現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
『南海帰内法伝』にみる医療観—義浄三蔵がみたナーランダ僧院の医療—
『南海寄帰内法伝』にみる医療観
─義浄三蔵がみたナーランダ僧院の医療─
影 山 教 俊
○プロローグ
この数年大変疑問に思っていることがある。それは「まさに今『立正安国』奏進七五〇年、宗祖ご降誕八〇〇年の慶年を迎えようとするこの時、日蓮宗は、法華経に説かれる『生命の絶対尊重』を基本理念とし、『立正安国の実現』を眼目とする信仰運動の第一歩を踏み出そうとするものである」と、まさに宗門運動の基本テーマは生命(いのち)にあると言いながら、じつは宗門内において、この生命(いのち)なるものが、いままで具体的に問われたことがない。仏教という宗教から、「生命(いのち)とは何か」という事実について論及されていないということである。
そのため昨年は「律蔵群に見えるインド仏教の医療観」についてと題して、律蔵群に見えるインド仏教の医療観その生命(いのち)とは何か、について論及した。とくに[耆婆の治療と教団のあり方について」では、耆婆は釈尊の主治医であったばかりではなく僧たちの医師でもあり、その医療は王族と仏教教団内の僧侶に限定されていた。そのため一般の民衆が耆婆の医療を受診するには、出家し具足戒をたもち僧侶となる道がある。実際に病気になった者が耆婆の医療を受けるために出家し、こんどは病気が治ってしまうと出家を捨てて還俗した者が多くいたという。そこで釈尊は教団の統制をはかるために、病人へと出家具足戒を授けたものに越毘尼罪を設け、これを禁じている。
これは耆婆の医療の社会性についての事例であるが、これによって分かることは、釈尊が世間的に病気を治すことで保たれる生命(いのち)を重要視しているのであれば、耆婆に「汝の慈悲心によって医療を施しなさい」と言ったはずである。しかし、実際には病人に具足戒を授けた僧侶に越毘尼罪まで設けて病人の出家を禁じている。つまり、釈尊は世間的な生命(いのち)を超えたところで、生命(いのち)を捉えていることである。
さらに[仏教教団の治療法の受容について]では、闡陀母という比丘尼が医師のようによく病気を治し、王家・大臣家・居士家から莫大な供養を受けていた事実について、釈尊は「僧侶が病気を治すこと(活命)」を禁じている。とくに「医師のように病気を治す(不得作醫師活命)」といい、、比丘尼の場合は波夜提、比丘の場合は越毘尼罪という戒法まで設けて禁止している。
その理由について、釈尊は「医学(医方)とは外道の教えであって、出家の法ではない」からだといい、加えて出家の法とは大愛道のことであり、大愛道とは釈尊がこれまで語ってき仏教のことだという。仏教教団の目的は、僧侶自らが生死の輪廻を越え、自ら実践したその教えを世間へと伝え広めることにあり、医師のように活命することではないといった。
このような事例の積みあげから私たちが日常の中で生命(いのち)と呼んでいる生命は、病気を治すことで保たれる生命(いのち)であるのに対して、釈尊は大愛道によって生死を超えたところにある生命(いのち)の獲得を目指しているということである。
そして、こう気づいてみると、仏教教団が採用した医療の目的は、単に活命によって生きながらえるためではなく、僧たちが大愛道を歩み出家の大願を成就するためにィジカルな生命(いのち)、四大によって構成されている心身(いのち)を養うためであると分かった。
引きつづき、以上の成果を踏まえて、以下に義浄三蔵が報告したナーランダ僧院の医療が如何なるものであったか考察しよう。
1 インド仏教の医方明について
本来、インド仏教の医学は、五明(pa
ca-vidy)の一つの医方明(cikits-vidy)として扱われていたが、天台大師の在世時代(五三八〜五九七年)である六世紀末までに中国へと伝播した文献の中には、そのような医方明に相当するテキストを発見することはできない。(K・G・ジスク 『古代インドの苦行と癒し』九六頁 時空出版 一九九三年、以下『古代インドの苦行と癒し』と略記)
さきの律蔵群には医方明に相応する具体的な記述は見られなかったが、『摩訶僧祇律』には「病には四大に相応しそれぞれに百一の病があり、全体で四百四病がある・・(中略)・・風病は油・脂、熱病は酥、水病は蜜、雑病は油・脂、酥、蜜などの三種薬を用いる」(大正二二 三一六C)など詳細な治療法が上げられ、漢訳文献ではその病因論は地大・水大・火大・風大の四大であることが分かったのみである。
○玄奘三蔵の医方明に関する報告
しかし、このような医方明の実際を伝える文献として、七世紀中頃(在印期間六二九〜六四五年)にナ
ーランダ僧院を中心に遊学していた玄奘三蔵は、『大慈恩寺三蔵法師伝』十巻、『大唐西域記』などには、ナーランダ僧院生活の実際を伝えるなかで、その学習コースの五つの伝統的カリキュラム、一に声明(
abd-vidy)、二に工巧明(psilparmasthna-vidy)、三に医方明(cikits-vidy)、四に因明(cihetu-vidy)、五に内明(adhytma-vidy)を挙げている。僧侶たちは五明を三蔵十二部教の経典群と共に、それを七歳から学んだという。(『古代インドの苦行と癒し』 六九頁、織田『仏教大辞典』五七三頁)
◇『大唐西域記』(大正五一 八七六C)
二章。七歳之後漸授五明大論。一曰聲明。釋詁訓字。詮目疏別。二工巧明。伎術機關陰陽暦數。三醫方明。禁咒閑邪藥石針艾。四謂因明。考定正邪研覈眞僞。五曰内明。究暢五乘因果妙理。其婆羅門學四吠陀論(舊曰毘陀訛也)。
○義浄三蔵の医方明に関する報告
中国へと伝播していなかった医方明のテキストは、七世紀中頃のナーランダ大僧院では、五明のカリキュラムの中で学ばれていたというのである。また七世紀後半のやはりナーランダ僧院へと遊学した唐代の訳経三蔵僧義浄(在印期間六七二〜六八二年)は、その著書『南海寄帰内法伝』の中で、当時のナーランダ僧院で実践されていた医方明の診療科目を挙げている。
実際の診療科目は次の八つ「一には所有る諸瘡を論ず、二には首疾を針刺すを論ず、三には身の患を論ず、四には鬼瘴を論ず、五には悪掲陀(agada、毒)を論ず、六には童子の病を論ず、七には長年の方を論ず、八には身力を足すを論ず」であるという。
義浄の解説によれば、この八つの診療科目は「一は内科外科をかねた身体のできもの、はれもの治療、二は頭部の疾患で眼耳鼻や咽喉の治療、三は身体の首から下の疾患で内科の治療、四は心が惑わされたような疾患の精神科の治療、五は悪掲陀とは毒のことで毒物の療法、六は胎内の子供から十六歳までの子供の治療、七は寿命を延ばす療法、八は身体壮健の療法」という。
◇『南海寄帰内法伝』「二十七先體病源」(大正五四 二二三B)
然後行八醫。如不解斯妙。求順反成違。言八醫者。一論所有諸瘡。二論針刺首疾。三論身患。四論鬼瘴。五論惡掲陀藥。六論童子病。七論長年方。八論足身力。言瘡事兼内外。首疾但目在頭。斉咽已下名爲身患。鬼瘴謂是邪魅。惡掲陀遍治諸毒。童子始從胎内至年十六。長年則延身久存。足力乃身體強健。
