現代宗教研究第42号 2008年03月 発行
お寺は生き残れるか—経済学の視点からみる存在意義と将来の展望—
平成十八年度第十七回
法華経・日蓮聖人・日蓮教団論研究セミナー(公開講座)
少子高齢化のなかで伸びる日蓮宗
講演 お寺は生き残れるか
—経済学の視点からみる存在意義と将来の展望—
中 島 隆 信
ただ今ご紹介いただきました、慶応大学の中島です。今日はこのような席にお招きいただきまして、大変、感謝致しております。皆さんの貴重なお時間を頂戴するということで、緊張もしておりますが、どうぞ最後まで、お付き合いいただきたいと思います。二時間という長丁場ですので、一時間ぐらいお話した後、一息入れていただいて後半という形でお話をさせていただきたいと考えております。
タイトルが「お寺は生き残れるか」ということで、「生き残れない」話をここでするわけにはまいりませんので、結論としては生き残れるということになります。
今日は経済学の立場からお寺の話をするということですが、皆さん方の中にも経済学を学んだ方もいらっしゃるでしょうし、経済学自体も別に珍しい学問でもないので、今更申し上げることもないと思うんです。ただ最近は色々と、現代社会において経済学がある意味ではマスコミ等を通じてちょっと違った形で伝えられてしまっていると思います。それは勿論我々の側にも責任があります。学問というものは、どんなものであっても、どんな形であっても最終的には人間の役に立つと言いますか、この世の中の幸せのためにあるわけですよね。だけども、本来そういうあるべきものが、伝える側の努力不足によって、非常に歪んだ形で伝わってしまっている、という問題もございます。そこで、まず始めに、今日は経済学について話を致しまして、皆様方に経済学とは何か、何のためにこの経済学というものが存在するかをご理解いただきたいと考えています。
経済学は先ほど申し上げましたように、人間の世の中を良くしていくためにある、ということは他の学問とみんな共通、同じなんですね。だけども自然科学というと、やはり我々が普段生活している部分、人間の社会のちょっと外にある、という意識がありますよね。自然界というものは人間界とは別の所にあって、そのなかの法則とか、仕組みなどを人間が解明していく、という意識があります。だから、人間は自然界を対象にした学問の成果をどう利用しようかと、ある意味では客観的に受け入れることができる。太陽が東から昇って西から沈むということは、勿論我々の生活に重要な影響を及ぼしているわけですけど、それが東から昇って西に沈むこと自体、それはけしからん、とか別にとやかく言う人はあんまりいないわけです。そういうことを言っても始まらないとみんな思っているんです。だけど、経済学、社会科学の難しさというのは、それをなかなか客観的に見ることが難しい、できない、ということなんです。人間がこういう時にこういう行動を取る、ということを社会科学の場合、良く言いますよね。「人間は」と言った時に、自分も人間なんです。だから、太陽が東から昇って西に沈むことを客観的に見ることができるのに対して、人間がこういう行動をとる、と言われた途端に、いや自分はそんな行動は取らないよ、自分はそうじゃない、というときに、自分自身がその中に関わっていて、自分自身を一人の人間として客観的に見ることが難しいと。だから経済学の一つの重要なポイントは、人間を客観的に見るということなんです。人間を人間が外から見て、人間というのはどういう時にどういう行動をするのかということを、まず冷静に考えてみましょう、冷静に考えた上で、じゃあそういったものをどうやって我々の社会の中で活かしていくか、ということを次に考えましょう。そういう二段構えになっているわけです。
例えば、自然法則の中で皆さんよくご存知の、重力の法則があります。物が上から下に落ちていく。引力によって引きつけられているということですね。それは、ある意味では大きな発見なわけですけども、それを我々の生活に活かすか活かさないかというのは、その学問をどう利用するか、活かすか、という人間の努力次第です。だから、物理学者というのはそういう法則を発見するわけですけど、その後、重力をうまく利用して、物が上から下に落ちる時のエネルギーを使って、水力発電をするとか、そういう形でその力をどう活かそうかと知恵を絞って考えるわけです。
