と疎遠になった。」とあるが、「如寂房日満師や大和房日性師」は、北山本門寺に有縁の師であり、島内に「大石寺」に関連する寺院も昭和三十六年の妙護寺建立まで存在した痕跡はない。「大石寺」とは本来「疎遠」である。国立国会図書館所蔵の参議院会議録『第〇四〇回国会 文教委員会 第三号』(昭和三十七年二月十五日)に、創価学会が用地の買収・登記を行い「佐渡の海上山妙護寺」を建てた旨が克明に記されている。つまりは、佐渡で日蓮正宗唯一の寺院である海上山妙護寺は創価学会により昭和三十六年に建てられたという事実が、この寺の歴史的起源である。

 「さらにこれらの僧侶・寺院は、有力者の庇護の許に勃興した他門日蓮宗に与同し、日興上人門流の教義信仰を失っていった。」とあるが、「板曼荼羅本尊」や「二箇相承」、「両巻血脈」(偽書)に基づく「日蓮本仏論」等大石寺の信奉する「日興上人門流の教義信仰」と称すものと、島内の日興門流寺院の教義信仰とは本来異質のものであろう。

 「塚原史跡をたずねて」

 「昭和四十三年から第六十六世日達上人の命を受けた宗門僧侶が佐渡史跡を踏査し、御書の記述と史実をもとに目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した。」「これは昭和五十六年刊行の大石寺版『日蓮大聖人正伝』において広く発表された。」とある事から、『日蓮大聖人正伝』を引くと、

「(二) 塚原三昧堂

 塚原の配所は本間六郎左衛門の館のうしろにあり、京都の蓮台野のように死人を葬るところであった。その墓地の中に、里人たちが葬いのために建てた一間四面の荒れはてた三昧堂が大聖人の謫所であった。

 その三昧堂のありさまについて大聖人は、『種種御振舞御書』に

 「十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし(以下略)(全九一六)」と述べられている。

 塚原の配所

 現在、この塚原の配所については、

(一)塚原根本寺説

(二)畑野町仙道付近説(橘正隆)

(三)日黒町説(田中圭一)

 などの諸説がある。その中で目黒町説がもっとも有力であろう。

 それは目黒町の塚原から五百メートルほど離れた下畑の地に、当時の佐渡守護所が置かれていたと推測されるからである。本間重連の屋敷も当然その付近にあったと思われる。

 また目黒町の推定地には「塚の腰」という古地名や、阿仏房の曽孫とされる藤九郎盛綱の遺跡が目黒町の妙満寺にあること、又、守護所西にあった寺が下国府房と呼ばれたことなど、御書の記述に符合する点も多い。」

(『日蓮大聖人正伝』大石寺二一六~七頁)

と、記している。単なる田中圭一氏の「目黒町説」を紹介したに過ぎない。しかも、その中に間違いが何点か指摘できる。

 まず、「昭和四十三年から」佐渡史跡の調査を行ったとし、その内容は『日蓮と佐渡』の「目黒町説」であるが、『旧版 日蓮と佐渡』の共著者の小菅氏の指摘によると、「目黒町塚原説が打出されたのは昭和四六年の(旧版)『日蓮と佐渡』刊行が初めてのことである。」(『佐渡中世史の根幹』九四~五頁)と云う。

 「目黒町の塚原から五百メートルほど離れた下畑の地」と、あるが、実際には約七五〇㍍程離れている。

 「阿仏房の曽孫とされる藤九郎盛綱」と、あるが、「藤九郎盛綱」は、阿仏房の「曽孫」ではなく息子である。

 「守護所西にあった寺が下国府房と呼ばれたこと」と、あるが、小菅氏によると「旧版や『新版 日蓮と佐渡』などで畑方村に「下国府坊」という地名があった証拠としている一六六三(寛文三)年の世尊寺の田地預り証文等を詳細に調べた結果、下畑地域に国府関連地名を一筆も見出すことは出来なかった。」(『佐渡中世史の根幹』(六一~二頁)と、調査結果を述べている。つまりは、「守護所西にあった寺が下国府房と呼ばれた」とする証拠は実在しない様である。

 以上の如き有様から、数年間かけて調査した内容とは到底考えられない。実態は、田中圭一氏の「目黒町塚原説」をそのまま鵜呑みにしただけのもので、事実確認すら満足に行っていない杜撰な内容である。踏査の形跡は全く見られない。

 

 「碑文」の「目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した」根拠となる文

 「その主な理由は、①この地が波多守護所から監視できる距離にあり、②近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓があること、③周辺に「塚の腰」の地名が残り、目黒・寺田地区の共同墓地があることなどである。」を検証する。便宜上①②③の番号を付けた。