○『南海寄帰内法伝』の八医と『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』の医療科目の比較
そして、この八つの診療科目は、現代のアーユル・ヴェーダ(インド医学)の根本聖典である『チャラカ・サンヒター』の第一巻三十章「心臓に根をもつ十の大脈管に関する章」と、『スシュルタ・サンヒター』の総説篇第一章「聖者ダンヴァンタリのスシュルタに談ぜられしままの吠陀の起源の章」に同様の科目が見られる。(『チャラカ・サンヒター』矢野道夫訳 世界の名著『インド医学概論』二三四頁 朝日出版社 一九八八年 以下『チャラカ・サンヒター』と略記、『スシュルタ・サンヒター』 大地原誠玄訳『スシュルタ本集』一ー二頁 アーユル・ヴェーダ研究会刊 一九七一年 以下『スシュルタ・サンヒター』と略記)
□『チャラカ・サンヒター』&『スシュルタ・サンヒター』^t□『南海寄帰内法伝』
一、腫瘍、膿瘍などの治療法(一般外科学、
ala-tantra)^t一には所有る諸瘡を論ず
二、眼科や耳鼻咽喉科の治療法(特殊外科学、
alakya-tantra)^t二には首疾刺すを論ず
三、内科全般の治療法(身体療法、k
ya-cikits)^t三には身の患を論ず
四、精神病治療(鬼神学、bh
ta-vidy)^t四には鬼瘴を論ず
五、小児病治療(小兒科学、k
umra-bhitya)^t五には悪掲陀を論ず
六、解毒剤の投薬療法(毒物学、agada-tantra)^t六には童子の病を論ず
七、長生薬論(不老長生学、ras
yana-tantra)^t七には長年の方を論ず
八、精力増強法(強精学、v
jikaraa-tantra)^t八には身力を足すを論ず
それらを比較すると、アーユル・ヴェーダと『南海寄帰内法伝』の八つの診療科目は、『南海寄帰内法伝』の五「悪掲陀を論ず」と六「童子の病を論ず」が、アーユル・ヴェーダでは五「小児病治療」と六「解毒剤の投薬療法」と、その順が逆になっている以外は、科目数と内容はそのまま一致することが分かる。
これによって、天台大師の在世時代までに、医学に関する専門的なテキストは中国へと伝播しなかったが、その後の七世紀中頃から末にかけて、ナーランダ僧院へと遊学した玄奘三蔵と、義浄三蔵の報告では、さきの八つの診療科目にもとづいた医方明(cikits
-vidy)が実践されていたことが明らかになった。
そして、その医方明の診療科目が、現代のアーユル・ヴェーダの根本聖典となっている『スシュルタ・サンヒター』(
uruta-sahit 三〜四世紀成立)『チャラカ・サンヒター』(charaka-sahit 五世紀成立)と同様の科目であるところから、ナーランダ僧院の医方明のテキストも内容的には、おおよそこれらと同様のものであると考えられる。
2 中国へと医方明のテキストが伝播しなかった理由について
○義浄三蔵は医方明をあえて持ち帰らなっかた
このナーランダ僧院で玄奘三蔵や義浄三蔵が見聞した医方明のテキストとはどのようなものであったのだろうか。とくに義浄の『南海寄帰内法伝』には、次のように示されている。
「その八つの診療科目(八術)は、八部のテキストになっていたが、近年になってある人がそれを要約し、一冊(一夾)のテキストにした。インド(五天)では、みなこの医学をならい技術を修めている。ただこの医学をならい修めると、それを生業とすることができ、西インドでは医師が尊ばれ、かねて商客を重ずるので殺害されることがない。そして、自分にも利益があり、人を救うことができる。しかし、この医方明の功学を用いて人を救っても、これは僧侶の正業ではないので、悩んだ末にこれを棄ててしまった」という。
◇『南海寄帰内法伝』「二十七先體病源」
(大正五四 二二三B)
斯之八術先爲八部。近日有人略爲一夾。五天之地咸悉遵修。但令解者無不食祿。由是西國大貴醫人。兼重商客爲無殺害。自益濟他。於此醫明已用功學。由非正業遂乃棄之。
このようにナーランダ大僧院では、医方が五明のカリキュラムの中で学ばれており義浄自身も医方明を学んでいたのである。しかし、義浄はこの医方明の功学が僧侶の正業ではないとして、なんとその医方明を棄てたという。ここにインドから中国へと、医学に関する専門的なテキストがなぜ伝播しなかったのかその片鱗が見える。僧侶の目的は、まず自らが生死の輪廻を越え、自ら実践したその教えを世間へと伝え広めることであって、医学による救済が目的ではないからだと言うことになる。
これと同様のエピソードは、さきの律蔵群に記載されている。『摩訶僧祇律』に「お釈迦さまが、拘彌に住している時に、病気の治し方を熟知していた闡陀母という比丘尼が、王家・大臣家・居士家などに出入りし、妊産婦の胎病や、眼病、吐下の治療をしたり、咽喉のはれを薬煙で熏じ、鼻を塩水や薬の油で灌ぎ、また患部を刀で切開しするなど外科の治療をして、多くの患者を治癒させた。そして、その治療によってたくさんの供養を得たという。
しかし、お釈迦さまは、『このような治療は、出家の用いる法ではなく、医師の仕事であるから、今後は医師のように活命を目的とする医療は許さない。若し比丘や比丘尼が医師のように治療するならば、比丘は越毘尼の罪、比丘尼なら波夜提の罪にあたる』として禁じている。ただし病人にその治療法を教語することは許した」という。
◇『摩訶僧祇律』
(大正二二 五三一A)
佛住拘彌。爾時闡陀母比丘尼善知治病。持根藥葉藥果藥。入王家大臣家居士家。治諸母人胎病眼病。吐下熏咽灌鼻用針刀。然後持此諸藥塗之。由治病故大得供養。諸比丘尼呵言。此非出家法此是醫師耳。諸比丘尼語大愛道。大愛道以是因縁往白世尊。佛言。喚是比丘尼来。来已問言。汝實爾不。答言實爾。佛言。此是惡事。從今日後。不聽作醫師活命。佛告大愛道瞿曇彌。依止拘彌比丘尼皆悉令集。乃至已聞者當重聞。若比丘尼作醫師活命波夜提。比丘尼者如上説。醫者持根藥葉藥果藥治病。復有醫咒毒咒蛇乃至咒火咒星宿日月。以此活命如闡陀母者波夜提。波夜提者如上説。比丘尼不得作醫師活命。若有病者得教語治法。比丘作醫師活命者越毘尼罪。是故世尊説佛住拘彌。爾時世尊制戒不得作醫師活命。有人呼闡陀母治病。比丘尼言。世尊制戒不聽。復言。若不聽者授我醫方。即授與俗人外道醫方。諸比丘尼言。但誦醫方此非出家法。諸比丘尼語大愛道。大愛道即以是事具白世尊。
ここで注目することは、お釈迦さまは、僧侶の医師のように活命を目的とする医療を禁じるばかりではなく、比丘尼は波夜提の罪、比丘は越毘尼の罪を設けている。これらは五衆罪の一つで突吉羅(dukrta)の罪で、共に軽い罪で懺悔すれば減罪するが、懺悔しなければ悪趣へと堕ちる過ちで、善い行いを障礙するものであるという。(『望月仏教大辞典』 三九二七頁〜三九二八頁、四一七八頁)
戒を設けてこれを禁ずるということは、その当時に闡陀母比丘尼のように、活命の目的で医療をした僧侶が多くあり、また教団と王家・大臣家・居士家などとの間に問題が生じていたと思われる。義浄三蔵が自身が学んだ医方明を棄てたという真意もここにあるといえる。