この人間の社会における重力のような役割を果たす力は何だろう、と経済学は考えるわけです。その力を何とか利用できないか。その一番大きな力は、人間が何か行動を起こす時、その行動の裏付けになっている動機、何のために人々はそういう行動を起こすのかということです。
例えば、私達がお店に買い物に行く時は、わざわざ服を着替えて、バッグを持って、靴を履いて、家の戸締まりをして出掛けます。これは非常に大きなエネルギーですよね。できれば家でゴロゴロしていたいのに。何にもしないで、面倒なことをしないで生活できればいいな、と考える人もいると思うんです。人間が何か行動を起こし、そうやって外へ買い物に出掛けるというのは、大きな力、エネルギーになっていますが、その力をもたらしているものは何か、その源は何かといえば、腹が減ったとか、何か自分の欲しい物を買いたい、そういう動機があって、初めて服を着替えて靴を履いて外へ出掛けるわけです。結局、そういったものの力の素になっているのは何かと言えば、自分の欲求なんです。私達に何かをしたいという欲求があって、その結果として行動が出てくるんです。だから、どんな人間の行動の背後にも必ずその動機付けがある、と考える。これが経済学の基本的な考え方です。その動機は何か。動機の中で一番大きいのは、自分自身が何かをしたい、という欲求ですよね。その欲求は押さえられない。例えば、我々は食べなければ生きていけないわけですから。食欲は非常に大きな欲求です。その欲求自体を、これは非常に良くないことだ、といって押さえつけるべきなのか。
経済学というのは欲求を如何にしてうまく役立てるか、ということを考えるわけです。人間が、自分の今の状態をより良くしたい、もっと良い暮らしがしたい、もっと良い物が食べたいとか、そういう基本的な欲求があった時に、その欲求をそのままむき出しにしたら、世の中は良くなりません。
例えば、皆さんご経験あると思うんですけども、旅行に行かれてホテルに泊まりますよね。ホテルでビュッフェ形式、バイキングってありますよね。朝食バイキングをご経験された方は分かると思うんですが、あれは既にお金払っているわけです。そうすると、バイキング中にどういうことが起きているかというと、全ての食べ物はタダになっているわけです。全ての物がタダだと、どういう世界が起きるかというと、バイキングの世界を思い起こしていただければいいんです。要するに、自分が食べきれない程の物を取っちゃうとか、要らない物、普段食べないような物でもタダなんだから食べちゃおう、と。或いは、量の少ない物はみんなの取り合いになりますよね。人間の欲とがむき出しになった醜い姿が、あのバイキングの中に表れるわけです。食べ物の取り合いになる。これは、人間の欲が汚い形で表れているんですね。そういう状態を、経済学は決して素晴らしいものとは言わない。そのために、私達が物を買いに行く時、ちゃんと値段が付いているわけです。世界の全てのお店で商品を買う、という行動の中で、全ての物の値段をタダにしたら、バイキング形式と同じになる。どういうことになるんでしょうか。人々は自分の欲しい物の所に殺到しますよね。普段だったら買えないような物の所に行って取り合いになります、奪い合いになります。非常に醜い状況が生まれてくる。だから、物にはちゃんと値段を付けて取引をし、量の少ない物には高い値段が付くわけです。
今、まぐろの値段が上がっていますが、これは非常に健全な状況です。つまり、まぐろが足りなくなっている、買いたいという人の数が大勢いる、それで高くなっている。これは当然のことなんです。だから経済学というのは、決して今言われているような、金儲けのため、お金をもっと儲けたいと思っている人達の欲求を後押しするとか、そういう学問ではないんです。むしろ、人間の欲を如何にうまくコントロールするか、そして世の中を秩序立てて、その結果として、人間が幸せに暮らすにはどうしたらいいか、ということを考える。それが、経済学の基本的な考え方なんです。その時に人間の欲求をうまく使う方法として、私達は市場を考えているわけです。
