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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

日蓮宗の戦前大陸での布教について—宗会審議と予算を中心に—

 

日蓮宗の戦前大陸での布教について
 ─宗会審議と予算を中心に─
 
坂 輪 宣 政
 
  はじめに
 日蓮宗の昭和戦前期の海外布教、とくに大陸での活動について宗内予算という視点からの考察を試みるのが本稿の目的である。近代以降の日本人が大陸へ徐々に移住しはじめた時代から太平洋戦争終結まで、日蓮宗は大陸各地に布教所や寺院を建立し、僧侶を派遣して布教を行っていた。本稿では昭和六年の満州事変から昭和十六年の太平洋戦争開始前までの時期に焦点を当てて、具体的な行動の記録を通して当時の宗門の活動について考察を試みた。
 なお、この時期の宗門は複雑な情勢の日本・世界の中で活動していた。単純にその行動の正否を論ずるのではなく、あくまで事実を確認する作業の一過程として本稿をお読みいただければと思う。
 資料としては、主に日蓮宗発行の「宗報」「日蓮宗教報」「日蓮主義」を用い、『中外日報』などの新聞と当時の人々の著作や回想録の記述を補助とした。宗門発行のものは内容が極めて確実であり、記載事項はほぼ事実と間違いないものと考えて取り扱った。他の外部発行の新聞は事実に誤りがある懼れもあるが、決定に至る過程や情勢への推測など宗門内の発行物には見られない要素を多分に含み、照合することによってより理解が深まると考えた。著作からの引用については、内容を傍証によって事実かどうか確認することの困難なものが多く、特に回想録は時間を経て書かれたものであるので、これらを引用して論述することに批判はあるかもしれない。しかし、特に否定すべき問題のない限り、当時の様相を如実に示してくれる貴重な資料として参考とさせていただいた。
 以下これらの資料により、宗門の満州事変後の急激な大陸布教への傾斜を確認してゆくこととする。
 さて、日蓮宗の大陸での布教史を通観する時、その時期により四期に分けて考えることがよいのではないか、と考えた。すなわち第一期は宗門が大陸布教に関心が薄かった昭和六年までの時期である。蓮永寺など特定の門流や布教師の個人的な努力による大陸布教が主であった時期である。第二期は満州事変勃発以降昭和十二年の支那事変勃発までである。この時期には宗門は満州へ強烈な関心を向け、自発的に満州での教線拡大に奔走していた。第三期は支那事変以降昭和十六年の太平洋戦争開始までの約四年間である。この時期の宗門は、軍の要請に応じ協力する形で中国全土の日本軍占領地での布教・宣撫活動を多額の費用をかけて行っていた。支那事変以降は満州は従属的な位置づけとなってしまっていたわけである。さらに第四期は太平洋戦争以降終戦までの約四年間である。この時期の宗門は完全に戦争に巻き込まれ翻弄されていた。まったく自律的でない活動の時期といってよいのではなかろうか。
 このような四期の分類を想定したのは、当然ではあるが、宗門の動向も日本全体の歴史の推移に一致しているからである。また、実際に上記資料の内容、特に宗会での審議や予算を検討しても、宗門当局の動きはこの分類にちょうど合致すると結論できると考えたのである。本稿では、この四期の分類に沿う形で、紙数の制限もあるのでごく簡略にならざるを得ないが、宗門予算を中心に大陸布教史を検討する。
 
一 宗門予算と大陸布教
 まず宗門予算のグラフから大陸での布教を考えてみることとする。表1に記載した予算の金額は「宗報」と「日蓮宗教報」の宗会の「収入支出決算表」(昭和十一年のみは予算案の数字)からのものである。当初は海外布教と開教地布教に関する予算は「布教費」の中の一項目であった。昭和八年度からは満州開教費が布教費の中から独立して別項目となり、さらに昭和十三年からは支那関連予算が独立して別項目になった。開教地の項目と満州、支那の各項目、それに立正大学への交付金や学生補助費の四つの項目をグラフにしたのがグラフ一とグラフ二である。
 グラフ一は四つの項目それぞれが予算全体の中に占める割合をパーセントで示したものである。各年度ともおおむね、開教地関連予算と立正大学関連予算の合計で宗門予算の約三割前後を占めていることが分かり、その推移を確認することで予算内での比重の変化を読み取ることができると考え、このようなグラフにしたものである。
 昭和初期には宗門予算の四分の一前後を占めていた立正大学関連の予算の比率は次第に減少し、昭和十六年度には約十分の一にまで低下してしまう。かわりに比率が目覚ましく増加していったのが大陸関連の予算である。昭和初年頃は開教地・海外の全体で全予算の三パーセント前後しかなかったものが、満州事変後の昭和八年度から満州布教のための予算が本格的につくようになり、満州だけで約一割となった。さらに昭和十三年度からは支那事変への対応として膨大な予算が必要となった。日本軍の占領地域が際限なく拡大するのに合わせて、宗門でも各地に布教所を開設していったのであるから非常に膨張し、慰問や宣撫への支出とも併せて年間予算の約二割が支出されるようになった。
 ただし、立正大学への支出が削られて大陸での布教にまわされていたわけでないことはグラフ二からも明瞭である。グラフ二は比率ではなく金額を積み上げたものである。立正大学への交付金や補助金はたしかに漸減していってはいるが、大きな変化ではない。予算全体が戦時インフレや増徴により昭和十二年頃から急激に増加して昭和十六年度では十一年度の倍ほどにもなっているのに、大学への予算額はあまり変わらなかったことが比率低下の理由である。
 開教地・海外予算も大学予算と同様大きな変化がないのに対し、満州と支那の二項目は各事変後にかなりの金額が支出されているのがわかる。後記のようにこれらの支出を無理をしてでも出さざるを得なかったことは、宗門の時局への対応に由来するわけである。国策にも応じた大陸への支出のために寺院賦課金を増徴してまで収入を増加させた結果、予算額が増大する大きな原因になったのは確かである。
 