○義浄三蔵のカルチャーショックについて
また少々余談ではあるが、義浄三蔵の袈裟についてのカルチャーショックにふれておこう。向学心に燃えて南海を経由してインドに到達した義浄は、インドの僧侶の袈裟衣の様式と、自身の出で立ちの違いに、インドの僧侶に「袈裟はどれですか」と質問をする。すると「袈裟とはインドの言葉では、褐色(ka
ya)という色の名称であって、あなたが袈裟といっているものは、インドでは支伐羅(cvara)といい、一枚は腰巻きで現在のルンギー、もう一枚は上半身をつつむ小型のショール、改まった席では二つ折りにし肩にかけ、三枚目は外套用の大型のショールだ」といわれ、ショックを受けたという。(『南海寄帰内法伝』「九受斎軌則」 大正五四 二一一A、『図説インド神秘辞典』一五九頁〜一六九頁 講談社 一九九九年)
在印十年を経て帰国した義浄三蔵が、『根本説一切有部毘奈耶』五十巻など、有部律に関するそのほとんどを持ち帰り訳出しているのは、このようなナーランダ僧院での経験によると思われる。
◇『南海寄帰内法伝』「九受斎軌則」
(大正五四 二一一A)
袈裟(袈裟乃是梵言。即是乾陀之色。元来不干東語。何勞下底置衣。若依律文典語。三衣並名支伐羅也)。
3 ナーランダ僧院の医方明のテキストについて
○義浄三蔵の見た医方明テキストとは
これで中国へと医方明の専門的なテキストが伝播しなかった理由が明らかになってきた。また義浄が帰国し有部律の訳出に生涯を捧げた理由もおよそ理解できた。
ではその医方明のテキスト、義浄三蔵をして「近日人ありて、略して一夾なす」といわしめたテキストとはどのようなものなのだろうか。
近年の研究では、このテキストは、バーグバタ(V
gbhaa)の『八科精髄集』(Skt.An-haya-sahit Tib.Yan-lag brgyad-pahi sin-po badus-pa shes-dya-ba)であり、それはほぼ七世紀に成立し、さきにあげたインドの二大古典医学書である『スシュルタ・サンヒター』と『チャラカ・サンヒター』に含まれる医学的知識を集大成した文献であったことが指摘されている。そして、この二書に『八科精髄集』を加えて、インドでは三大医学書と呼ばれる。
さらにこの『八科精髄集』が医学の理論と臨床の双方を扱いながら、二つの古典をうまく折衷し読みやすいために、ナーランダ大僧院のような総合大学的な教育機関では最適なテキストとして用いられたばかりではなく、インド国外へも伝えられて、チベット大蔵経にも八世紀後半には所収され、九世紀半ばのペルシャ人の医師アッ・タバリーがアラビア語で著した『知恵の楽園』にインド医学に関する部分で『八科精髄集』にもとづく記述があり、すでに八世紀にはアラビア語に訳されていたという。
残念なことに、この医方明テキストは漢訳されていない。ちなみに、このテキストの重要性を物語る事実として、現在のインド国ケーララ州のアシュタヴィディヤー(Aa-vaidy
)医学派に属するナンブーディリ・バラモンで実践されているという。( 『古代インドの苦行と癒し』 七〇頁と九五頁、『インド医学概論』朝日出版社 解説)
○ナーランダ僧院の具体的な医療のあり方について
これによって、おおよそ義浄三蔵が「近日人ありて、略して一夾なす」といったテキストが、『八科精髄集』であり、またインド(五天)では、みなこの医学をならい技術を修めている、といった理由が理解できたと思う。そしてまた、義浄三蔵は、その当時のナーランダ僧院で行われていた、具体的な医療のあり方について次のように報告している。
『南海寄帰内法伝』「二十八進薬方法」に「四大の不調には、一に窶
(くろ gulma 地大)、二には燮跛(kapha 水大)、三には畢(pitta 火大)、四には婆(vta 風大)の四つがあり、一は地大が増大して身体が肥る地大病、二には水大が積もって下痢をしたり浮腫んだりする水大病、三には火大が盛んになり発熱や頭痛、また心臓循環器系の火大病、四には風大が動いて呼吸器系の病気や、身体の各部が痛むなどの風大病があり、これらは中国では沈重、痰、熱黄、気発と呼ばれる病気である」(大正五四 二二四A)という。
そして、さらにその臨床について「一般的な臨床の現場では、四大に地大を加えない、風大(風)・火大(熱)・水大()の病因論による応用が行われ、病気の種類も気発・熱黄・痰の三種として、地大の沈重(身体の意味)は水大の痰と同様に考え、別に地大を数えない」という。
◇『南海寄帰内法伝』「二十八進藥方法」
(大正五四 二二四A)
四大不調者。一窶
二燮跛。三畢。四婆。初則地大増令身沈重。二則水大積涕唾乖常。三則火大盛頭胸壯熱。四則風大動氣息撃衝。即當神州沈重痰熱黄氣發之異名也。若依俗論病。乃有其三種。謂風熱。重則與體同。不別彰其地大。
つまり、当時のナーランダの仏教医学は、正しくは四大要素の理論(catur-doa theory)の基礎概念によって病気の原因と治療を考え、四大に支えられた身体観を持っていた。しかし、実際の治療理論としては、現代インドのアーユル・ヴェーダと同様に風大(v
ta:以下はヴァータ)・火大(pitta:以下はピッタ)・水大(kapha:以下はカパ)の三大要素の理論(tri-doa theory:以下トリ・ドーシャ理論)による医療が機能していたことが分かる。
4 インドの仏教医学に見える四大の治療理論について
これらの義浄の情報によれば、当時のナーランダ僧院では、四大要素による病因論は残っていたが、実際の治療理論としては、ヴァータ(風大)・ピッタ(火大)・カパ(水大)のトリ・ドーシャ理論(三大要素の理論)が用いられていたという。
ではこの七世紀のナーランダ僧院に伝えれていた、さきの「四大の不調には、一に窶
(gulma 地大)、二には燮跛(kapha 水大)、三には畢(pitta 火大)、四には婆(vta 風大)の四つがあり、一は地大が増大して身体が肥る地大病、二には水大が積もって下痢をしたり浮腫んだりする水大病、三には火大が盛んになり発熱や頭痛、また心臓循環器系の火大病、四には風大が動いて呼吸器系の病気や、身体の各部が痛むなどの風大病があり、これらは中国では沈重、痰、熱黄、気発と呼ばれる病気である」という仏教本来の医学的な知識である四大要素の病因論が如何なるものか、七世紀以前に訳出された律蔵に見られる四大要素の病因論と比較すると次のようである。(ここでは四大に関する記述の流れを見るために、七世紀以降の『根本説一切有部毘奈耶薬事』と『南伝大蔵経』「大品」を加えている。)
㈰『十誦律』巻第二(後秦北天竺三蔵弗若多羅、羅什共訳、四〇四年〜四〇九年)
「病者とは、四大が増減して諸々の苦悩を受けるのである」(大正二三 一〇B)
㈪『四分律』巻第五十一(後秦北天竺三蔵仏陀耶舍、竺仏念共訳、四一〇年〜四一二年)
「この身体は四大が合成して形づくられたものである。この四大による身体が異なるのは、四大の合成の仕方が異なるからである。この四大による身体から、心が起きて化作し、身体の諸根肢節の働きが備わるのである」(大正二二 九六四C)