市場はご存知のように、物を買いたい人と物を売りたい人が出会って、取引をする場です。その市場がどうして大事か、ということなんです。買いたいと思う人がいて初めて、売りたい人がそこで活動できるわけです。売りたいと思う人は、買いたいと思う人のことを詳しく知っている必要はないんです。その人がその買った物をどう使うかということも、そこまで詳しく考える必要もない。市場で物を売って、その値段がついていて、その値段でこれを買おうと思う人が買う。殆どの市場はそのように成り立っています。スーパーで皆さんが買い物をしても、デパートに行っても、別にそのデパートの店員さんのことを詳しくご存知なわけじゃないじゃないですか。デパートやスーパーのレジの方だって、お客様のことを全部知ってるわけじゃありません。だけども、何で取引が成り立っているかといえば、物をちゃんと売ればちゃんと買ってくれる。ちゃんと値段がついていれば、その値段を見て消費者が選んでくれる。ということが前提になっているわけです。ですから、経済学の基本的な考え方というのは、消費者なんです。物を買う側の人達が、どのくらい世の中に存在していて、その人達がどういう動機付けのもとで物を買いに来るか、ということを最初に考える。その考え方がないと、市場はうまくいかないんです。
だから私がこのレジュメの一番最初に書いたんですけども、経済学の基本は「お客様は神様です」と。これはもう、最近若い世代の人に言っても通じない言葉なんですけども(笑)。最近は、アサヒビールのキャッチフレーズで、「全てはお客様のうまいのために」という言い方をしているんですけど、「お客様は神様です」という言葉はですね、非常に経済学の基本を表している言葉です。お客様を神様だと考えるのは、ほんとにお客様を神様だと考えているわけじゃないわけで、お客様をそのくらい大切にしなさいよ、ということです。お客様を大切にするというのは、別に使命感とか倫理観とかから来るわけじゃなくて、お客様を神様ぐらい大事に考えないと自分に跳ね返ってくる、という非常に簡単な原理原則です。
最近問題になっている、不二家の問題。それから、かつての雪印乳業の問題。そういうのをご覧になって、お客様を大切にしなかった会社というのは、その後ものすごく厳しいしっぺ返しを受けるわけです。どういうことかというと、お客様から次にもう選んでもらえなくなるんです。これは非常に怖い話です。仮に全国で、もう不二家しかお菓子を作っていない、一社しかない、というなら、これはえらいことなんです。だけど幸いなことに、私達は選べるわけです。不二家さんが駄目なら、コージーコーナーのケーキもある、不二家のお菓子が駄目なら森永、明治のお菓子もある。いろんな生産者、事業者がいて、そこから選べる。結局、ある業者がとんでもない間違いを犯すと、他の業者にお客さんが流れてしまう。その怖さを十分に知っているわけです、企業は。だから、不祥事を起こしちゃいけないなということで、非常に厳しい規律が生まれてきます。「お客様は神様です」と言わされているわけでもないんです。これは自分達でそう言っているんです。自分達でそう考えていかないと生き残れないいということを、身に沁みて事業者は分かっているんです。それが経済の基本です。
ただ、ここでちょっと問題があるのは、お客様は簡単には育たないということなんです。この所を我々はよく考えないといけないんです。お菓子くらいならばいいんですけど、もう少し商品が高度になってきますと、お客様もなかなか簡単には、商品を見る目が育たない。皆さんもご存知のあるテレビ局が、納豆の効用について色々報道しましたら、それが嘘だったということが公になりまして、大変な騒ぎになりました。普通に考えていただければお分かりになるように、納豆を朝と晩に食べて痩せる、なんていうことは、まずあり得ないわけです。どうあり得ないかというのは、医学的に証明できるかどうか、ということではないんです。経済学を知っていれば、そんなことはあり得ないということが分かるんです。どうして分かるかと言いますと、仮に納豆を朝夕食べて簡単に痩せられるなら、とっくに製薬会社が薬を作ってるはずなんです。医学的に証明されようとされまいと、世の中には市場があって、これはいけそうだ、これは儲かりそうだといったら、企業がほっとかない話なんです。それなのにテレビがちょっとこれがいいよ、と言ったら、簡単にそれに飛びついてしまう。消費者がちゃんと育っていないと、マスコミや業者の根拠のない宣伝に踊らされて、ぱっと特定の商品に動いてしまう。実に恐ろしいことです。だから、消費者というものは、しっかりと育てていかないといけないわけです。