二 満洲事変以前の満州布教
 ここで、まず事変以前の満州開教の状況について簡述する。
『日蓮宗教報』一五八号には『満州教況視察日誌』と題する管長代理平間壽本師の満州視察記録があり、昭和四年段階での満州寺院の経緯について記した一覧もある。
 その視察日誌の一部を抜粋すると、例えば大連春日町での講演会では「従来の無関心主義に就いて宗門自ら反省せるところありとして聴衆皆喜色を作しつつ、之を機として更に進みて内地宗門より開教地に対して進取的に何等かの後援開拓を為されたしと要求する者多し」と記す。在外邦人からの要望が強かったことがうかがえる。また、従来の宗門は海外布教に関してあまり援助もなさず、布教師個人や特定の門流が努力していたのみであった、として方針の転換を望む内容が全編に見られる。平間は蓮永寺の貫首を務め、自身満州奉天で布教にあたったこともあり、海外布教に宗門が冷淡であることに不満があったようである。「口に広宣流布を唱え乍ら従来何等積極的に開教地に対して援助を与えず、対岸の火災視し来った関係上、余が如き始めて宗令を帯びて来れる者に対して在満各地の僧俗は異常の喜色を以て迎え呉れた。」「而して一様に口を開けば、内地宗門の覚醒せる開教地布教方針の樹立と積極的教田開拓の新運動要望の一事であった」従来の宗門は無関心と冷淡であった、と批判し新たな開教地布教の方針樹立を訴えている。
 ここで、満州における日蓮宗の寺院布教所の増加を確認したい。
 明治四十四年『日蓮宗名簿』には満州の寺院としては旅順口の日清寺(一九〇七建立)のみであるが、大正三年になると、大連の大連教会所(大蓮寺)、奉天蓮華寺、安東日蓮宗布教所の三ケ所が加わり、昭和四年「平間壽本満州教況視察日誌」では七ヶ寺三布教所が記されている。
 さらに、昭和十年には満州地域(関東州を含む)の日蓮宗寺院・布教所は計二十六ヶ所を数えるほどになっていた。旅順・瓦房店・営口・大石橋・遼陽・旅順・本渓湖・鐵嶺・開原・公主嶺・四平街・安東。さらに大連に六ヶ寺、奉天に二ヶ寺、・鞍口・新京に三ヶ寺である。(『仏教年鑑』昭和十一年版)
 以下に最も詳細な平間日誌の記述を要約した。
㈰大連市沙河口・大法寺(大正十一年設立。同地は近年満鉄の工場地として著しく発展したため、大蓮寺の檀家三百軒を分割して建立。官憲から地所二百坪を下付される。満鉄会社より金二千円の寄付を受ける。三万円で本堂・庫裡を新築。)
㈪旅順日清寺(明治四十年小泉日慈の創立。白玉山麓千二百七十坪)
㈫奉天蓮花寺宇治町(明治四十三年、平間自身が小泉日慈の命を受けて布教を開始。平間は一年で帰るが翌四十四年九月信徒中心に布教所の許可を得る、境内八百二十坪、本堂庫裡九十坪余。三千六百円で建立。寺号公称は大正十一年九月。)
㈬撫順・永安台布教所(大正八年十二月、満鉄より三百八十坪を下付されて開始。現在本堂二十四・五坪、庫裡二十七・五坪附属建築物十八坪、信徒百戸余。)
㈭鉄嶺・妙法寺(大正五年、居留民会事務所内に仮布教所を設置し、大正七年十一月現在地に。境内二百坪。本堂庫裡二十二・五坪)
㈮四平街・日蓮宗布教所(大正十一年三月開創。創立費用六百円を満鉄から下付される。同年四月に設立許可)
㈯長春・経王寺谷口慈祥(大正五年八月布教所設立許可。同十一年寺号公称の許可。境内三百四十坪本堂庫裡計百坪余)
㉀ハルピン・本渓湖布教所(大正四年設立。境内百十坪余 檀家数七十戸以上) 
㈷安東・法花寺(明治四十四年八月、布教所設立許可。大正十一年六月寺号公称の許可。境内百五十坪、本堂庫裡七十坪余。現在檀家総数二百五十戸。)
㉂大連・大蓮寺
 