㈫『摩訶僧祇律』巻第十(東晋天竺三蔵仏陀跋羅、法賢共訳、四一六年〜四一八年)
「病気には四百四病がある。風病に百一あり、火病に百一、水病に百一、雑病に百一がある。そして、風病の治療には油・脂を用い、熱病には酥を用い、水病には蜜を用い、雑病にはそれら三種薬を用いる」(大正二二 三一六C)
㈬『五分律』巻第十五(
賓国三蔵仏陀什訳、四二三年)
「病人とは、四大が増損して飲食を摂取することができず。やがて気息が衰弱してしまうことをいう」(大正二二 一〇一C)
㈭『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻第十六(唐三蔵義浄訳、六九五年〜七一三年)
「一切有情の身体は、みな四大が合するによる」(大正二四 八一C)
㈮『南伝大蔵経』「大品」
五 シーヴァカよ、粘液より生ずる 或感受のここに起こることあり
六 シーヴァカよ、風より生ずる 或感受のここに起こることあり
七 ジーヴァカよ、(胆汁など三つの)聚和より生ずる 或感受のここに起こることあり
八 ジーヴァカよ、時候の変化より生ずる 或感受のここに生ずることあり
九 ジーヴァカよ、逆運の逢うことにより生ずる 或感受のここに生ずることあり
十 ジーヴァカよ、痙攣性の或感受のここに生ずることあり
一一 ジーヴァカよ、業異熟性の或感受のここに生ずることあり
と。(中略)
一三 胆汁、粘液ろ風と(三種の)聚和と、時候と、逆運、痙攣、業異熟によりて第八なりと。(『南伝大蔵経』第十五巻 相応部経典 六處篇 第二 受相応 百八理品 三五五頁〜三五六頁)
この六つの文献を整理すると、『摩訶僧祇律』には「病気には、四大の増減によって、その各々に百一の病があるので、全体で四百四病がある」といい、さらに「風病は油・脂、熱病は酥、水病は蜜、雑病は油・脂、酥、蜜などの三種薬を用いる」などの具体的な治療法までが挙げられているが、おおよそ共通していることは、漢訳文献には四大による病因論が示されている。
また、『南伝大蔵経』「大品」では、とくに漢訳文献では具体的な記述の見られなかった病気の原因に関する八つの原因(八因)が挙げられている。
1に四つの中心的病因=内因
ピッタ(pitta)=火大=胆汁素
カパ(semha=kapha)=水大=粘液素
ヴァータ(v
ta)=風大=体風素
三つの組合せ(聚和、sannip
ka)=地大=等分
2に他の四つの外因
時候(季節、tu)
異常な行動によるストレス(逆運、viama)
外因性の事故(痙攣、opakkamika)
過去の行為の結果(業、karma)
ここでは1の四つの内因と、2の四つの外因に分類されているが、その1の四つの内因には漢訳文献と同様に、地大・水大・火大・風大の四大による病因論が示されいる。
以上のことから、七世紀以前のインドの仏教医学は、地大・水大・火大・風大の四大に支えられた病因論によって、治療が行われていたことが分かる。
4 仏教医学の四大から三大の治療理論について
ではこのような四大理論ではなく、ナーランダ僧院で実際に行われていたヴァータ(風大)・ピッタ(火大)・カパ(水大)のトリ・ドーシャ理論(三大要素の理論)とはどの様な病因論だったのだろうか。
これを理解するために、さきにあげたインドの二大古典医学書の『チャラカ・サンヒター』『スシュルタ・サンヒター』に見える病因論と比較すると次のようになる。
○『チャラカ・サンヒター』
「ヴァータ、ピッタ、カパが身体的な病素のすべてである」
「病気には四種類ある。すなわち、外因性の病気と、ヴァータ、ピッタ、カパを原因とする(三種の内因性の病気)である」(『チャラカ・サンヒター』 一三七頁)
○『スシュルタ・サンヒター』
「人間(purua)は特殊な疾病の容器である。人間に悩みや痛みの源をなすものは疾病と称される。疾病には四種、すなわち、外因性(偶発的、
gantuka)、身体的(rira)、精神的(mnas)と、自然的(svbhvika)である。(中略)精神と肉体とは、上述の不調違和の座であって、その両者は個々に働き、または一緒に働く。
浄化と疾病を起す体液失調の鎮静、および餌食と行為の摂生は、疾病を克服するために適当に用いられなけれねばならない四要素である」
「然るに苦を与えるものを病と称する。病には偶発的、身体的、精神的、及び自然的の四類あり。この中の偶発的とは、外傷によって起る病なり。身体的とは、飲食物より起り、或は体風素(v
ta)、胆汁素(pitta)、粘液素(kapha)、及び血液の熟れが、一、二、三、若しくは総てが異常的変化を来し、その均衡を失ったために起る病なり」(『スシュルタ・サンヒター』 第一篇 総説篇 一−六頁)
このようにインドの古典医学は、トリ・ドーシャ理論に支えられた病因論を持っており、これらはさきのナーランダ僧院で見られた「四大に地大を加えない、風大(風)・火大(熱)・水大()の病因論」よりは医学的な知識としては格段の進歩を見せているが、病因論としては同様の医療であることが分かる。
ところで、このようなインドの古典医学を、現代ではアーユル・ヴェーダと総称し、その具体的な考え方は、私たちは母の胎内で生を受けた直後から、先天的に体質や気質が決まっていると理解する。そして、その体質や気質を決定する要素が、ヴァータ・ピッタ・カパのトリ・ドーシャ理論によるバランス関係で示され、ヴァータの要素が多ければヴァータ体質と、ピッタ体質、カパ体質と、またはヴァータ・ピッタ・カパの複合型の体質というように、トリ・ドーシャ理論にもとづいて理解する。
そして、私たちが自分の体質に適した生活をすることで、トリ・ドーシャのバランスが良いときには健康的で、逆に何れかのドーシャを増やすような不適当な食事や、節制を怠ったりすると、ドーシャのうち何れかが増加し、トリ・ドーシャのバランスが崩れ、健康を害するという。
たとえば、カパの要素には甘いという性質があるために、カパ体質の人が甘い物を食べ過ぎるとカパ病(水大病)に罹りやすく、この体質の人は現代医学でいう糖尿病などの生活習慣病に注意が必要であるという。またピッタの要素には辛いという性質があり、ピッタ体質の人が辛い物を食べ過ぎるとピッタ病(火大病)に罹りやすく、心臓などの循環系の病気に注意が必要であるという。このように体質に適した食事と、季節や時間に基づいた生活がアーユル・ヴェーダ医学の治療法であり、その治療を支えているのがトリ・ドーシャ(三大の要素)理論なのである。(幡井 勉編『生命の科学 アーユルヴェーダ』柏樹社一九九〇年、P・クトムビア『古代インド医学』出版科学総合研究所 一九八八年)
これらによってインドの仏教医学が、ナーランダ僧院の七世紀頃の医療を境に、四大要素の理論に支えられた病因論から、トリ・ドーシャ(三大要素)理論に支えられた病因論へと移行する過渡期にあったことが分かる。