耐震偽装マンションの話も皆さんご存知だと思うんですけども、あれも結局消費者が騙されているわけです。何故騙されたかというと、それは結局、消費者サイドに建築構造についての知識がないからなんです。消費者がこれから住むであろう自分のマンションの構造がどうなっているかということについての知識があって、またそれを、どうやったら調べられるかということを知っていれば、簡単には騙されない、業者も簡単には騙せない。だけど、残念ながら、ああいうマンションを買おうという消費者が知ろうとする情報が、単に広さと値段というわけです。広さと値段だけで商品を選ぶということになれば、当然、その中の構造がめちゃくちゃであっても、それでも飛びついて買ってしまう、ということなんです。消費者が騙されるというのは、騙すほうも悪いんですけど、騙されてしまうほうも知識がない、ということなんです。健全な消費者というのは、簡単には騙されない消費者ということです。
蓄えた資産を、騙されておかしな投資につぎ込んだというケースがあるんですよね。一年間でお手持ちの資産が二倍、三倍になるという話に踊らされて、なけなしのお金をつぎ込んでしまう。つぎ込む側の気持ちは分かりますが、これも経済学を知っていれば、一年でお金が二倍になるなんてうまい話があったら、普通他人に教えません。自分でこっそりとやりますよ。それをわざわざいろんな人に電話をかけて、家を訪問して知らせるんでしょうか。普通に、合理的に考えたらおかしな話なんです。うまい儲け話っていうのは、こっそりやるもんなんですよ。それをおおっぴらに宣伝してやるっていうことはあり得ない、と冷静に考えれば騙されないんですけども、経済学の知識をつかって、消費者側が冷静に考えられずに騙されちゃうんです。だから、騙されないようにすれば、騙す側も騙せなくなるわけです。
最近話題の教育再生会議で、教育の意味に関して色々と議論されていますけれども、教育は何のためにやるの、と言った時に、これまでは健全な事業者を育てるという意味が、非常に大きかったんじゃないでしょうか。私も経験ありますけど、美術の授業で何をやるかというと、絵を描かすわけですよ。私は絵を描くのが苦手ですが、絵を描かせられるもんですから、描いて先生のところに持って行くと、下手くそだな、と言うわけですよ。お前何だこれは、上下が逆さまじゃないか、とか言われるわけですよ。それでどうして絵が好きになるでしょうか。絵の教育というのは、絵を描かせる教育なんです。音楽の教育というのは、歌を歌う教育なんですよ。歌が苦手な子供にとって、小学校の音楽の授業くらい苦痛なものはないです。あれで音楽が嫌いになってしまう。結局、そういう教育というのは、全て演じる側、作る側のサイドに立った教育がされている。日本が明治維新以降、とにかく生産者を育てて、先進国に追いつき追い越すために健全な労働者を育てることが教育の目的だ、ということでやってきたわけです。だけど今はもうそういう時代じゃないわけですよ。国民の価値観も様々だから、とにかくまずは消費者を育てるための教育、と割り切って考えないといけないと思うんです。いい消費者が育てば、いい生産者が育つ、と考えないといけないわけです。いい消費者を育てることこそが、いい生産者を育てることに繋がっていく。だからそういう意味で、宗教もいい消費者を育てるための宗教でなければいけない。