 満州での寺院建立については『関東局三十年史』には「仏教の如きは最初より寺院として設立するものは極めて稀にして、多くは寺院出張所又は布教所等の名義を以て設置し、信徒の増加と寺院建設経営の資金とを得るに至った後、初めて本山の承認を受け監督官庁の許可を得て寺号を公称するを通例とする。」とあるように最初に布教所を設立して、しばらくして安定してから寺号公称を許可されるのが一般的であったようである。
 上記十ヶ所のなかには満鉄(南満州鉄道)から土地や資金を寄付されたり、土地の貸付を受けた例があるが、満鉄は社員を中心とする附属地居住の日本人の精神的安定のために宗教的な施設に援助を行っていたので寺院建立にも協力的であったのであろう。明治四十年十一月の関東都督府内訓十六号による寺社への州内土地家屋貸付規則制定によると、寺は通常の八分の一から二分の一の地代で満鉄から土地の貸付を受けられた。また昭和五年三月からは無料となった。㈰の沙河口大法寺のように、産業発展による在住日本人の増加によって寺院が希望され、満鉄の支援によって建立された例は満州における寺院の典型の一つと思われる。日本人の日本人のための日本仏教招請と満鉄の宗教への関与をよく示す事例の一つであろう。
 満鉄は明治三十九年八月の勅令で設立された政府が半額出資する特殊な会社で、同月の三大臣命令書により、附属地の土木・教育・衛生などについて必要な施設を施し、居留民から手数料その他の費用を賦課する権限を与えられていた。大正十一年に関東庁の組織が整備され「関東州及南満州鉄道附属地神社規則」(関東庁令第七八号)と「関東州及南満州鉄道附属地寺院、教会其の他布教所規則」(関東庁令第七九号)が制定されるまでは社内の学務課社寺係が満鉄附属地の宗教行政を代行していた。また、火葬場や墓地も満鉄の管轄であった。当然ながら、日蓮宗の寺院も満鉄と様々な関わりがあったのであろう。
 
