現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
三好達治の詩からみた戦争責任と平和憲法
三好達治の詩からみた戦争責任と平和憲法
田 澤 元 泰
つい先日まで、憲法改定についての議論がたかまり、国民投票に関する法律が制定され、これらの問題について国民の意思を問う意味で、参議院選挙が行われるはずでしたが、野党の追及に端を発した「国民年金問題」が争点となって、憲法問題が忘れられようとしています。そんな矢先、当研究所に憲法問題の参考にと、大阪府本澄寺住職三好龍孝上人から、全国日蓮宗青年会近畿ブロック行学道場で講演された原稿に加筆された論文をいただきました。
三好師は親戚でもある、詩人の三好達治の詩作品を通して、仏教徒の戦争協力に関する問題から、現在問われている憲法第九条についての重要な視点を論じられています。長文ですので、勝手ながら論旨の要点を紹介したいと思います。
一、かつての日蓮宗の戦争協力の姿
おんたまを故山に迎ふ
三好達治
ふたつなき祖国のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかの兵ものは つゆほども
かへる日をたのみたまはでありけらし
はるばると海山こえて
げに
還る日もなくいでましし
かのつはものは
この日あきのかぜ蕭々と黝みふく
ふるさとの海べのまちに
おんたまのかへりたまふを
よるふけてむかへまつると
ともしびの黄なるたづさへ
まちびとら しぐれふる闇のさなかに
まつほどし 潮騒のこゑとほどほに
雲はやく
月もまたひとすぢにとびさるかたゆ 瑟々と樂の音きこゆ
旅びとのたびのひと日を
ゆくりなく
われもまたひとにまじらひ
うばたまのいま夜のうち
樂の音はたえなんとして
しぬびかにうたひつぎつつ
すずろかにちかづくものの
荘厳のきはみのまへに
こころたへ
つつしみて
うなじうなだれ
國のしづめと今はなきひともうなゐの
遠き日はこの樹のかげに 閧つくり
讐うつといさみたまひて
いくさあそびもしたまひけむ
おい松が根に
つらつらとものをこそおもへ
月また雲のたえまを駆け
さとおつる影のはだらに
ひるがへるしろきおん旌
われらがうたのほめうたのいざなくもがな
ひとひらのものいはぬぬの
いみじくも ふるさとの夜かぜにおどる
うへなきまひのてぶりかな
かへらじといでましし日の
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ふたつなき祖國のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
ある標準的な出征兵士の心情と、送り出しまた迎える者の姿がここに描かれている。それは日蓮聖人が『与平左衛門尉頼綱書』の末尾に、「身のために之を申さず、神のため国のため一切衆生のために言上せしむるところなり……」と締め括られているのとは、自身のためではないという意味では共通している。また、三好の詩にある「妻も子もうからもすてて」と、日蓮聖人の『弟子檀那中御書』に「少しも妻子眷属を憶うこと莫れ」と、同じ言葉が出てくるのは、両者が心情において同様な境地にたっていることを思わせる。違うところは、日蓮聖人は「権威を恐れること莫れ」と言われ、「東洋的な正統な仏教の宗教心」で武断的な権力者の鎌倉幕府と対峙されていた。
一方、三好達治は「東洋的な正統な仏教の宗教心(と等しいもの)」を精神の真髄としながら、「ふたつなき祖国のため」「西洋的な近代国民国家の論理」で戦争を推進する武断的な政府に協力する判断をした。しかし両者には、それぞれの時代の歴史的状況があるから、判断が逆になっていても、日蓮聖人からみて全くの間違いであるとはいえない。仏教発祥の地インドをはじめ、西洋諸国による世界の植民地支配への反撃として、そのような判断を下したことは、全く理解できないことではない。
三好達治は、「東洋的な正統な仏教の宗教心」によって、日米英開戦となる昭和十六年の『文学界・八月号』に「冬の日」と題して真珠湾攻撃を予言したような詩を発表している。
冬の日
慶州彿國寺畔にて
三好達治
ああ智慧は かかる静かな冬の日に
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」
秋は来り 秋は更け その秋は已にかなたに歩み去る
昨日はいち日激しい風が吹きすさんでいた
それは今日この新らしい冬のはじまる一日だった