現在、宗教の授業がとてもないがしろにされています。宗教を習うのは高校の倫理社会で少し習うくらいです。それだって倫理社会を選択しなければ、ずーっと宗教のことは学校で教わらないで育つわけです。ミッション系の学校に行けば、教えてもらうかも知れないけど、そういうことのない一般の公立高校教育の場で過ごした人は、宗教のなんたるかということが分かってない。私達の生活の基本にあるというのは、宗教だと思ってるんです。宗教に基づく倫理観がない国民というのは、非常に危険です。ブレーキが効かない、暴走してしまう。人間にとっての幸せは何なのかと考えた時に、やはり心の教育をすることが必要で、そのために道徳やモラルを社会のルールとして教えていくのではなくて、生きていく人間として、宗教という立場、心の教育をしてくれる宗教がベースにあって、モラルとか、ルールとか、そういうものが成り立ってるんだ、という基本的な考え方をやっぱ教えていくべきだ、と思っています。そのことが健全な消費者を作る。健全な消費者ができていけば、仏教に限らず色々な宗教の教えが、子供のうちは分からないとしても、ある程度大人になればその大切さが分かると思います。
経済学の考え方というのは、これからは健全な消費者を育てていくことが豊かな社会に繋がっていく、という視点から、その考え方を後押しする、それが経済学の基本的な考え方です。まず、そのことを皆さんにご理解いただきたいと思います。決して、金持ちのための学問でもないし、格差が広がることを支援しているわけでもない。金持ちがもっと金持ちになるために経済学を学ぼう、なんていうものでもないということです。そういう基本をご理解いただいた上で、信仰の話に入っていきたいと思います。
経済学で考える物やサービスのやりとりというものは、決して一般に考えられているスーパーで物を買うとか、レストランに行って食事を食べるとか、そういうようなものだけではない。人間というのは、欲求を限りなく膨らませたい、という気持ちもあります。だけどその一方で、欲求の追求から離れた安らかな生活をしたい、或いは一時期そういう状況から離れたい、という気持ちもあるんです。これはとても重要なポイントで、例えば、人間はいろんな選択肢が欲しいと考えている一方で、その中から自分の好きな物を誰かに選んで欲しい、或いは、そんなに沢山の物から選ぶのは面倒だ、という気持ちもあるんです。人間の欲求は非常に複雑なんです。単純なものじゃないんです。その中に、信仰があると思うんです。つまり、何かこの特定の宗教というものを学んで、教えを受けて、その宗教を自分の心の支えにしたい、という欲求があるんです。それは信仰というものに対する人間の欲求ですよね。そういう欲求があるからこそ、仏教にしろキリスト教にしろイスラム教にしろ、最初に教祖がその教えを開いた後も、今までずーっと続いてきたというわけです。なくなることはなかった。じゃあその信仰というものは、どういう形で事業者側と消費者側との間でやりとりされてるか、ということを次に考えないといけないわけです。
信仰をやりとりする信者さんとお寺さんとの関係には、三種類あるんじゃないかと考えます。一つめのお寺は観光寺です。観光寺には、とりあえず有名だから行くわけです。例えば、京都の金閣寺。京都の金閣寺に行く人は、あの金ぴかのお堂を見に行くわけです。私もそうですけど、とりあえず行って、あ、金ぴかだ、ということを確認すればそれで満足するわけです。それで満足して帰るわけで、何回も行くわけではありません。じゃあ今度は銀閣寺に行ってみようと言って、行ったら何だ銀色じゃないじゃないかと言って帰ってきて、終わるわけです。そこのお寺の宗派が何であるかとか、ご住職がどういう方かとか、そういうことはあんまり関心がなく、要は、行って確認して終わりです。そういうものです。そこのお寺と長いこと付き合おうというような気持ちはさらさらなく、信仰心もまったくないとは言わないけども、非常に薄くて、とりあえずはそのお寺に行くことが目的なんです。
二番目のお寺は信者寺です。信者寺は、長野の善光寺のようなものです。長野の善光寺に行く人は、観光で行く人も勿論いるとは思いますが、やはり信者さんが多いように思います。信者さんはそこへ行ってお参りをして、おびんずるさんとか撫でて、病気が治りますようにとお祈りして帰ってくる。一年に一ぺんはそこへ行く。もう一つの信者寺の例は、川崎大師や成田山ですね。初詣にそこのお寺に行って、お参りをして帰って来る。初詣のお寺はみんなだいたい決めていると思うんです。