三 満州事変後の展開の概略
 昭和六年の満州事変後に満州国が建国されると、宗門では極めて積極的に満州開教をこころざすようになった。
 その熱心さは中外日報の十年七月二十日付の記事では「最近殊に意をここに専注する。蓋し異常なものがあり」とまで表現されたほどであり、予算の面からもその傾倒ぶりはよく表れている。まず最初は昭和六年度には満州での布教の準備調査費として三千五百円が計上された。そして、翌七年には小野宗務総監・馬田総務主事が布教の予備調査のため渡満し、その予算が支出されていた。さらに八年から金額が急激に増加した。その後も予算の増額や視察が相次ぎ、支那事変勃発まで、満州開教は活発に展開していくのであるが、これについて順をおって述べていきたい。
 まず、日蓮宗の動きが報じられている記事をみると、中外日報七年二月二十日付では「満州国の創建に際して大々的教線の拡張を計る為」柴田内局が宗会に提出した予算で、満蒙開教の為、従来二千八円であった開教地布教補助費を七千八百円に増額することを提案したと伝えている。(実際の支出額は七二五〇円)管長の伝道も山陰・九州から満鮮に変更したことも報じる。(これは後の神保管長親教につながるわけである。)また、大連の開教司監部を奉天に移すことをも決定し、しかも満州を関東州とは別の独立教区にすることした、と報じ日蓮宗の積極姿勢を大きく報じている。
 以上の中外日報の報道は最終的に決定された金額については相違があるものの、大筋では間違いがなかった。宗会での予算審議を通じて、この時の当局の考えを確認したい。
 「宗報」一八四号(昭和七年四月)における昭和七年度予算案についての総監の施政演説中に「次に開教地布教補助費について前例のない多額の要求をしたるは、去九日を以て建国式を挙げたる大満州新国家に対する本宗の積極的、本格的の布教方策を樹立するの準備として司監自ら長春若くは奉天に常在して調査を遂げ来期宗会には具体案として提出せんとする順序となる筈で、王道主義の新国家の発展に伴う立正主義の発展に万全を期せんとする所以である。尚、開教本部の北進・開教師の増員・教線の連絡統一、第二法華村の建設等、前内局以来踏襲し来った政策中」とある。満州国の建国を肯定し、協力する形で布教していくべきである、という一貫した姿勢がわかる。また、多くの具体策が提示されているが、「第二法華村」というように満州への移民を推進する意向がとくに注目されるべきであろう。実際に昭和十三年度からは「集団開拓」などに宗門が取り組むようになるわけであり、その発想がすでにこの時点からあったことを示すものである。
 このように宗門が「前例のない」多額の開教地予算を要求し、それが宗会で受け入れられたのは、満州国の建国という事態を好機ととらえ全力で当たりたいという意志が宗務院当局だけではなく野党側にもあったからであろう。野党の道友会も定期宗会前の総会の決議で「満蒙新国家の建設に対して本宗発展の鴻園を樹立すべきものとす」という一項を入れている。(中外日報七年二月二十七日付)
 このような状況をみると、以前に平間師が視察談で宗門の開教地布教への冷淡さを嘆いたのが僅か三年前であったことが信じられないほどの変転ぶりであり、まさに隔日の感がある。
 同宗会の横山部長の昭和七年度の予算案説明中「又、開教地布教補助費の二千五百円増は満蒙に於ける本宗布教方針樹立のために、額は些少ながら」出来うる限りの努力として差し当たり「二千八百円を見込んだ」とある。この額は後の満州開教関係予算金額と比較すると大変少ない。この点に関し神代議員の質問があった。「教旨の全文は殆ど満蒙開教に就いてである。(中略)が、宗務院提出案並びに予算案を見るに何等其の運びの影が見えない。唯予算案に二千五百円の調査費が計上してあるのみである。満蒙の地は日本の夫れに比して三倍もあり斯る所へ斯る僅少な予算を組んだとて教旨に添わず惹いて総監の方針にも当たらないと思う。今少し馬力をかけられては何うか」