そして、この時期を境として、義浄が「近日人ありて、略して一夾なす」といった『八科精髄集』が、医方明のテキストとして用いられるようになり、それまでの四大要素の理論から、トリ・ドーシャ(三大要素)理論に支えられた病因論へと移行していったと思われる。
5 ナーランダ僧院の治療のあり方について
さてこのような四大要素の理論やトリ・ドーシャ(三大要素)理論に支えられた医療の、具体的な治療のあり方は、基本的には未病を癒すという養生の考え方に徹しており、身体の不調を感じたときには、さきのようにそのヒトの体質に適した食事と、季節や時間帯にもとづいた生活によって癒すことを目指している。そのような養生のあり方について『南海寄帰内法伝』は次のように記述している。
㈰インドの僧侶は食事をするときには手足を洗うことについて
「三 食坐小床」(食事のための小さないすについて)には、経文によれば「食後には必ず足を洗え」という、これは明らかにいすの上の趺坐していないという事実を物語っている。また「食を足辺に捨てる」という表現があり、これは食事をするときには、いすに座って脚をたらしている作法である。さらに清潔に食事をするために、いすの下に敷布を用いて座れば、さらに清潔さを護る(護浄)ことができない。なぜなら、残飯など不浄な物に触らざるをえないからである。なぜなら、インドの食法では食後に手足を洗うからである。
また僧侶の残食を物欲しそうにしても、他者に施すことは非儀であるから深く慎むべきである。なぜなら、残食をいただいて僧侶に触れ、また家に帰って家族にそれを施すことは、清潔さを保つ生活習慣の効用が台無しである。よくよく察してその誤りを正さなければならないはずである。とくにインドというところは暑い環境であるために、食事の作法によって護浄・清潔さを保つことに力点がおかれているのである。
◇『南海寄帰内法伝』「三食坐小床」(大正五四 二〇七A)
又經云。食已洗足。明非床上坐。菜食棄足邊故。知垂脚而坐是。佛弟子宜應學佛。縦不能依勿生輕笑。良以敷巾方坐難爲護淨。殘宿惡觸無由得免。又復歛衆殘食。深是非儀收去反觸僧槃家人還捉淨器。此則空傳護淨未見其功。幸熟察之。須觀得失也。
㈪飲食の浄・触について
「四 餐分淨觸」(飲食による浄と触を分けることについて)には、
およそインドの食事の作法は、僧侶も一般人も浄と触の状態に分けることができる。すでに皆が一口でも飲食するならば、蝕の状態になる。また食物を受ける食器は重ねてはいけなし、それをそのまま放置してもいけない。さらにすべての残食は食べられるヒトに譲って食べていただくべきである。残食は決して蓄えてはならない。
そして、このような作法は身分による上下の別なく、行われている作法である。これは大自然の摂理であって、ヒトの思惑で是非を論ぜられないことである。そのために仏教などの諸論文によれば、「歯木(楊枝)で歯を磨かず、また自分の都合で手足すら洗わないというのは、まさに飲食に浄触の作法がないことで、それは卑しむべきことである」と言っているほどである。決してすでに使用して触の状態になった食事を供養者に(陪食、供食)に返送したり、その残食を台所(厨房)にもどして保存したり、またチャパティーなどのパン(餅)を瓶の中にほうり込んでしまったり(覆瀉)、パンを焼くための細長い壷にもどしてしまったり、肉野菜などの煮物の総菜(羹菜)は再び翌朝になって食べたり、チャパティーなどのパンや果物も数日後になってから食べてはいけないのである。(中略)もしこのような「餐浄触分」という食事の作法を行わないままに、神仏へと祈願をしようとも、加持祈祷を行おうとも、共にその効験はないばかりか、たとえ食事を讃えて肝文を唱えようとも、神祇はその功徳を受けてくれないであろう。
そのために、こう言いたい。「たとえ荘厳な仏殿を建立して、三宝に献じ神霊に奉ろうと思うならば、日常の食事にもしっかりと気をつけて清潔にするべきである」と。もし未だに口をすすがず手足も洗わず、また大小便の後も洗浄しない者があれば、みな食事をしてはならない。世間一般のヒトですら、食事は清潔にすべきという教えがあり、孔子を祀る典礼に爪を切りそろえ、肌をぬらして塵をはらうべきであるといい、孔子の場合でも清潔にすべしというのである。(中略)
このようなことから、僧侶として修行法を実践するのなら、まずこの浄触の作法を意義を深く理解すべきで、決して軽く考えてはならない。しかし、中国では食事における浄触の作法が消えてから久しい歳月が流れている。このような話を聞いたとしても、ほとんどの僧侶がその作法を無視している。自分自身で目の当たりにしなければ、解悟することが出来ないのだろうか、というのである。
◇『南海寄帰内法伝』「四餐分淨觸」(大正五四 二〇七A〜二〇七B)
凡西方道俗食之法。淨觸事殊。既餐一口即皆成觸。所受之器無宜重將。置在傍邊待了同棄。所有殘食與應食者食之。若更重收斯定不可。無問貴賤法皆同爾。此乃天儀非獨人事。故諸論云。不嚼楊枝便利不洗。食無淨觸將以爲鄙。豈有器已成觸還將益送。所有殘食却收入廚。餘餅即覆瀉瓮中。長乃反歸鐺内。羮菜明朝更食。餅果後日仍餐。持律者頗識分彊。流漫者雷同一概。又凡受斎供及餘飲。既其入口方即成觸。要將淨水漱口之後。方得觸著餘人及餘淨食。若未澡漱觸他。並成不淨。其被觸人皆須淨漱。若觸著狗犬亦須澡漱。其嘗食人應在一邊。嘗訖洗手漱口。并洗嘗器。方觸鐺釜。若不爾者。所作祈請及爲禁術。並無效驗。縦陳饗祭神祇不受。以此言之。所造供設。欲獻三寶并奉靈祇。及尋常飲食。皆須清潔。若身未淨澡漱。及大小便利不洗淨者。皆不合作食。俗亦有云。清斎方釋奠。剪爪宜侵肌捨塵惑。孔顏如斯等類。亦是事須清潔。不以殘食而饗也。凡設斎供及僧常食。須人校。若待斎了恐時過者。無論道俗雖未薦奉取分先食。斯是佛教許無罪咎。比見僧尼助校者。食多過午因福獲罪。事未可也。然五天之地云與諸國有別異者。以此淨觸爲初基耳。昔有北方胡地使人行至西國人多見笑。良以便利不洗餘食内盆。食時叢坐互相觸。不避豬犬不嚼齒木。遂招譏議。故行法者極須存意。勿以爲輕。然東夏食無淨觸。其来久矣。雖聞此説多未體儀。自非面言方能解悟。
㈫食後の作法について
「五 食罷去穢」(食事をおえて穢れを始末することについて)では、食事をおえた後は、(中略)あるいは自分で水瓶を持参し、あるいはヒトに水を汲んでいただき、まず手は必ずよく洗い、口中は歯木でよく歯を磨いてから、歯木を割き(ターングスレーパ)それで舌をよくこすり努めて清潔にすべきである。もし胃の具合が悪いならば、斎供を食べるべきではない。そして、口中を清潔にした後で、豆の籾殻(豆屑)や、または粘土質の土と水で混ぜた泥で食べおえた食器の脂穢れなどを拭い取るようにするのである。(中略)
また口をすすぐ前には、口にたまった唾(口津)をのみ込んではいけない。すでにお分かりのように、この作法を怠って食後口にたまる唾液を咽みつづけていれば体調不良(咽咽得罪)を招くことにもなりかねない。そのためにも、浄水で口をすすぐ前の唾液は、必ず外に吐きだすべきである。