そして、三番目は檀家寺だと思います。日本に一番たくさんあるのは檀家寺です。檀信徒さんとお寺の住職は、信頼関係に基づいたものですね。本来はそうあるべきもの。ですが、その信頼関係っていうのが、どのくらい強いものかどうかというのは、信仰について腹を割って話せるかどうかです。檀家寺は、そうあるべきものですね。つまり、檀家さんがそのお寺のご住職の顔を知っているし、お互い性格もよく知っていて、どういう家庭のバックグラウンドかも知っている。いろんな情報をお互いに共有できていて、このお坊さんにお願いすれば、だいたいこういうようなお勤めをしてくださるな、なんてことも分かっている。お互いの信頼関係の上で成り立っている。これが、三番目の檀家寺です。
こうした三つの信仰に対するニーズというものが、果たしてこの先長続きしていくのかどうかを、私達は、まず基本として考えなければいけないと思います。その消費者のニーズがこれから先消えていってしまうんじゃないか、という心配があります。かつては、我々の文明が進歩していくに従って、信仰に対するニーズが減っていくんじゃないか、という考えを持っていた人がたくさんいたんです。これは非常に簡単な話です。古代の人達は科学を知らないので、いろんな自然現象が起きると、みんなそれを神様のお怒りのせいと考えた。だからいろんな自然のものに神が宿っているということで、信仰することが非常に原始的な宗教としてスタートした、ということは皆さんお分かりになると思います。だけども、科学が進歩していきますと、雷が鳴る原因が分かってくるわけです。雷が鳴るのは、雷様がいて太鼓を叩いているのではなく、雲がぶつかって起きる現象なんだと。雨がたくさん降るのも、神様がお怒りなのではなく、台風が発生したからとか、エルニーニョだからとか、そういうことが段々分かってくるわけです。だから、地球温暖化も神様にお祈りするより、温暖化ガスの発生を減らさなきゃいけないねという話になってくる。だんだん宗教の果たす役割っていうのが下がってくるわけです。
また、宗教と科学がぶつかり合ってきた歴史もあります。天動説と地動説のぶつかり合いも、キリスト教の基本的な考え方、全ての物は神が作ったという考え方とぶつかり合っている。ダーウィンの進化論も、人間は神が作ったので、哺乳類として猿から分家してできたという話は、到底キリスト教の考え方とは相容れないということになってくるわけです。
仏教の基本的な役割として、苦しんでいる人を救済するというときに、お釈迦様が仰った生老病死の四つの苦しみから人間を救ってくれるのが仏教である、という考え方がある一方で、科学が進歩したら、生老病死の四つの悩みは、それぞれ薬で治しましょうと、生の苦しみはこの薬、老の苦しみはこの薬、という感じで、科学が進歩したら全部薬で治っちゃうんじゃないか、という考え方もあるかも知れません。だけども経済学者はそうは考えていないんです。人間の苦しみからの解放というニーズ、つまり宗教に対するニーズはいつの時代でもある、それはちゃんとした証拠があると言うんです。
北欧のスウェーデン、フィンランド近辺の国は、全部、国が宗教を決めているんです。勿論信教の自由はあるけども、子供が生まれると、その都度洗礼を受けます。スウェーデンの場合は、ルター派のキリスト教が国教になっていて、司祭は全部公務員で、教会も国の財産になっていて、子供は、ほぼ一〇〇%洗礼を受けるという状況です。そうすると、人々の信仰心も篤いかというと、そうじゃない。北欧三国の日曜礼拝への信者さんの出席率は、三%から一〇%。ものすごく低いんです。何故そんな低いかというと、国が宗教を決め、司祭が公務員で、人々を教化しようというインセンティブがないんですね。ほぼ一〇〇%信者さんが作られていくわけですから、頑張って教えを広めようとなりません。だから、日曜礼拝の参加率も非常に低く、教えも浸透してないわけです。日本の場合も第二次世界大戦の前は、国家神道への帰順ということで、宗教はほぼ一〇〇%強制されてました。けれども、結局その後、戦争が終わって、日本国憲法が制定されて、信教の自由が公に認めらるとどういうことが起きたかと言ったら、国民がみんな国家神道そのまま信仰し続けましたかというと、そんなことはない。ものすごい数の新興宗教が出て来て、信者さんの獲得競争が起きた。だから、宗教に対するニーズは、何時の時代にもあるということなんですね。あるんだけども、なぜ盛んでないかと言ったら、消費者側に問題があるのではなくて、事業者側に問題があるということです。はっきり言えば、仏教が日本で栄えているか、栄えてないかというのは、信者が悪いわけではなくて、事業者側に、お寺に問題があるということです。先ほど市場経済の話をしたんですけども、市場が健全に運営されてない所っていうのは、大抵の場合は事業者側に問題があります。
