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現代宗教研究第42号 2008年03月 発行

宗門と国家Ⅱ—田中智学と帝国日本—

 

宗門と国家Ⅱ
 ─田中智学と帝国日本─
 
野 村 佳 正
 
1 はじめに
 
 本研究は「宗門と国家」の第二作目である。昨年の研究において、本研究の目的は宗門と国家の有り様を明らかにすることとした。そして、そのためには、まず近代国家としての日本はいかなる発展過程をたどり、その際の克服すべき摩擦は何であったかを明らかにし、その上で宗門の関わり方から、あるべき関わり方を導くものであった。この中で昨年の研究では、近代国家としての日本の発展過程は国民国家化であり、資本主義国家化であった。そして、その摩擦は、まず西欧化に伴うものであり、大正以後は共産主義の挑戦であったことを明らかにした。
 今回は、国家に対する宗門の関わりとして、田中智学を取り上げる。この人物の選定は奇異に思われるかもしれない。なぜなら厳密には宗門の高僧とは言えないからである。田中は日蓮宗の僧ではあったが、宗門に飽きたらず還俗し、自ら国柱会をたて日蓮主義を広めようとしたのである。
 しかしながら、そうであるとしても田中を取り上げることには意味がある。まず、国家との関わりの深さである。彼は帝国政府に深く食い込み、国立戒壇の設置を促した。またそれだけでなく、明治の元勲山田顕義はじめ、満州事変の立役者石原莞爾等、いわゆる国家の大物を帰依させた。次に、その評価が多様かつ極端なことである。もちろん戦前と戦後では評価が分かれることは多いにしても、アインシュタインなどと同様に扱われた戦前と軍国主義の理論的指導者として唾棄されるべき存在と扱われた戦後では、あまりにもそのギャップに理解に苦しむとともに興味を抱かずにはいられない。最後に、戦後に対する影響である。なるほど田中は戦後指弾されたし、国柱会に昔日の面影はない。しかし、組織や行動の面から見るとさほど変わらない新宗教が、驚くほど勢いがあるのである。つまり、いろいろな意味で田中もしくは国柱会と国家の関係は今日的なのである。
 では、いかにしたら田中智学と帝国政府の関係を明らかにできるのだろうか。もし、読者が田中の考えた日蓮教学とその評価について期待をしているのなら、全く失望するであろう。なぜなら、彼の考えた日蓮教学の正統性をいくらあげつらったとしても国家との関わりは見えてこない。なぜなら、正統性と布教の正否は必ずしも一致しない。さらにいうならば、正義はどこにでも存在するのである。したがって、今回は田中の考えた日蓮教学そのものよりもむしろ、教化学つまり布教手法にメスを入れる。このため、まず、田中の『日蓮聖人の三大誓願』により彼の思想の特徴を明らかにする。次いで、『本化摂折論』で、教化の考え方を承知する。さらに、『国柱会百年史』を手がかりに、布教手法を分析して結論に導く。このような、手続きをとることにより、彼の思想は何なのか、いかにその思想を広めようとしたのか、そしてその教化手法をいかに評価すべきかが、自ずと明らかになろう。
 国家と密接不利一体となった田中智学と国柱会は、宗門が国家と結ぶ強みとその危険性を白日の下にさらしてくれるだろう。
 