もし食事の時間が正午を過ぎれば、正食の時間帯を逸してしまい非時の罪を犯すことになる。これはヒトがそのような事実を理解していないからであり、また知っていたとしてもそれを実践することが難しいからだといえる。これについて言えば、豆麺灰の水は本当に過ちを免れない。
それは歯に食べた物が付いていても、舌の上に脂が残っていてもそれで良しとすることである。智者はその事実を見て、それが正しいことなのかどうかしっかりと考慮しなければならない。決して正食の後にそのまま会話に花を咲かせ、浄瓶の水で器も手も洗わず、そればかりか歯木で歯磨きもせず、ついに口中の穢れを朝から夜まで持ちこしてしまう誤りを招いてはいけない。このまま穢れを持ちこしたまま日々を過ごしていると、まさに体調不良を招くことになる。
このように食事をおえて穢れを洗いながす浄瓶の作法を自分自身も行い、そして仏道の門人に教え伝えることは、これこそが供養の儀である。
◇『南海寄帰内法伝』「五食罷去穢」(大正五四 二〇七B〜二〇七C)
食罷之時。或以器承。或在屏處。或向渠竇。或可臨階。或自持瓶。或令人授水。手必淨洗口嚼齒木。疏牙刮舌務令清潔。餘津若在即不成斎。然後以其豆屑。或時將土水撚成泥。拭其脣吻令無膩氣。次取淨瓶之水盛以螺盃。或用鮮葉。或以手承。其器及手。必須三屑淨揩(豆屑土乾牛糞)洗令去膩。或於兩三方乃成淨。自此之前口津無宜輒咽。既破威儀咽咽得罪。乃至未將淨水重漱已来。涎唾必須外棄。若日過午更犯非時。斯則人罕識知。縦知護亦非易。以此言之。豆麺灰水誠難免過。良爲牙中食在舌上膩存。智者觀斯理應存意。豈容正食已了談話過時。不畜淨瓶不嚼齒木。終朝含穢竟夜招愆。以此送終固成難矣。其淨瓶水或遣門人持授。亦是其儀也。
㈬水には浄と触の二つの瓶がある
「六 水有二瓶」(水に二種の瓶があることについて)では、先ほどのように水にも浄と触の二つがあり、またそれを入れる瓶も二つある。浄は上薬をかけたきめの細かい焼き物(瓦瓷・磁器)を用いる。また触は銅製でも鉄製でも兼用するしないは任せられている。
浄瓶の水は食事の時以外(非食)の飲用につかい、触瓶の水は都合により適宜に用いてよい。浄瓶から汲んだ水は右手(浄手)で持ち、必ず浄処に安置すべきである。触瓶から汲んだ水は左手(触手)によって扱い、触処にそれを安置するべきである。
またそれに準じて浄瓶または浄器に汲んだ水は非時に飲むものである。正午の斎時に器に汲む水は時水という。それは食事の前に飲用するのは問題ないが、午後になってその水を飲用するのは問題であるという。(後略)
◇『南海寄帰内法伝』「六水有二瓶」(大正五四 二〇七C〜二〇八A)
凡水分淨觸。瓶有二枚。淨者咸用瓦瓷。觸者任兼銅鐵。淨擬非時飲用。觸乃便利所須。淨則淨手方持。必須安著淨處。觸乃觸手随執。可於觸處置之。唯斯淨瓶。及新淨器所盛之水。非時合飲。餘器盛者名爲時水。中前受飲即是無愆。若於午後飲便有過。其作瓶法蓋須連口。頂出尖臺可高兩指。上通小穴麁如銅箸。飲水可在此中。傍邊則別開圓孔。擁口令上豎高兩指。孔如錢許。添水宜於此處。可受二三升。小成無用。斯之二穴恐蟲塵入。或可著蓋。或以竹木。或將布葉而裹塞之。彼有梵僧取製而造。若取水時。必須洗内令塵垢盡方始納新。豈容水則不分淨觸。但畜一小銅瓶。著蓋插口傾水流散。不堪受用難分淨觸。中間有垢有氣不堪停水。一升兩合随事皆闕。其瓶袋法式。可取布長二尺寛一尺許。角
兩頭對處縫合。於兩角頭連施一纔長一磔。内瓶在中掛而去。乞食鉢袋樣亦同此。上掩鉢口塵土不入。由其底尖鉢不動轉。其貯鉢之袋。與此不同。如餘處述。所有瓶鉢随身衣物各置一肩。通覆袈裟傘而去。此等並是佛教出家之儀。有暇手執觸瓶并革袋。錫杖斜挾進止安詳。鳥喩月經雅當其況。至如王城覺樹鷲嶺鹿園。娑羅鶴變之所。蕭條鵲封之處。禮制底時四方倶湊。日觀千數咸同此式。若那爛陀寺大徳。多聞並皆乘輿。無騎鞍乘者。及大王寺僉亦同爾。所有資具咸令人擔。或遣童子持。此是西方僧徒法式。
㈭僧侶は飲み水を濾して飲むことについて
「七 晨旦觀蟲」(晨旦は虫を観ることについて)では、(前略)ところで、寺院や家屋の水を濾す絹布は、僧侶はそれを触ることはない。それは部屋の中の水飲み場も同様である。まだ具足戒を受けていない者は、自分で自由に飲んでも差し支えない。また昼食の以降(非時)に水を飲む場合は、絹布で濾した水や、浄瓶や浄器に蓄えた水を用いればよい。
およそ護生の願いは戒の根本的な目的だから、護るべきことでは最も重要なことであり、十悪の中で殺生は一番始めに挙げられている。生に軽い重いという理屈はつけられないのである。また水を濾す絹布は、僧侶が日常携帯すべき六種類の物の一つで、携帯する義務があるほどである。
たとえば僧侶が遠出して数里になれば、絹布がなれば往復することは出来ない。もし寺に戻ったとき水を濾さずに飲んだことが露見すれば、その後は食べることも飲むことも出来なくなる。渇こうとも、飢えようとも飲食を断って死のうとも、それは護生のための模範となる(亀鏡)のである。
このように常々用いている水を観察することは重要なことなのである。絹布で水を濾していても、虫は水の中で死んでしまうものである。一生懸命に護生につとめても、そのことは伝わる由はない。井戸の口のところで絹布を裏返せばよいと思うのは、放生の器の意義を知らないのである。たとえ虫が水に入ったとしても、虫は死んでしまうかもしれないのである。
また場合によっては、小さなまるい絹布で、一升、二升の水を濾すこともある。もともと薄い絹布で水を濾せば、その水に虫を観ることはない。水の瓶に自身で目を凝らし、また他の人と共に目を凝らす。そうやって護命する心を養いながら、日々の生活で犯しそうになる過ちを師弟が共に助け合いながら、ブッタの教えを護り伝えてきたのである。
このように水を観ずる器は自分自身で蓄え、放生の金属製の器は所々に設けるべきである。
◇『南海寄帰内法伝』「七晨旦觀蟲」(大正五四 二〇八A〜二〇八B)
毎於晨旦必須觀水。水有瓶井池河之別。觀察事非一准。亦既天明先觀瓶水。可於白淨銅盞銅楪。或蠡杯漆器之中。傾取掬許安置上。或可別作觀水之木。以手掩口良久視之。或於盆罐中看之亦得。蟲若毛端必須存念。若見蟲者倒瀉瓶中。更以餘水再三滌器。無蟲方罷。有池河處持瓶就彼。瀉去蟲水濾取新淨。如但有井准法濾之。若觀井水汲出水時。以銅盞於水罐中。酌取掬許如上觀察。若無蟲者通夜随用。若有同前瀘漉。池河觀水廣如律説。凡濾水者。西方用上白疊東夏宜將密絹。或以米揉。或可微煮。若是生絹。小蟲直過。可取熟絹笏尺四尺。捉邊長挽