事業者側が、文句を垂れてるうちは駄目ですね。事業者側がまず自分を振り返ってみて、自分のどこがまずかったかっていうことを考えてみて、お客様を主体にして、自分を見つめ直すということこそが何よりも大事です。そうなっていった時に、先ほど申し上げました三つのサービスのうち、どれをこれから提供していくか、ということです。
観光寺と信者寺というのは、それなりに成功してる所もありますが、かなりリスクもあることは確かです。観光寺は、やはり観光客にたくさん来てもらわないといけません。だから、お客様意識は結構強いと思います。
信者寺もお客様意識はあるんですけど、非常にリスクもあります。どういうリスクがあるかというと、川崎大師にしろ成田山にしろ、初詣に行きます。そこで、今年もいいことがありますように、と祈って帰りの途中に車にはねられたとします。さあ、そのお寺に来年行くでしょうか。僕は行かないと思うんです。交通安全の祈願をあるお寺にやっていただきました。その帰り道に自動車事故に遭っちゃった。病気に罹りませんようにとお祈りしたら病気になったとか、そういう時に、果たしてそのお寺に信仰し続けるかと言うと、そこまでは信仰心が強くないだろうと。
檀家寺というのはそういう意味で言うと、お坊さんやその宗の教えに対する信頼関係の上に成り立っているわけだから、簡単に信仰を捨てるということはないと思うんです。つまり、ほんとに懇意にしている馴染みのお店といったら、そのお店を簡単に変えて他に移るってことはないじゃないですか。子供の誕生日はいつもこのお店に行って家族でお祝いする、という時に、次の年にその店に行かないで別の店に行っちゃったら、その店の主人は非常に不愉快な思いをします。信頼関係が一気に壊れますよね。そしたらまたそのお店に行こうと思っても、お店の主人はもう信頼してくれません。そのお店でお客様を接待しようと思って行ったとき、質の悪いお料理を出したらお客様の前で恥かくわけですね。もう行くもんか、と思います。だからお店だって一生懸命にその信頼関係を維持しようと思って、いいサービスをするわけです。だけども、信頼関係を維持することはなかなか大変なことなんですよ。
お坊さんと檀家さんの間はどうでしょうか。お互いの信頼関係はない、お互いの間を取り結んでる信仰もない。要するに、そこにお墓があるからずーっとおつきあいはしてきましたよ、というだけかもしれません。だけど、お墓がそこからなくなったら、晴れてお寺と縁を切って、全く別の宗教かどうか分かりませんけども、お墓は別の形式をとりましょう、或いはもうそのお寺とはさよならしましょう。お寺と、檀家さんとの関係というのは疎遠になっていく、離れていく、ということは仕方がないことです。大切なことは、信頼関係が最初からあったかどうか、ということなんですね。その信頼関係の元になっているのは、信仰じゃないですか、教えじゃないですか。その教えというものに対して檀信徒の理解がどれだけあったか。その信頼関係をお互いに維持することによって、メリットがある。だけど、そういうものがなく、制度に守られてるとしたら、その制度が崩壊すると、関係は一気に崩れる、こういうことになります。
先ほど、三つのお寺の例を話したんですが、私は『お寺の経済学』を書く過程で、沖縄のお寺に取材にまいりました。沖縄はご存知のように、檀家制度がない所なんです。薩摩藩が琉球王朝を倒して、沖縄を占領して仏教弾圧をしました。江戸時代に一般に行われていた檀家制度、寺請制度というものは、沖縄には存在せず、その影響もあって沖縄は非常にお寺の数が少なく、八四〇〇世帯に一ヶ寺しかない。全国平均というのは六〇〇世帯に一ヶ寺です。