 記述の内容は、銘版『塚原配所考』の内容とほぼ同じである。

 

①「この地が波多守護所から監視できる距離にあり」

 『日蓮大聖人正伝』と「碑文」の『種種御振舞御書』の文の相違点を指摘すると、

 『日蓮大聖人正伝』では、『種種御振舞御書』の文が、

 「六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に」(全九一六)『日蓮大聖人御書全集』

とあるが、碑文の『種種御振舞御書』では『平成新編日蓮大聖人御書』を用いて、

 「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に」と改めている。

 『日蓮大聖人正伝』では、「塚原の配所は本間六郎左衛門の館のうしろにあり」と『日蓮大聖人御書全集』に基づいた解釈をしている。「碑文」では『平成新編日蓮大聖人御書』を用いて、「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原」と改めているにも拘らず、「この地が波多守護所から監視できる距離にあり」という理由にしているのは、「塚原の配所は本間六郎左衛門の館のうしろにあり」という解釈に基づいているからであろう。だが、「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原」の正確な文意は、「六郎左衛門家の後見人(うしろみ)の家より塚原」であり、六郎左衛門家の「うしろ」に塚原があるという位置関係を表したものではない事は前述の通りである。

 この様に、「碑文」には、「六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に」と引用を改めているにも拘らず、「この地が波多守護所から監視できる距離にあり」という誤った理由を付け加えるという矛盾がみられる。

 

②「近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓がある」

 『日蓮大聖人正伝』では「阿仏房の曽孫とされる藤九郎盛綱」とあるが、「碑文」では「近くに阿仏房ゆかりの寺やその子息藤九郎盛綱の墓がある」としていることから、「藤九郎盛綱」は、阿仏房の「曽孫」ではなく「子息」であることに気付いたのであろう。

 

③「周辺に「塚の腰」の地名が残り、目黒・寺田地区の共同墓地がある」

 「塚の腰」の地名は、熊野神社脇の田にある地名であり、そこから約二〇〇㍍程離れた「塚原跡碑」の建つ場所とは無関係の地名である。

 前述したが、『新版 日蓮と佐渡』では、「推定塚原配所」内の「目黒・寺田地区の共同墓地」について、「目黒町の共同墓地は、藤九郎守綱のものと伝えられる墓のあるところから、明治四十二(一九〇九)年頃に移したものであり、また、寺田の共同墓地は、いまの墓地の南方にある寺田の真言堂のところから大正期に移した。」(七六頁)と、ある通り、明治以前「目黒・寺田地区の共同墓地」の場所は墓地でなかった訳である。『日蓮大聖人正伝』に無い誤りである。

 

 銘板『塚原配所考』の「推定塚原配所」の根拠となる文には、

 「このように、①守護所から監視できる場所に位置し、②周辺に多くの史跡や関連する地名が残ること、③古くから地域の共同墓地であったことなどから、この地を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」とある。①②③の文は、それぞれ「碑文」の①②③の文に対応するものである。すなわち、「銘板」と「碑文」の文は全く同じ構成・内容である。

 つまりは、最初に、銘板『塚原配所考』の原稿が大石寺に送られ、その「銘板」の文章を基に「碑文」の文章が作文された結果、『新版 日蓮と佐渡』には無い、①「この地が波多守護所から監視できる距離にあり」という新たな理由や、③「目黒・寺田地区の共同墓地がある」という間違いが「推定塚原配所」の根拠に付け加えられたのであろう。「碑文」の筆者が、『新版 日蓮と佐渡』を満足に読まず、事実確認もせずに「碑文」を作文した事は、自明の理である。 

 

 「推定塚原配所」の範囲

 「碑文」の「目黒町鳥居畑地域を塚原跡と推定した」との文から、「銘板」田中氏の「この地(石碑建立の場所)を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」という範囲の内、正確には、日蓮正宗では、同宗が購入し石碑を建立した「鳥居畑」の土地を「推定塚原配所」としている様である。^k

 四、結 論

 

 ①妙満寺伝承塚原配所説と②田中圭一氏の推定塚原配所説の比較検証を示して結論とする。上の地図参照。

 ①妙満寺伝承塚原配所説は、妙満寺に三昧堂跡との伝承のある重箱田と三角田に熊野神社の鳥居より社殿後ろまでの境内地を含む①に表される範囲とした。

 ②田中圭一氏の推定塚原配所説は、『銘板』に記される「この地(石碑を立てた場所)を中心に、北は目黒町の熊野神社から南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの約二町歩の範囲内を佐渡における日蓮大聖人の「塚原配所」と推定する。」(二町歩=約二一八㍍)の記述、並びに『新版 日蓮と佐渡』七七頁の同様の記述(「約二百メートルの範囲」)と七五頁「図」から②に表される範囲とした。この内、日蓮正宗が「塚原跡」石碑群を建立した場所は、記号のある三角形の土地である。