取兩頭刺使相著。即是羅樣。兩角施帶兩畔置。中安横杖張開尺六。兩邊繋柱下以盆承傾水之時罐底須入羅内。如其不爾。蟲随水落墮地墮盆還不免殺。凡水初入羅時。承取觀察。有蟲即須換却。若淨如常用水既足已即可翻羅。兩人各捉一頭翻羅令入放生器内。上以水澆三遍。外邊更以水淋中復安水承取觀察。若無蟲者随意去羅。此水經宵還須重察。凡是經宿之水。旦不看者。有蟲無蟲。律云用皆招罪。然護生取水。多種不同。井處施行此羅最要。河池之處。或可安捲用陰陽瓶權時濟事。又六月七月其蟲更細。不同餘時。生絹十重蟲亦直過。樂護生者。理應存念方便令免。或作瓦盆子。羅亦是省要。西方寺家多用銅作。咸是聖制。事不可輕。其放生器。作小水罐令口直開。於其底傍更安兩鼻。双繩放下到水覆牽。再三入水然後抽出。是寺家濾羅。大僧元不合觸。房内時水亦復同然。未受具人取方得飲。非時飲者。須用淨羅淨瓶淨器。方堪受用。存生乃是性戒。可護中重十惡居首。理難輕忽。水羅是六物之數。不得不持。若行三五里。無羅不去。若知寺不濾水。不合餐食。渇死長途足爲龜鏡。豈容常用水曾不觀察。雖有濾羅蟲還死内。假欲存救罕識其儀。井口之上翻羅。未曉放生之器。設令到水蟲死何疑。時有作小圓羅。纔受一升兩合。生疏薄絹元不觀蟲。懸著鉢邊令他知見。無心護命日日招愆。師弟相承用爲傳法。誠哉可歎良足悲嗟。其觀水器人人自畜。放生之罐在處須有。
㈮歯磨きなどについて
「八 朝嚼歯木」(早朝の歯磨きについて)には、早朝に起きたなら、八指から十二指の長さで、小指ほどの太さの歯木(danta-k
ha)の先を、よく嚼んで柔らかくし、それで歯を磨く。磨き終わったら、その歯木を半分に引き裂き箆のようにして、舌の上を数回刮る。または別に銅や鉄で舌を刮る箆を作り刮ってもよい。
それが終わってから、たくさんの水でよく口をすすぎ、続いて鼻から水を吸い込み、鼻から水を飲む。これは龍樹菩薩の長年の養生術である。これは辛そうであるが、慣れてしまえば気持ちのよいものである。永く習慣にしてしまえば病気になることが少ない。
このように歯を磨いていれば、歯根につく歯垢もたまらない。また歯を磨いた後にお湯で口をすすくなら、口の中は清潔になり、終身まで自分の歯で食事ができるという。
◇『南海寄帰内法伝』「八朝嚼齒木」(大正五四 二〇八C)
毎日旦朝。須嚼齒木揩齒刮舌務令如法。盥漱清淨方行敬禮。若其不然。受禮禮他悉皆得罪。其齒木者。梵云憚家瑟詑。憚譯之爲齒。家瑟詑即是其木。長十二指。短不減八指。大如小指。一頭緩須熟嚼。良久淨刷牙關。若也逼近尊人。宜將左手掩口。用罷擘破屈而刮舌。或可別用銅鐵作刮舌之篦。或取竹木薄片如小指面許。一頭纖細以剔斷牙。屈而刮舌勿令傷損。亦既用罷。即可倶洗棄之屏處。凡棄齒木。若口中吐水。及以洟唾。皆須彈指經三。或時謦過兩。如不爾者棄便有罪。或可大或可小條截爲。近山莊者。則柞條葛蔓爲先。處平疇者。乃楮桃槐柳随意預收。備擬無令闕乏。濕者即須他授。乾者許自執持。少壯者任取嚼之。老宿者乃椎頭使碎。其木條以苦澀辛辣者爲佳。嚼頭成絮者爲最。麁胡葉根極爲精也(即倉耳根并截取入地二寸)。堅齒口香。消食去。用之半月口氣頓除。牙疼齒憊三旬即愈。要須熟嚼淨揩。令涎流出。多水淨漱。斯其法也。次後若能鼻中飲水一抄。此是龍樹長年之術。必其鼻中不串。口飲亦佳。久而用之便少疾病。然而牙齒根宿穢。積久成堅。刮之令盡。苦盪淨漱。更不腐敗。自至終身牙疼西國迥無。良爲嚼其齒木。豈容不識齒木名作楊枝。西國柳樹全稀。譯者輒傳斯號。佛齒木樹實非楊柳。那爛陀寺目自親觀。既不取信於他。聞者亦無勞致惑。涅槃經梵本云。嚼齒木時矣。亦有用細柳條。或五或六。全嚼口内不解漱除。或有呑汁將爲殄病。求清潔而返穢。冀去疾而招痾。或有斯亦不知。非在論限。然五天法。俗嚼齒木自是事。三歳童子咸即教爲。聖教俗流倶通利益。既申臧否行捨随心。
㈯食事の前に生薑をいただく
「九 受斎軌則」(お斎の作法について)には、食事の方法は、食事をする前に必ず生薑と塩をいただく。生薑は親指のあたまほどスライス一、二片は、塩は葉の上に匙一杯または半分ほどおき、その塩をつけていただく。その後暫くしてから食事をする。これによって消化が助けられるという。
◇『南海寄帰内法伝』「九受斎軌則」
(大正五四 二〇九A)
其行食法。先下薑鹽。薑乃一片兩片大如指許。鹽則全匕半匕藉之以葉。其行鹽者。合掌長跪在上座前。口唱三鉢羅。譯爲善至。舊云僧跋者訛也。上座告曰。平等行食。意道。供具善成。食時復至。准其字義合當如是。
㉀食べ過ぎが体調不良の原因
「二十七 先体病源」(病の原因とは)には、おおよそ四大によって支えられている身体の病気は、ほとんど食べ過ぎによって起こり、あるいは内蔵の疲労がたまって生ずる。また前日に食べたものが消化しないうちに食事をしたり、時間が来たからといって食欲がないのに食事をするなど、このような不節制によって体調が崩れるという。
◇『南海寄帰内法伝』「二十七先體病源」(大正五四 二二三B)
前云。量身輕重方餐小食者。即是觀四大之強弱也。若其輕利。便可如常所食。必有異處則須視其起由。既得病源然後將息。若覺輕健飢火内然。至小食時方始餐。凡是平旦名痰時。宿食餘津積在胸膈。尚未疏散食便成咎。譬乎火焔起而投薪。薪乃尋從火化。若也火未著而安草。草遂存而不然。夫小食者是聖別開。若粥若飯量身乃食。必也因粥能資道。即唯此而非餘。若其要飯方長身。旦食飯而無損。凡有食令身不安者。是與身爲病縁也。不要頭痛臥床方云是疾。若餘藥不療。醫人爲處。須非時食。
㈷体調不良を治すには
「二十八 進薬方法」には、病気の徴候を知るには、明け方に起床して身体の状態を感じなさい。もし四大の不調を感じたなら、まず朝のうちは食べ物を摂らないようにする。そのときにのどが渇くほど水が飲みたくとも、決して水も飲んではいけない。これだけは遵守して、そのまま体調を観察するべきである。
そして、そのまま一両日のあいだ断食するなり、四、五日のあいだ続けて明け方に起床して体調を観察していて、それでも不調を感じなければ、それでやめて良いでしょう。これが病気の徴候を知る方法である。
また、そのとき昨日食べたものが消化していないよう(宿食)に感じたなら、まず腹部を軽くマッサージしてから適量の白湯を飲んで、暫くしてから指をつかってその白湯を吐きます。これを数回くり返し、お昼頃になれば冷たい水を飲んでも差し支えない。そのとき、もし水などを飲むのであれば、乾燥させた生薑のお湯を飲む方が最適である。
そして、その日一日は断食して、明朝になって食欲があればお粥などを食べるとよい。もし食欲がなければ、水などを飲んで様子を見るとよいという。
◇『南海寄帰内法伝』「二十八進藥方法」(大正五四 二二四A〜二二四B)
凡候病源旦朝自察。若覺四候乖舛。即以絶粒爲先。縦令大渇。勿進漿水。斯其極禁。或一日二日。或四朝五朝。以差爲期。義無膠柱。若疑腹有宿食。叉刺斉胸。宜須恣飲熟湯指剔喉中變吐令盡。更飲更決以盡爲度。或飲冷水理亦無傷。或乾薑湯斯其妙也。其日必須斷食。明朝方始進餐。如若不能。臨時斟酌。必其壯熱特諱水澆。若沈重戰冷。近火爲妙。其江嶺已南熱瘴之地。不可依斯。熱發水淋是土宜也。如其風急塗以膏油。可用布團火炙而熨折傷之處。斯亦爲善。熟油塗之目驗交益。若覺痰填胸口中唾數。鼻流清水氣積咽關戸滿槍喉。語聲不轉飲食亡味動歴一旬。如此之流絶食便差。不勞炙頂無假捩咽。斯乃不御湯藥。而能疾即醫明之大規矣。意者以其宿食若除壯熱便息。流津既竭痰便。内靜氣消即狂風自殄。將此調停萬無一失。既不勞其診脈。假問乎陰陽。各各自是醫王。人人悉成祇域。至如鸞法師調氣疾。
上記の九例は、
㈰インドの僧侶は食事をするときには手足を洗うことについて
㈪飲食の浄・触について
㈫食後の作法について
㈬水には浄と触の二つの瓶がある
㈭僧侶は飲み水は濾して飲むことについて
㈮歯磨きなどについて