 総監の答弁として、今の農村疲弊問題などで宗門は財源不如意であるので「仮令僅少ではあるが大事業遂行前の調査費として諸費を節約して二千八百円を捻出した」のでご了承願う、としている。それに対し、神代議員はさらに「何れの宗門も満州の開教には全力を挙げている。布教伝道の道場の敷地の買収・布教師の養成等の根本問題に就いて単に宗門は貧乏だから出来ないと説明しては満足ではない。兎角満州開教の為めに全力を挙げて努力せよ。」、と注文をつけている。他宗との競争という視点がここでも出てくる。信徒数の少ない日蓮宗では他宗との競争を意識しつつ満州に目を向けていたが、この時は予算は十分には取れなかったという様子もわかる。実際に開教地予算が前年度の四千七百円から七千二百五十円に増やしたくらいでは実際の活動は困難であったと思われる。
 ところが、翌八年度になると満州関連予算は大幅に増額することとなるのである。中外日報昭和八年一月二十六日付には「日宗、満蒙に進出 約五万円の予算を投じ・布教師量を増加して日満学校、施薬施療を始む」と題する記事がある。内容を要約すると、「満蒙の新大地に一大教線の拡張」を計って小野内局が「満蒙開教の特別予算」五万円という「宗門としては前例のなき膨大なる予算」を計上したことを中心に報ずる。前年には柴田前内局が満蒙開教準備費三千五百円を計上していた。小野総監は前内局の方針を継承し、満蒙布教の拡大を目標としている。管長代理の資格を以て満鮮巡教をする計画も示したが、内容としては「具体的に発表するまでの域に達してゐない」という。また、現在奉天にある司監部を新京に移し、ハルピンはじめ主要都市に布教所を設置する計画であるとする。昭和七年の十月から十一月にかけて行われた小野宗務総監の風間管長代理としての満州訪問が好印象をあたえたことも一つの要因となったのであろう。小野総監は満州国溥儀執政にも謁見し、各地を巡回した。謁見は前に他宗が二宗ほど申し込んだが謝絶され、日蓮宗が最初となったものであった。(宗報一九二号・昭和七年十二月)ほかにも満州へ視察に赴いた人々もあり、満州での布教の展望が開けたと考えたのが、予算の投入へとつながったのであったろう。具体的には各地で土地を取得して布教所を開設する予定であったのであろう。
 そして、この記事でもう一つ注目すべきは、大増員されるべき布教師の要員として立正大学卒業生を期待している点である。「目下立正大学当事者に依頼して卒業生中より之が詮衡を為しつつあり。今年度中には少なくとも十五名内外の研究生を送って満州語を習得せしめ漸次これを採用する筈である」などとある。司監部では立正大学卒業生を用いて日満語学校の開設や施療所の前提となる施薬所の設置などを企画し、教学部長が現地にて陣頭指揮をする予定とも報じている。宗門高等教育機関である立正大学に布教要員養成の期待がかかるのは当然であろう。大学と満州の関係については、後節でもう一度取り上げる。
 ところでこの記事の予算五万円は、宗門の年間予算の規模から見てあまりにも大きく、疑問である。あるいは布教献金などから支出することや数年間の総額という意味での金額なのであろうか。実際の昭和八年度の満州への支出額は一万五千円弱である。
 なお、ここであらためて注目すべきは、やはり満州国の建国を全面的に歓迎し、これを好機として教線の発展を志す姿勢であろう。また、この立ち上がりの早い動きは日本仏教各宗の間でも極めて先端的で、その後の満州での各宗の比較でも日蓮宗が目立つ理由の一つであろう。当時、満州は日本の人口問題の解決策とも目され、日本人の移民が急増するでろうと見込まれていた。また満州人への布教も、いまだ満州人の信仰がよくわかっていなかった分、有望であると思われたのであろう。さらには、海外布教の第一人者は日持上人であると自他共に評価していたことが満州重視の方針につながったのでかもしれない。また、満州事変によって、今迄獲得できなかった大陸での布教権に到達したという思いもあったのかもしれない。さらには他宗の大教団の本格的に始動する前に足場を固めておきたいという意図もあったのであろう。こういった諸点が当時の日蓮宗の姿勢に影響を与えていたのではなかろうか。いずれにしても、宗門は満州国の建国を発展の好機ととらえて、積極的に開教を志していたのである。
 
四 新京の開教司監部
 宗門の満州関係予算は昭和八年度から急増した。では、その予算はどういったところへ充てられていたのであろうか。おそらく土地や建物の取得にかかった費用が膨大であったのではないかと考えれるが、その中で最も費用を要したと思われる満州国の新首都新京に開設された開教司監部について進展をみてゆくこととする。
 