さうして日が昏れ 夜半に及んでからも 私の心は落ちつかなかった
短い夢がいく度か斷れ いく度かまたはじまった
狐獨な旅の空にゐて かかる客舎の夜半にも
私はつまらぬことを考へ つまらぬことに懊んでゐた
さうして今朝は何といふ靜かな朝だらう
樹木はすっかり裸になって
鵲の巣も二つ三つそこの梢にあらはれた
ものの影はあきらかに 頭上の空は晴れきって
それらの間に遠い山脈の波うって見える
紫霞門の風雨に曝れた圓柱には
それこそまさしく冬のもの この朝の黄ばんだ陽ざし
裾の方はけぢめもなく靉靆として霞に消えた それら遥かな嶺の青い山々は
その清明な さうしてつひにはその模糊とした奥ゆきで
空間(スペース)てふ 一曲の悠久の樂を奏しながら
いま地上の現(うつつ)を 虚空の夢幻に橋わたしてゐる
その軒端に雀の群れの喧いでゐる泛影樓の甍のうへ
さらに彼方疎林の梢に見え隠れして
そのまた先のささやかな聚落の藁家の空にまで
それら高からぬまた低からぬ山々は
どこまでも遠くはてしなく
靜寂をもって相應へ 寂寞をもって相呼びながら連ってゐる
そのこの朝の 何といふ蕭條とした
これは平和な 靜謐な眺望だらう
さうして私はいまこの精舎の中心 大雄殿の縁側に
七彩の垂木の下に蹲まり
くだらない昨夜の悪夢の蟻地獄からみじめに疲れて
歸ってきた
私の心を掌にとるやうに眺めてゐる
誰にも告げるかぎりでない私の心を眺めてゐる
眺めている—
今は空しいそこここの礎石のまはりに咲き出でた黄菊の花を
かの石燈の灯袋にもありなしのほのかな陽炎のもえてゐるのを
ああ智慧は かかる靜かな冬の日に
それはふと思いがけない時に来る
人影の絶えた境に
山林に
たとへばかかる精舎の庭に
前觸れもなくそれが汝の前に来て
かかる時 ささやく言葉に信をおけ
「靜かな眼 平和な心 その外に何の寶が世にあらう」
先に、「おんたまを故山に迎ふ」といういわゆる英霊の詩を書いた詩人が、この「平和」の詩を書いた。戦争に協力した外相と、平和の性質は別々なものではなく、これこそが日蓮宗として一つの体であった。
二、特攻隊と平和憲法
戦争による犯罪的行為のなかで、「特攻隊」に限って、戦争の進展をみると、三好達治は「神風隊てふ」で次のように述べている。
神風隊てふ
三好達治
昭和十九年晩秋神風萬孕外諸隊敢死の士挺身玉砕して征く者すべて歸らず、頻りに敵艦船舟艇を南溟に屠るなり、寇虜侵攻日に急なるの秋その報旁午一憶の肺腑に徹す。
十機ゆき十機かへらず
百機ゆき百機かへらじ
神風隊てふ
この日ゆく空のはやをら
明日ゆかん伴もかへらじ
神風隊てふ
さきゆはゆきてかへらず
のちゆくもただにかへらじ
神風隊てふ
あなあたらうらわかき身を
さけくだけかげもとどめず
神風隊てふ
日の本はいかしき國や
大君のしこのみたてら
みなかへりこず
ゆきむかふ鐡板かたし
ますらをのやたけごころは
まさりてかたし
砲しげく舷のあつきを
うらわかきたぢからあわれ
さきはふりたり
四つに裂き八つに砕きてはふりたる
艦よりさきに
あらずますらを
いさぎよき報にはあれど
ゆけるみなうらわかければ
わがいたむまづ
いさをしはみづからしらず
ゆけるみなうらわかければ
なみだおつまづ
この詩は詩集『干戈永言』(昭和二〇年六月二八日刊)に収載されたもので、法華経の「自ら身命を惜しまない」という「東洋的な正当な仏教の宗教心」が「西洋的な近代国民国家の論理」と結びついた時には、このように人類史上比類のない「特攻」戦法に行き着く事実を述べている。「西洋的な近代国民国家の論理」のみの米国ではこういう「特攻」は起こりえない。『東洋的な正当な仏教の宗教心』が利用された。ところが、「特攻」にまで突き進む戦いをして一億玉砕のつもりが、昭和二〇年八月一五日に突然に敗戦と決まった。その時、日本人は何を考えたのだろうか。
平成一七年八月一四日付の朝日新聞に次のような記事が載っている。
「憲法に戦争放棄を進言したのは、A級戦犯の白鳥元イタリア大使であった。白鳥敏夫は昭和二〇年一一月二六日巣鴨拘置所に入所する直前に、吉田茂外相と会見し、新憲法を如何に制定するか、戦争放棄の問題等について口頭で意見を述べ、後に吉田茂あてに書面を送った。この白鳥の書面には、将来この国をして、再び外戦に赴かしめずとの天皇の厳たる確約、如何なる事態、如何なる政府の下においても、(略)国民は兵役に服することを拒むの権利、及び国家資源の如何なる部分をも軍事の目的に充当せざるべきこと、(略)将来とも修正不能ならしむることによりてのみこの国民に恒久平和を保証し得べき、ことが述べられていた。この内容については検閲したマッカーサー司令部は充分把握し承知していた。翌年一月二四日にマッカーサー・幣原首相会談にて、戦争放棄を新憲法に盛り込む発想が表面化した。」といった記事であった。