㈯食事の前に生薑をいただく
㉀食べ過ぎが体調不良の原因
おおよそ一三〇〇年以前のインドのナーランダ僧院で実践されていた、その時代の具体的な治療のあり方であり、四大に不調を感じたときには、そのヒトの体質に適した食事と、季節や時間帯にもとづいたアーユル・ヴェーディックな養生生活を示していることが分かる。
6 エピローグとして『南海寄帰内法伝』にみる医療観について
ここまでに明らかになったことは、ナーランダ僧院で実施されていた医療(医方)の診療科目は、現代のアーユル・ヴェーダの根本聖典となっている『スシュルタ・サンヒター』(
uruta-sahit 三〜四世紀成立)『チャラカ・サンヒター』(charaka-sahit 五世紀成立)のインドの二大古典医学書と同様の科目であるところから、その医方明のテキストもおおよそ同様のものだと考えられた。そして、近年の文献的な研究では、義浄が「斯之八術先爲八部。近日有人略爲一夾。」と言わしめたこのテキストは、バーグバタ(Vgbhaa)の『八科精髄集』(Skt.A-haya-sahit Tib.Yan-lag brgyad-pahi si-po badus-pa shes-dya-ba)であり、さきの『スシュルタ・サンヒター』と『チャラカ・サンヒター』に含まれる医学的知識を七世紀頃に集大成した文献であることが指摘されている。インドでは『八科精髄集』にさきの医学書を加えて三大医学書と呼ばれるものである。
とくに『八科精髄集』に見られる病因論はといえば、律蔵群に見られたような四大理論(地大・水大に支えられた病因論から、トリ・ドーシャ理論(地大を除いた三大)に支えられた病因論へと調えられたものであった。
さらにこのような四大理論やトリ・ドーシャ(三大要素)理論に支えられた医療の具体的な治療のあり方どの様なものであったかと言えば、基本的には未病を癒すという養生の考え方に徹しており、身体の不調を感じたときには、さきのようにそのヒトの体質に適した食事と、季節や時間帯にもとづいた生活によって癒すことを目指していることが分かった。
ではこのような医療をナーランダ僧院ではどの様に受容していたのだろうか。さきにナーランダ僧院で玄奘三蔵や義浄三蔵が見聞した医方明のテキストについて触れたが、「その八つの診療科目(八術)は、八部のテキストになっていたが、近年になってある人がそれを要約し、一冊(一夾)のテキストにした。インド(五天)では、みなこの医学をならい技術を修めている。ただこの医学をならい修めると、それを生業とすることができ、西インドでは医師が尊ばれ、かねて商客を重ずるので殺害されることがない。そして、自分にも利益があり、人を救うことができる。しかし、この医方明の功学を用いて人を救っても、これは僧侶の正業ではないので、悩んだ末にこれを棄ててしまった」という。
◇『南海寄帰内法伝』「二十七先體病源」(大正五四 二二三B)
斯之八術先爲八部。近日有人略爲一夾。五天之地咸悉遵修。但令解者無不食祿。由是西國大貴醫人。兼重商客爲無殺害。自益濟他。於此醫明已用功學。由非正業遂乃棄之。
ナーランダ大僧院で実施されていた医療について、義浄は医方明の功学が、僧侶の正業ではないとして、その医方明を棄てたという。そこで律蔵群の中で闡陀母比丘尼が活命の目的で医療を施し釈尊に禁じられた話しを挙げたように、義浄三蔵が学んだ医方明を棄てたという真意もここにあると言うことである。
また「㈭僧侶は飲み水は濾して飲むことについて」には、僧侶が水を濾してから飲む理由について示されていた。「常々用いている水を観察することは重要なことなのである。絹布で水を濾していても、虫は水の中で死んでしまうものである。一生懸命に護生につとめても、そのことは伝わる由はない。井戸の口のところで絹布を裏返せばよいと思うのは、放生の器の意義を知らないのである。たとえ虫が水に入ったとしても、虫は死んでしまうかもしれないのである。
また場合によっては、小さなまるい絹布で、一升、二升の水を濾すこともある。もともと薄い絹布で水を濾せば、その水に虫を観ることはない。水の瓶に自身で目を凝らし、また他の人と共に目を凝らす。そうやって護命する心を養いながら、日々の生活で犯しそうになる過ちを師弟が共に助け合いながら、ブッタの教えを護り伝えてきたのである」という。
◇『南海寄帰内法伝』「七晨旦觀蟲」(大正五四 二〇八B)
豈容常用水曾不觀察。雖有濾羅蟲還死内。假欲存救罕識其儀。井口之上翻羅。未曉放生之器。設設令到水蟲死何疑。時有作小圓羅。纔受一升兩合。生疏薄絹元不觀蟲。懸著鉢邊令他知見。無心護命日日招愆。師弟相承用爲傳法。
ここに見られることは、単純に虫の生命(いのち)を護ること大切というのではなく、護生という戒めを遵守したとしても、虫は水の中で死んでしまうこともある。大切なことは護生への努力をすることであり、そのように護命する心を養いながら、日々の生活の中で犯しそうになる過ちを師弟が共に助け合い、ブッタの教えを護り伝えてきたことにあると言う。その護命する心を養うことで、生命(いのち)の何たるかに気づけるということである。
これまでの事例の積みあげで明らかになってきたことは、ナーランダ僧院で実施されていた医療は、医方明としてはインドの二大古典医学書の『チャラカ・サンヒター』と『スシュルタ・サンヒター』をバーグバタ(V
gbhaa)が集大成した『八科精髄集』(Skt.A-haya-sahit Tib.Yan-lag brgyad-pahi si-po badus-pa shes-dya-ba)であり、医学理論としては四大論であったが臨床では三大論が応用されていた。僧侶たちは仏道の大願を成就するために、このような四大、または三大論に支えられた医学理論によってフィジカルな生命(いのち)、四大または三大によって構成されている心身(いのち)を養っていたことが分かる。
ところが、私たちが日常の中で生命(いのち)と呼んでいる生命は、病気を治すことで保たれる生命(いのち)であるのに対して、律蔵群で釈尊は大愛道(仏道修行)によって生死を超えたところにある生命(いのち)の獲得を目指していたように、ナーランダ僧院の医療の目的も、単に活命によって生きながらえるためではなく、「二十七先體病源」で義浄は、医方明の功学は僧侶の正業ではないとして、その医方明を棄てた(於此醫明已用功學。由非正業遂乃棄之。)といい、また「七晨旦觀蟲」では、僧侶がどれほど護生に努めても虫は死んでしまうと言いながら、その護命する心を養うことで、生命(いのち)の何たるかに気づける(無心護命日日招愆。)というのである。
このようにナーランダ僧院の医療に関わる事例を拾い上げてゆくと、仏教の救済のあり方として、仏教という宗教の機能的な側面がみえてくる。すなわち、ナーランダ僧院おいて仏教は、四大または三大によって構成されている心身(いのち)を救済することが目的ではなく、その生死の生命(いのち)を超えた生命の気づきにあると言える。
※この小論は第六〇回日蓮宗教学研究発表大会で発表した原稿を整理したものである。