 中外日報八年八月八日付では『日宗満蒙開教の本拠 新京に六千坪余購入 全国蓋宗寺院を糾合して新たに満蒙教会を組織せん』との見出しで、新京における日蓮宗の満州開教司監部建設計画を伝える。宗門では北村司監に命じて新京での敷地を購入しようとしていたが、このたび「満州国要路及び軍部当局のよき理解の下に」興安街に六千坪余の敷地を「購入」することができた、との内容である。北村司監は上京して協議し、その結果購入が許可され、宗門当局は三万円を満州中央銀行に送って正式に購入した、という。三万円は土地代金だけで建物は未だ建設できないので、当面は簡単な事務所ぐらいで運用しする心積もりであったという内容である。
 「当局に於ては限られたる満蒙開教費を以てしては、とうてい充分なる活動を望み得べくもないので近く政争を越えて全国蓋宗寺院に訴え十万円位の予算の下に日蓮宗満蒙教会を組織せむと着々そのプランを練りつつある。」と、十万円もの大金を全国寺院に募る見込みであると報じる。この当時の宗門の年間予算が十五万円前後なのだから、募金総額十万円は相当な金額ともいえる。土地購入金額の三万円でさえも大変な金額である。当時の宗門当局の高揚ぶりが伝わってくるような記事である。但し、この三万円という金額を支出したのは事実ではなかった可能性が高い。「宗報」二二〇号の新甫部長答弁では「第廿七宗会に於いて大陸伝道の為新京に土地を購入する事が決議され大同二年十一月風間日法猊下の時二千五百坪を一万五千円で買い入れました」とあり、実際の土地取得では金額は一万五千円、面積は二千五百坪であったと思われる。なお、ここで「購入」とかぎ括弧をつけて記したのは次の記事を見たからである。「中外日報」九年五月三十日付記事では智山派の派遣使節団の報告を伝えている。その報告では、智山派での新京における別院用地取得に関連して、満州国では外国人に土地を売却することを憲法の規定により許可しないので、約四千二百坪の土地を三十年などの長期租借契約で使用することになるであろうとの見通しが示されている。日蓮宗の開教司監部用地も租借であったのであろうか?記事が誤っているのであろうか。なお、この使節団の語るところでは当時すでに天台・豊山・時宗・天理の租借地が近辺にあったが、みなまだ建物を建てて居らず畠ばかりであったという。
 宗報二〇九号(昭和九年五月)財務部長答弁では「満州開教に関しては昨年新京に敷地を購入せられたるに依り随て本建築の問題が起こるのは当然のことであります。曩に北村前司監より設計並予算等の書類が出て居りますがそれは可成厖大なるもので彼地の状況及建築の内容着手の時期等に付ては尚充分に調査研究を遂ぐべき必要を認めました為に今日の場合提出が出来なかったことを憾みと致します。」としている。進展が少ない。
 なお日蓮宗教報三十五号(昭和十三年五月十五日)の田中委員答弁によると、昭和二年から同七年まで積み立てていた聖典翻訳準備積立金約九千円のうち八千円が満州開教司監部の土地購入費用に立て替えられていた。昭和十二年当時では三千円のみ償還されていた。結局満州布教も他の事業を犠牲にして行われていたわけである。
 その後も、司監部用地の工事はなかなか進まなかったようである。中外日報十年一月一七日付では、日蓮宗では新京に二千五百坪の土地を購入したままになっていたが、ついに開教司監部を建設することとなった、との見通しを述べている。工事には少なくとも四五万円を要するが、財政的に困難の為とりあえず、将来は庫裡にでもなるような建物だけでも作ろうと一万円を新規に予算として計上した、との内容である。
 宗報二二〇号(十年四月号)には「満州国開教   司監部敷地購入の件報告」がある。
新甫部長の答弁。「第廿七宗会に於いて大陸伝道の為新京に土地を購入する事が決議され大同二年十一月風間日法猊下の時二千五百坪を一万五千円で買い入れましたが昨年御報告出来兼た事をお許し願います。土地購入後建築物も未だ出来ませんので満州国家から土地利用法の申告を催促して参りました。それで康徳二年十月二十六日一万六千八百円の予算を以て本堂庫裡事務所兼用の二階建四十二坪を建築し、更に其後二期三期と順次建設致す筈に成って居りますが、今其の具体案を示せと仰言られますと困るのですが兎に角第一期工事は本年十一月十八日迄に完成する予定で御座います。斯様な手続に当って予め宗会の決議を経なかった事は時間や地理的関係の都合に依るものでありますから御寛恕下され御承認の程御願致します。」と報告して、審議の結果、承認された。
 満州国当局からの催促を理由として、宗務院では宗会に諮らずに一万数千円もの支出を決定して司監部工事に入っていたわけである。この第一期工事強行は秋に予定されていた管長の満州巡錫に間に合わせるためでもあったように思われる。これまで建物を作るだけの費用が捻出できていなかったのがわかる。
 そして、中外日報十年五月十七日付では、日蓮宗の第三十宗会で開教司監部の建設について第一期工事費用一万二千円を可決して、四月上旬起工式をすませ、このほど初期工事に着工したことを伝える。また、宗門要路者の予想として、初期の工事全部の完成には二十万円必要であろうと伝えている。
 中外日報十年八月十八日付では『輝く日宗の満州開教』と題し、司監部の第一期工事はほぼ完成したこと、管長親教にあたり皇帝に宗書を捧呈することが決まったことを報ずる。中外日報十年八月二十一日でも開教司監部の開堂式と国祷会が行われたことを報ずる。一応の完成を見たわけである。
 このように宗門で開教司監部の建設に苦心している一方で、元陸軍士官の日蓮宗僧侶西岡大元師は、奉天八幡町六丁目に「宗門に偏しないパンテオン」を建立しつつあった。一萬八千坪を「満国皇帝から無償で下賜」されて日満蒙三国風の寺院を一所に建立する、という内容であった。「東亜精神運動としての満州霊廟」の建設を目標としていた。軍との繋がりによるのであろう、広大な土地を無代で下賜され、材料もかっての陵墓由来のものを提供されて豪華な三種の寺院を建立していたのである。ここには神保管長も親教の際に訪問し、「その偉容に目を見はった」と表現している。新京の司監部寺院建立とは大きな違いである。西岡師の資金には、宗教を通じた宣撫工作の一環として仏教を利用ようとする軍の機密費か満鉄の援助もあったのかもしれない。ただし、付記すれば西岡師の工事は途中で資金が不足してしまい、宗門に援助を求めたり大阪で満州軽業師などによる募金活動をしたりしていたが、難渋することとなってしまっていたのである。
   開教司監部の建設はその後も難航していたようである。前外山内局時代、一時は同じ新京市内にあった教王寺を司監部の敷地に移転させる契約を結んだが、後に教王寺住職と檀徒代表が宗務院を訪れ「種々の事情から」移転は不可能と辞退を懇願して契約は白紙に戻ってしまった。(中外日報十二年二月十二日付)戦前の新京地図では 未だ開教司監部の記載を確認できていない。一次工事の後の様子がわからないのが残念である。
 