 この様に、①妙満寺伝承塚原配所説と②田中圭一氏の塚原配所説は、正確には別々の範囲となる。

 地図上の市松模様の部分は、「阿仏房在家」の中心部を取り囲む「垣の内」の田地である。「三昧堂」「共同墓地」は、中世の「在家」の構成上、「阿仏房在家」内、もしくはこれに隣接して在ったと考えられる。

 ①妙満寺伝承塚原配所説の範囲は、三昧堂跡との伝承のある重箱田と三角田、中世の共同墓地である熊野神社境内地で構成され、「阿仏房在家」の中心部を取り囲む「垣の内」の田地との境界上に隣接する場所にある事が認識できる。

 これに対し、②田中圭一氏の推定塚原配所説は、「阿仏房在家」の「垣の内」の田地に隣接する箇所は、「推定塚原配所」とする範囲の内、中央を横切る道路より北は熊野神社の一〇〇㍍手前までの部分であり、南は石碑の建つ日蓮正宗の購入地より目黒町と寺田の共同墓地のあたりまでの部分は、「阿仏房在家」の範囲外で離れ過ぎであり、関連する事跡も無い「塚原配所」としての根拠に乏しい土地である。

 「塚の腰」の地名は、熊野神社脇の田にある地名であり、そこから二〇〇㍍以上離れた「塚原跡碑」の建つ場所とは無関係である。②田中氏の「推定塚原配所」の中央を横切る道は「横大道」として中世より存在したと考えられる事から、土地としても元々この道を境として分断されていたと考えられる。現在においても、道より北側は目黒町熊野神社の境内地であるのに対し、南側は私有地であった為、日蓮正宗が購入できた訳である。また、日蓮正宗購入地は「塚原跡碑」建立の為、何の発掘調査もせず敷地一帯を削り整地したが、墓石、人骨、埋葬品の陶器等「共同墓地」を証明するものは出土されなかった事から、「古くから地域の共同墓地」でない事が明らかとなった。隣接する「目黒町と寺田の共同墓地」も明治以前は墓地では無かった。以上の理由から、石碑の建つ場所より目黒町と寺田の共同墓地の部分は、「塚原」の地名は無く、「塚原配所」とは無関係の場所であると考えられる。したがって、「塚原跡」石碑群の建つ日蓮正宗購入地は、「塚原配所」ではない事となる。

 今回の現地調査において、『旧版 日蓮と佐渡』共著者の小菅徹也氏のご協力を得て、「阿仏房在家」の中心部を取り囲む「垣の内」の田地を確認する事により、「阿仏房在家」の範囲を特定できた。この結果、妙満寺に「三昧堂跡」との伝承のある重箱田と三角田は、「在家」の構成上、「阿仏房在家」内、もしくはこれに隣接して在ったと考えられる「三昧堂」の所在の条件と合致する事が確認できた。

 これに対し、『新版 日蓮と佐渡』における田中圭一氏の推定塚原配所説は、「阿仏房在家」の中心部を取り囲む「垣の内」の田地に対する現地調査や考察の形跡が全く見られない。

 「妙満寺の西側三十メートルほどにある浅い沢をへだてて、目黒町熊野神社の建つ台地がある。」(『新版 日蓮と佐渡』七四頁)

 文に示される様に、「浅い沢」の部分に本来在るべき「垣の内」の田地の考察が全く見られない。地図上の大まかな「在家」の推定は見られるが、この様に「阿仏房在家」の範囲の境界を示す「垣の内」の田地の正確な把握が無いままで「塚原配所」を推定した結果、

 「北は熊野神社から、南は目黒町と寺田の共同墓地のあたりまで、約二百メートルの範囲の内が「塚原配所」であると推定」(『新版 日蓮と佐渡』七七頁)し、

 「いまの寺田と目黒町の共同墓地辺り()が、「塚原」であった可能性が大変強いと考えられる。」(『新版 日蓮と佐渡』七六頁)と、「阿仏房在家」ではない「寺田と目黒町の共同墓地辺り()」を混同して「推定塚原配所」に加えている。この点に関して、『種種御振舞御書』の誤訳も原因の一つであることは既に述べたところである。

 最後に、調査結果を確認する。

 ①妙満寺伝承塚原配所説は、「在家」の構成上、「阿仏房在家」内、もしくはこれに隣接して在ったと考えられる「三昧堂」の所在の条件と合致する塚原配所の可能性の高い場所である。