戦争拡大の元凶の日独伊三国同盟を作った張本人なればこそ、白鳥は「西洋的な近代国民国家の論理」がいかに危険かを知り尽していたはずである。「静かな眼 平和の心 その外に何の寶があろう」という三好達治と同じ発想が生じたといえる。その根源こそ「東洋的な正当な仏教の宗教心」である。
三、平和憲法第九条の旗
世界の憲法は「西洋的な近代国民国家の論理」の延長線上に発展してきた。それは対立の構図においてものを考えるから、勝つためには軍事力なしにはあり得ない。戦争放棄と戦力の不保持を宣言した日本の平和憲法第九条は、世界の憲法からはみだしている。それは「東洋的な正当な仏教の宗教心」から出たと考える以外にはない。
英霊の「おんたまを故山に迎ふ」を書き、戦争犯罪の「神風隊てふ」を書いた三好達治が、昭和三五年五月三日の六〇年安保改定の渦中に、朝日新聞に次のような意見をのべている。
陽春某日(一部抜粋)
三好達治
「戦争放棄と軍備の撤廃は、敗戦の大きな犠牲のあとで、それででもなければ決してふんぎりのつかなかっただろう新しい国民的理念への発足、その指標といふよりはそのこと自身を事実に具現しただいじな心棒であった。あったはずだ−−といはなければならないとただ今も考えたくはないところの、いさぎよい啓示であった。……前途の険難なくらゐは、私のやうな愚か者にも想像はできたが、想像において張り合いがあったから、私ごとき末大の世すぎた者にとっても「五月三日」はよき日であった。」
昭和二二年の「五月三日」が、「前途の険難」を踏まえて敢えてまだ「陽春某日」である、というのである。平和憲法が立派に堅持されるならば、五月三日は「初夏」のまことによき日になるのである。
最後に、中濃教篤師の『現代宗教研究・第二〇号』(昭和六〇年三月一日発行)掲載論文が紹介されている。
昭和三九年二月に、茂田井教亨立正平和運動本部長の諮問により、平和委員から「平和憲法擁護の見解」が発表された。そこには「不戦平和の現行憲法は、核兵器競争、核戦争の準備が依然として続けられている今日の国際政局の中で、国家エゴイズムによる武力の保持とその行使を否定する高い精神的立場を内外に宣明しているものであり、われわれ仏教徒は、汝殺すことなかれ、と叫ばれた仏陀の教えにかなったものとして心からこれを支持しているものである。(略)日蓮聖人の立正安国のご主張は、世界の平和なくして人間一人一人の安心はあり得ないことを明らかにしており、この祖意にしたがわんとするわれわれは、わが国が自前の利害によって平和憲法を改定し、末法の闘諍堅固の様相に自ら拍車をかけるがごときことは否定されねばならないと信ずるものである。」と明記されている。
この見解について湯川日淳師は、日蓮宗新聞にて「今日平和共存が世界の人々の声になっているのは、『時』が広宣流布に向かってうごいているのである。(略)今や軍備全廃が世界の世論になりつつあるが、これは性得の仏性が修得の仏性として開顕しつつある時代ともいい得るのである。自衛のための武装という理由から憲法を変えようというのは時代逆行である。政治家がそのような顛倒の考えにおちいっている時は宗教家がこれを啓蒙せねばならぬ」と、談話をよせているといった、宗門内における平和憲法に関する姿勢が紹介されている。(以上中濃教篤師の論文より)
このように日蓮宗の平和運動が「平和憲法第九条の旗」を高く掲げて進んでゆくとき、「わが国の憲法に戦争放棄がうたわれているのは有力な広宣流布の立場である」という湯川日淳師の言葉からして、「平和憲法第九条」は、そこを拠り所に布教に励む、崩されても崩されても必ず立てる日蓮宗の「日本国立戒壇」である。
以上、三好龍孝師の論文の要旨を紹介しました。宗門の戦争協力について、今日の一般的な価値観だけで批判するのではなく、反省のうえでさらに仏教的な独特な視点から論じなければいけないという、重要な問題提起といえます。新たな宗門運動「立正安国・お題目結縁運動」に関連して、『立正安国論』の拝読が展開されようとしていますが、憲法第九条をはじめとする憲法改定の議論が始まろうとする今日、こうした「平和」についての視野を十分ふまえた研讃が重要だと思います。