五 立正大学と満鮮講座
 ここで、立正大学と満州布教との関わりについて略述する。
 さきに昭和八年一月の段階で、立正大学卒業生を用いて日満語学校の開設や施療所の前提となる施薬所の設置などを企画している、という宗門方針を伝える中外記事を引用したが、実際に「満鮮講座」が実現していたのである。
 ところで、立正大学の卒業生を満州布教に振り向けたいという考えは以前よりあったようである。『日蓮主義』六十一(昭和七年十一月)で立正大関本龍門学長は学生へ満州移住を呼びかけている。満州への移住を奨励し、「満州の土となろう、屍を満州の天地に埋めようと言ふ覚悟で移住しなければならぬ。」「吾等は宗門子弟、特に宗門大学に学ぶ少壮有為の子弟が、この際率先して満蒙開発の先頭に立ち以て真の平和の使徒たる責任を果たさんことをのぞんでやまない。」などと述べた。演説を要約すると、立正大卒業者の満州への移住・布教が宗門興隆・国家報恩への道となるのだと力説する内容であった。
 語学の習得などに対応したうえで布教するには高い学識が希望され、その対象として宗門高等教育機関である立正大学に布教要員の期待のかかるのは当然であろう。松尾為作氏が前著で満州の布教には各宗共に大学卒業者などを中心に布教師を選抜している様子である、と述べているのとも符合する。
 この方針とも関連があるのであろう、この頃満州へ教員が学生を引率して旅行した記事がいくつかある。
 まず、木村龍寛教授が立正大生四名を引率して約半月にわたり満鮮地方を伝道旅行したという記事がある。(中外日報六年七月十六日付)
 また、中外日報に「満鮮を巡りて(一)・(二)」と題して旅行記が連載された。立正大学幹事・中條是龍が満鮮講座の責任者として、学生十一名を引率して満州各地を巡回したのである。一行は布教をかねて満州の実情を視察した。特に満州の信仰や寺院に注目している。満州の日本仏教が、内地人のみを相手にする布教であることを残念に思うと述べている。また開教師らと会い懇談している。
 当時の旅行ガイドブック、例えば満鉄発行の「満鉄鮮満旅行案内」などを見ると、これらの日程では満州旅行には学生視察割引を利用しても一人一日あたり五円はどうしても必要であった。学生割引もあったが、それにしてもかなりの費用、おそらく数百円はかかったと思われる。逆に言えば、これだけの出費をしても、現地視察をすることにはそれだけの価値はあると当局者が考えていた表れであり、将来の大陸での布教拡充を重視していたことを示すものであろうと思われる。
 さて、昭和十年の十月には神保日慈管長が満州親教を行い、満州国皇帝に拝謁するなどしていた。管長の帰国後の満州布教進展の一策が立正大学の満鮮講座である。
 宗報二二〇号(昭和十年四月)第三十宗会においての宗務総監挨拶には「先づ興学に関しては、昨年管長猊下親しく朝鮮各地を御巡錫なされた結果に基づき、本年の四月より立正大学に満鮮布教師養成を目的とする講座を開設し、民族的に教線を拡大する特別の人材を養成することに致しました。是は国家非常時に対応する有意義の企てと信ずるものでありまして、陸軍省、対満事務局、朝鮮総督府等を始め満鮮関係の諸官省諒解の下に種々の便宜を得る事になって居ります。」とある。
 民族的な教線拡大とはどういったことなのかはよくわからないが、日本仏教を満州でもひろめるという目的であったのは確かであろう。
 さらに、河田議員質問に対しての総監答弁には「尚、海外布教に就ては従来の布教師は海外在住の同胞を相手として居りましたが将来はこれに満足せず直接外国人相手に布教致したいと思います。これが手始めとして先づ満鮮開教を目標とする事が刻下の急務と考えます。依て本年から立正大学に満州語科並に朝鮮語科を開設し立派な海外布教の人材を養成致したい心組であります。」とあり、大陸での布教の前提として語学や習俗を習得する必要もあって「満鮮講座」が企図されたことがわかる。
 宗報二二一号(十年五月)には満鮮講座開設の紹介がある。「本年度より本学内に満鮮講座を新設し満州国及朝鮮に対する認識を徹底せしめ内は以て同胞有憐の信誼に対え外は東洋平和の鴻園に貢献せしむべく、外務拓務陸軍対満事務局満州国公使館関係の権威ある実際家並に本学教授を講師に聘し四月二十日午後五時入学式を挙行廿二日より講座を開講せり。」国際情勢に即応する意図が示されている。
 中外日報の記事によると講師は以下のようであった。《講座一覧 一等主計外交時報社社長・中沢玉城、東日調査会専務理事・平井三男・田源四郎、中央満蒙協会長・星野桂悟、対満事務局行政課長・山越道三、同事務官・藤波・大城戸、拓務省書記官会計課長・小河正儀 衆議院議員・池田秀雄、対満事務官・東福靖次郎・岩畦豪雄・石津半治・上田恭輔・佐藤岩雄、同事務局総裁秘書官・鈴木武、同事局殖産課長・竹内徳二、総理秘書官兼大蔵事務官・迫水久常、満州公使官秘書官・孫彪・孫錯、法学博士・斉藤良衛》
 講師は行政関係者が多く、おそらく講義内容も国策と大筋で一致するものであったのであろう。この講座の発足には外部からの働きかけも当然あったのかもしれない。対満事務局は昭和九年十二月に発足した機関で陸軍大臣を総裁として満州に関する実務を一手に握った機関であった。この初代事務局長が昭和十年に神保管長を満州国総務庁長として迎えた長岡隆一郎氏であった。
 講座は翌年も行われた。宗報(二三一号・二三〇号)には満鮮講座の第二期生募集の半頁の広告がある。
「一、目的 満鮮に於いて布教、教育等文化活動を為さんとする者の為に満鮮語及び満鮮に関する実際知識を修得せしむ
 一、期間 自四月、至翌年三月 本大学専門部に準じ毎日夜間開講
 一、入学資格 学歴を不問、満鮮開拓に対し熱意を有する進取敢為の人材
 一、申込 四月五日迄」
 この講座のくわしい内容はわからない。
中外日報昭和十一年十二月九日付の駒沢大学の満州学科新設記事では、この種の講座は「立正大学が逸早く設置せるもので、決して珍しいものとはいえないが、稍もすれば存外志望者の少ない憾みがある」とする。立正大学の満鮮講座はこの種の講座としては極めて早い時期のものであったと評されているわけであるが、この種の講座はどの大学でも応募者が少ないのが問題であるとも述べているので、あるいは立正大学でも応募者は少数であったのかもしれない。
 のちにこの満鮮講座は、昭和八年六月一日に立正大に新設されていた布教実習科と合併し「布教講座」となった。(『近代日蓮宗年表』十三年四月)支那事変の影響で大陸布教のために新たな体制を求めるための合併であったろうが、結局短期間のものであった。ただし、この講座の如何にかかわらず、立正大学卒業者の満州への赴任は続いていたのであろうと思われ、それは終戦まで途切れることはなかったのであろう。
 立正大学も次第に戦時色を強めてゆき、ついには応召学生が増加して授業料の収入が減り経営のために宗門から臨時補助費三千円を受けるほどであった。(日蓮宗教報五十八号・昭和十五年四月)
 