 ②田中圭一氏の推定塚原配所説は、推定範囲の中央を横切る「横大道」より目黒町熊野神社手前の範囲は、塚原配所の可能性は考えられるが、「横大道」より目黒町共同墓地にかけての範囲は、「阿仏房在家」の範囲外の塚原配所としての明確な根拠のない場所である。したがって、「塚原跡」石碑群の建つ日蓮正宗購入地は、「塚原配所」ではないと考えられる。

 以上を以て調査報告の結論とするが、あくまでも、妙満寺伝承の塚原三昧堂跡を現地調査により検証したものであり、伝承の域を越えるものではない。また、田中圭一氏の「目黒町塚原配所説」は、論証上に多々の問題点がある一推論に過ぎないことは既に検証した通りである。

 

 現状と今後の問題点

 日蓮正宗が田中氏に与同した背景には、日蓮宗に対抗した「推定塚原配所」を確保し「塚原跡」の石碑を建立すると共に、『日蓮と佐渡』著者の田中圭一氏という一般社会に認知度の高い学者の協力に便乗して自宗の正統性を世の中に認めさせようとの意図があった事は事実であろう。

 しかし、「碑文」の内容は、個々に検証した通り、日蓮宗を批判した心算が返って自宗の愚かさを世間に知らしめる結果となった杜撰なものである。中でも、「目黒・寺田地区の共同墓地」とある土地が以前墓地でなかった事は近隣の住民には周知の事実であり、周りに何の断りもなく工事を始めた事と相俟って、既に近隣の方々(「阿仏房在家」に有縁の方々)の不審を買っているのである。

 この様に石碑に刻んだ明らかな間違いすら訂正する気のない対応が、日蓮正宗の異端性を自ら社会に晒しているという事に全く気付いていない様でもあるが、そういった常識的な客観性を持てば自宗の存立が危うくなるという矛盾に本人等も気付いているのであろう。日蓮正宗を母体として成立した新興宗教が多々の社会問題を引き起こしている事実に対し自宗の責任を認めないことも同じ理由であろう。

 目黒町の妙満寺は、日興上人より北陸道七カ国の法華弘通の棟梁に任命された日満上人の三昧堂顕彰・御遷化の地であるとするならば、この地の近隣に「塚原跡」と称する石碑を周囲に無断で建て妄語を連ね独善にはしる教団は日興上人・日満上人の意向に反する謗法の輩であると言わざるを得ないであろう。

 『旧版 日蓮と佐渡』共著者の小菅徹也氏は「塚原跡碑」石碑群について以下の様に懸念されている。

 「大きな碑とその建立主旨及び歴史的経緯・歴史的な評価を述べた両側の碑の文面に、特定の意図や歴史事実の歪曲・捏造が含まれていたら、後世において歴史を正すことはまったくできなくなる。」「碑文の誤りは、関係者が歿した後も一人歩きし、誤解を島内外に撒き散らし、当事者の恥を永遠にこの世に留めることになる。」(『佐渡中世史の根幹』九二~三頁)

 田中圭一氏とこれに与同する日連正宗の「目黒町塚原配所説」の数々の問題点は、既に検証した通りである。今後の問題は、世間一般の人々がこの石碑の内容を何も知らずに是認してしまう可能性がある事である。一仮説に過ぎぬものを石碑に刻むことで絶対化しようとする行為は、後世の人々に対する影響を考えれば、許されざる行為であると言い得る。今後の対応を考える必要があると思われる。

 

 現地調査にあたりご協力いただいた小菅徹也氏は、現在、社団法人資源素材学会・日本鉱業史研究会理事を務める鉱山史・島内史全般を研究対象とする在島の歴史家であり、昭和四六年刊行『旧版 日蓮と佐渡』の共同研究者・共著者でもある。今回の新刊『佐渡中世史の根幹』では、田中圭一氏の『新版 日蓮と佐渡』の問題点を小菅氏の専門である歴史地理学的見地から検証し新たな見解を示すと共に、日蓮正宗が田中説に基いて建立した「塚原跡碑」についても言及している。また、阿仏寺(妙宣寺の前身)が最初に建立された場所と考えられる土地の寛文年間の「阿仏房元屋敷絵図」の写真乾板を再発見し、詳細に考証している。今まで田中氏の『新版 日蓮と佐渡』への対照的な研究が皆無であった事から貴重な書でもある。

『佐渡中世史の根幹』~日蓮聖蹟が読み解く中世~ 小菅徹也著

     A5版 全一三五頁 頒布価格一〇〇〇円 送料八〇円

 

 連絡先 佐渡市金井新保乙三九〇番地 小菅徹也宅

        〒九五二─一二〇八 FAX 〇二五九(六三)二一一九

PDF版をダウンロードする