2 『日蓮聖人の三大誓願』にみる思想
 
 「日蓮聖人の三大誓願」といえば、日蓮宗の信者であるならば、誰でも思い浮かべることができる有名な一節「我日本の柱とならん。我日本の眼目とならん。我日本の大船とならん。」であろう。これは『開目抄』の一節であることは論を待たない。『開目抄』は、佐渡の流された日蓮聖人が、自らが上行菩薩の再来であることを確信し、『法華経』が予言した、世界の未来を実現する決意を書き表したものといわれている。
 田中は自著である『日蓮聖人の三大誓願』のなかで、この解説を試みているが、この論理構成および解釈が特徴的である。
 まず、論理構成を確認する。まず特徴的なことに、序論として国体論が述べられているが、これが三分の一を占めている。次に約人の開顕、約国の開顕、すなわち人及び国が法華経に帰依し三大誓願を実行すべきということになろうか。最後に、その結果として来る世界平和が結論となっている。これらを俯瞰して言えることは、それはそれなりに論理的に構成されていることである。まず、国体論をもって日本が特別な国家であることを定義づける。次いで国民、国家の順で法華経広宣流布の戦略を策定し発動する。そして一天四海皆帰妙法の暁には、世界平和が訪れるのである。これは祖意に何ら抵触しないばかりか、全くその通りである。
 この論理構成は良いにしても、ここで問題になるのは国体論である。『日蓮聖人の三大誓願』では、これが序論となっているため、この定義づけに失敗するとすべてが成り立たなくなる。田中は、「種々御振舞御書」において日蓮聖人が「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と述べていることから、次のように理論づけた。法華経は最善の教えである。日蓮聖人はこれをもって日本を開顕しようとした。その日蓮聖人が、自分がいるから日本がある、といっている。従って、日本は法華経を広めるべき特別な使命があるという論法である。
 この思想の凄みは、本当かと思いつつも、日蓮宗宗徒は反論ができないことにある。なぜならこれに反対することは法華経か日蓮聖人のいずれかが間違っていることを証明しなければならない。日蓮宗宗徒は絶対にそのようなことはできないのである。
 
3 『本化摂折論』にみる教化の考え方
 
 『本化摂折論』によれば、摂受は衆生が性悪の際になし、折伏は衆生が性善の際になす事になっている。また、摂折を行う場合も宗旨的な場合と悉檀的場合に区分して論じている。宗旨的な場合とは計画的な行うことで、悉檀的とはあくまでも宗旨的な場合の副業として機会的に行うとされており、たとえば、感化事業として監獄布教をやる場合や布教教化として軍人や工場布教を行う場合が示されている。国家に使える者として軍人だけ取り出していることも興味深いが、当時増大してきた工場労働者も視野に入れているところがおもしろい。
 いろいろな例を挙げて、布教手段、対象を、わざととも思えるほど難しく述べている。しかし、結局のところ、これほど対象を広げ、手段を体系的に述べているのでは、考え得るあらゆる手段をとれといっているに等しい。実際のところ、田中はあらゆる布教手段をとったといわれている。
 たとえば宗旨的場合に該当しようが、『国柱会百年史』によれば、少年部、青年部、婦人部、成人部などに区分し、宗教活動のみならず、社会生活に至るまでいろいろな活動を行った。これらが結果として、信者の福利厚生活動にもなり、布教活動に活性化をもたらした。さらには、悉檀的布教となろうが、牛乳店を経営し蓋に仏語を入れたり、鉄道待合室に機関誌を配布したり、磐梯山大噴火の折にはいち早く写真を使って報道したり、今にも通用する多様かつ奇抜なアイデアで大衆の心をつかんだのである。
 また、多数派工作、政治工作にも長じていた。『国柱会百年史』によれば、日蓮宗はもちろん、日蓮系宗教団体とも定期的に会合を持ち、また、立正大師号下賜のために多くの政治工作を行ったことが伺われる。
 つまり、田中が行った教化方策とは、まさに手段を選ばず、できることは何でもやるという姿勢であった。そしてそのアイデアの豊かさから大きく花開いたものと言える。
 