六 支那事変後の大陸予算
 昭和十二年に支那事変が起こると、日蓮宗は軍に協力するかたちで大陸各地に布教・慰問・宣撫などの活動を開始した。それにより、宗門予算にも支那開教費という新項目が立てられ膨大な出費を強いられるようになってゆく。
 まず、宗会における昭和十四年度予算案の審議においては、宗門当局の考えが非常によく表れていた。以下、適宜引用しつつみてゆきたい。
 日蓮宗教報三十五号(昭和十三年五月十五日)三月の宗会における総監姿勢方針演説では、事変後の国策に順じるかたちで、特に満蒙支を対象として布教方針を立てたことを表明している。昭和十三年度の予算が昨年度より膨張したことについては、「之は非常時事変下に在る我国の現状に鑑み且つ満蒙支布教開拓に一大発展を試みんとする宗門としましては誠に止むを得ぬこと」であるので寺院課金増徴もするが「暫くの間、忍んで此の負担に応じて戴き度い」としている。たしかに予算の膨張は、「満蒙支開教費の新設又や膨張に依るもの」であった。
 不景気や農村疲弊などで困窮する世情にもかかわらず、大陸布教費のため各寺院への賦課金が増徴されていたのである。宍倉部長説明では「満蒙支に本化の教線拡張を計らんがため」「即ち三万三千百五十円の増徴中三万二千円がシナ開教に当てられて居りますから殆どそっくり其儘シナの布教費に充当せられた」のであった。実際に他の予算項目は前年と大差ないのに、支那開教費のみが巨大な額で付加されていることがわかる。
 この予算案に対し松本議員からは「支那事変以来宗門寺院は一般に二割乃至三割の減収となり事変の進展に伴い今後益々減収の一途を辿るものと思われます。然るに本予算を見ますと、全体としては二割強の増額となり寺院賦課金のみに付いて見ますと六割の増額となっておるように思われます。」と寺院の苦しい財政状況を訴え大陸布教へ邁進する内局の予算案への疑問や批判を示す質問も出ていた。
 また「此れでは予算は年々増大するばかりで寺院僧侶を意地目つけるに過ぎない」という、不満の質問もあった。そういった不満を当局は「国策に協力しなければならない」として押さえ込んでいった。富川部長答弁では「御説の通り実際寺院の負担は重くなって参ります。然し国民一般が事変以来二重三重の負担に遇い苦しみつつも堅忍持久之れ努めて居る際ですから、宗門寺院も亦出来得る限りの負担は忍ばねばならんと思います。」と応じていた。また、宍倉部長は予算編成に於いて支那開教のみに力を注いで他を顧みない、との批判に対して「事変下にある宗門として本予算が寺院の財政状態に逆行するものと致しましても止まれぬ費目を計上したものですから致し方御座いません。」と各寺院の財政状態の問題には目をつぶって国策に呼応するべきである、という見方を披瀝している。「恤兵慰問部費は如何程あっても足らない位ですから」と八千円増加されるなど、慰問などの軍への協力は無条件に近いかたちで認めようという雰囲気であったのではなかろうか。
 また、「実に皇軍将士の労苦は言語に絶し吾々としては食うものも食わずにその労苦に報いねばならない」のだから、我々も我慢すべき、という論理も示される。大陸での軍の活動に関する判断は示されない。自明のことであるからであろう。
 多額の支那開教費であるが、当局は本年度のみ「開教の基礎を築く為」布教所の用地・建物に要する費用が必要なので予算が多い、という認識であった。北支で既設四カ所新設九カ所、中南で既設一カ所新設五カ所、蒙古方面で既設一カ所新設二カ所、合計新設十六カ所の布教所を目指すとの答弁であり、増加した三万二千円の予算のかなりの部分はこれらの布教所群のために用いられていたのであろう。ところが当局の予想とは異なり、実際は、次年度以降も日本軍の占領地域拡大に伴って支那開教予算は一層増大していくのである。 昭和十三年度の支那関係の実際の支出額は予定の三万二千円をさらにオーバーして三万六千五百円にもなってしまい、翌年以降も増加してゆくのである。
 要約すると、この時宗門は各末寺の寺院財政に負担をかけるという無理をしてまでも、日本軍占領地での宣撫活動や布教所の開設などの国策に沿う形での大陸開教に邁進していたのである。そのために、予算はグラフ三にあるような急激な出費の増加をきたしていったのである。
 そして、大陸での活動に力を傾注するのは昭和十四年になってもまったく変化はなかった。日蓮宗教報四十六号(昭和十四年四月十五日)昭和十四年度予算案の宍倉部長説明では、非常時局による物価騰貴と仕事の増加により予算の膨張を説明する。また、一方で「例えば対支開教費の如き、前年度の三万二千円より一躍して四万五千五百円となりましたので則ち一万三千五百円の増加(四割二分強)でありますが、是れは現在の時局下に於てはどうしても止むを得ぬ次第であります。然るに此の予算につきましては教学部長が度々現地を視察調査されました確実なる報告に基いて要求されました予算の最小限度の実行予算を計上したもの」としている。
 しかし、日蓮宗教報第六十号(昭和十五年六月十日)昭和十四年度決算表では、第六款・支那蒙古開教費が予算四万五千五百円のところ五万四千百十六円余にまでオーバーした。これについて、宗門当局は特に大きな不足を見たのが開教監督部費で、各地監督部に例月補助して管轄各別院との連絡をさせたり、各別院の修繕費五千六百十五円を補助したことが大きかった、と分析している。予想外の出費もあって増加せざるをえない事情もあり、費用の捻出に苦労していたのであろう。
 なお、同号の議員質問や総監答弁では、浄土宗が昭和十四年度支那開教関連予算として三万五千円を計上したことと対比して、寺院が半数以下の日蓮宗が四万五千円の開教予算を組んだことを高く評価している。また、曹洞宗においては寺院数は一万二千ヶ寺と日蓮宗よりもかなり多く、七万五千円もの事変費予算を組んでいることを引き合いに出し、「何とかして日蓮宗の面目を保ち此で仕事を立派にやり遂げて頂きたい」としている。やはり大陸での活動についても他宗との競争意識がったのである。
 
  むすび
 以上のように、日蓮宗の戦前大陸での布教について、主に宗内刊行物と外部の新聞から宗門の予算推移を中心に検討を行ってきた。宗門の大陸布教の動機として、国策との呼応という観点を強く出し過ぎた面もあるが、当時の様相に就いていくらかは考察を進めることができたのではないかと考えている。思想的背景や歴史的な意義などについては紙数の都合もあってまったく触れることができなかったので別の機会を待ちたい。
 
参考文献
藤井健志「戦前における仏教の東アジア布教 ー研究史の再検討ー」『近代仏教』六号、一九九九年
伊藤立教「仏教徒の『草の根』抵抗と受難」『講座日本近代と仏教. 六』一九七七年
中濃教篤「中国侵略戦争と仏教」『世界』三一六号  一九七二年
中濃教篤『近代日本の政治と宗教』アポロ社 一九六七年

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