4 『国柱会百年史』による分析
 
 ここまでの話からくる田中の人物像は、アイデア豊かな論理性の高い人物のようにも思える。確かにこれも彼の一面なのだろうが、『国柱会百年史』をみるとまた違う一面が見える。それは天皇制にたいする説明と、自らを天皇になぞらえているかの服装である。
 日蓮聖人にとって天皇制の意味はそれほど大きくないと指摘されている。なぜなら遺文削除問題をみるとあまり大きな比重を置いていないのは明らかである。しかしながら、純正日蓮主義を標榜する田中もこの点だけは大きく違っている。日本建国の精神を「八紘一宇」として説明し、久遠の釈尊と天皇を同列においた。そのうえで、現在よく問題とされている考え方であるが、「(日蓮は)世界統一軍の大元帥なり。大日本帝国はまさしくその大本営なり。日本国民はその天兵なり。」として、国体と日蓮教学を融合しようとしたのである。したがって、自らを天皇になぞらえた服装をすることは自己の権威を高める上で必要な舞台装置だったのである。
 そして、この国体論は天皇制と日蓮主義を無理なく一致させることができた。このことは、当時の日蓮信者の多くが待ち望んでいたことであった。なぜなら、廃仏毀釈の暴風にさらされ、国家神道の興隆の前に伝統教団の勢いは風前の灯火に見えたのである。ようやく自信をとり戻した伝統教団としての日蓮宗が、国柱会と連携を深めたのは当然であった。そしてそれは成功したかにも見えた。それほど戦前の日蓮宗の勢いはすさまじいものがあったと思われる。その証拠に戦前の国家的事件は日蓮主義を無視しては語れない。また、命をなげうつほどの海外布教、それは外国への進出という名ではあったが、が行われた。
 ただし、その国体論の危うさをどれほどの日蓮宗僧侶が理解していただろうか。その危うさとは、天皇の神格を否定されればすべての根拠を失い、国体論で説明していた法華経の優位性すらも否定されかねないことを。そしてその日は来たのであった。
 
5 結論
 
 田中や国柱会の考えは、なぜあれほど国家と密接に結びついたのか。また、あれほど多くの人を魅了したのか。おそらく、田中は、それぞれ一人一人が何を欲しているかを一瞬のうちに理解できるという一種独特の天才があったと思われる。そして、これに加え、それぞれ一人一人が欲している答えを与えることができたのである。
 当時の明治政府は、幕府に代わる新たな政体を模索し続けていた。その中で導き出した天皇制を中心とする西欧化であったことは昨年述べた。この新たな政体に正統性をもたらすためには、既存の秩序を破壊するだけでなく、新たな調整が必要になった。この破壊が廃仏毀釈であった。なにしろ、元勲伊藤博文は皇室にキリスト教改宗を迫ったほどである。この考えは政府内でも反対を呼び、仏教界の焦りは一層大きなものになっていた。つまり、政府においても、宗門においても、無理なく天皇制と日蓮主義をすり併せることが可能な説明を求められたのである。そして宗門でなく、田中のみが説明できたのであった。
 さらに指摘しなければならないことは、結論自体、当時の知識階級が求めていたものであっただけでなく、これにいたる説明が論理的でかつ丁寧であったことによる。そうでなければ、宮沢賢治や石原莞爾といったあれほど多くの知識人が支持することはなかったであろう。田中の著書は、いずれも自らの仮説を日蓮聖人の遺文をもって証拠立てている。そして結論にはやや飛躍があるが、結論自体当時の時代精神が求めているものであるが故に、その飛躍も気にならないのである。つまり、田中の布教の命脈は天皇制と日蓮主義とのすりあわせであり、これが命脈である以上、国家と一体化することは不可避であった。
 田中の布教手法は、近代的な広告手法の先取りであった、といわれることが多い。確かに、これは事実であろうが、それのみではない。しっかりした論理性を持ち得たからこそ、多くの支持を得たのであった。ではその際、宗門は何をしていたのだろうか。結論から言えば、ただただ迎合していたのではあるまいか。おそらく、日蓮宗僧侶のなかには、田中の結論の飛躍に訝しさを感じていた者も多かったと思われる。しかし、実際に国柱会の教勢が拡大する中で、天皇制と日蓮主義に関するうまい理論構成を案出できず、現実を追認するしかなかったのではあるまいか。
 田中の遺産というべき、布教手段の体系や組織性は新宗教の中に生きていると思われる。宗門は、戦後、国柱会の関わりを切った。しかし、戦前の無為無策による現実追認の事実と、それに伴う戦後の批判を考えるとき、新宗教への対応を再度検討しなければならない。

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