沖縄の方達は、ユタ信仰というご先祖崇拝に頼っています。ご先祖様の声を呼んでくるユタが、沖縄では重宝がられておりまして、病気や悩み事があったとき、ユタに行って話を聞くということです。そういう状況にありまして、沖縄では仏教界は布教に苦労をされております。お寺の規模もこんな感じです。
これは沖縄の浄土真宗の開教寺院なんですが、浦添本願寺という所で、米軍の住宅をちょっと改造した程度というお寺なんです。こちらが本堂です。こちらにお賽銭と書いてあって、こういう風に貼り紙をしておかないと、みんなゴミを捨てるそうです(笑)。法名も授けて、位牌に書いてお坊さんはお渡しするんだけども、沖縄は伝統的に俗名なんです、表に出すのは。法名に対する理解が殆どありませんから、それに対してお布施をいただくということもできないということです。沖縄では、一回のご葬儀にお坊さんが受け取る報酬は、平均七万円ぐらいだそうです。だいたい千軒くらいのお檀家さんがいないと、お寺の経営としては成り立たないということです。
沖縄のお寺の場合、先ほどの観光寺と信者寺と檀家寺のうちのどれに当てはまると皆さんお考えになられますか。おそらく基本的に目指してるのは、檀家寺なわけです。だけども、実体はどうなっているかというと、お檀家さんとお寺の間の信頼関係って殆どないんです。ですから、何かご葬儀があると、まず皆さん親族の方は葬儀社に連絡をするわけです。葬儀社に連絡をすると、葬儀社がお寺のリストを持ってまして、それでお寺を紹介してくる。お寺の紹介も別に固定的なお寺を紹介してくるわけじゃなくて、ご葬儀の時はA寺へ、四十九日はB寺、一周忌はC寺、という風に宗派もバラバラで、その都度お寺を変えるということです。あくまで葬儀というものの上で成り立っている取引関係、その場限りの取引関係、これが沖縄のお寺です。
先ほどの開教寺院のご住職が、沖縄は本土に比べて信仰が一〇〇年遅れている、と仰ったんですよ。だから自分はこれを変えていくんだと。非常に浄土真宗のお坊さんらしいご発言だな、と思ったんですが、私がそこで考えたのは、もしかすると本土のほうが一〇〇年遅れてるかも知れない。本土のほうが沖縄化の道へ着々と進んでいる。そして都市部ではその動きというのは起きてるわけです。やはり、お寺とのお付き合いの仕方は、もうかなりその場限りのものに近くなってきている。一年のうちお寺に行く回数がどのくらいあるかということです。お寺というものとどういうお付き合いをしていいかな、ということが現代の人は分からないんじゃないかと思います。結局、お寺は葬儀や法事の時に行くべき所、沖縄はまさにそうなんです。だから沖縄の場合は、お寺は普段行くべき所じゃないと思ってますね。普段行ったらまずい、人が亡くなった時に行く所なんだから、縁起でもないって話になるわけです。だから、まずお寺とのお付き合いというものがそういうものじゃないんだよ、という所から変えていかないと、結局沖縄と同じようになる。そういう危機感というものが生まれておかしくないんじゃないかと思っているんです。
それで、そういった時に如何にお寺が檀信徒との信頼関係を作っていくか、或いは取り戻していくか、ということを考えた時、お寺というものが単なる事業ではない、葬儀の時にサービスをしてお金を貰って帰って行く、というようなサービスじゃないということを、お寺自身が示していかないと。お寺との関係を築いていくのが理想的な話だと思います。
宗教の教育は必要だと思いますが、それが実際に生かされるのは、ある程度年がいってからですよね。ということになってきますと、お寺自身が自分達はしっかりと宗教活動をやってるんですよ、決して金儲けのためにやってるんじゃないんですよ、ということを示していく必要がある。これはなかなか大変なことではないか、と思います。現実にお金がお布施の形にしろ何にしろ動いている以上、商売のためにやってるんでしょ、と言われると、いやそうじゃない、これは宗教活動でやってるんです、と証明できないですよね。だけど、全部無料でやることはできないですよ、お寺だって生活しているわけですから。そうなった時に、どうやって自分の宗教性や宗教活動を証明するか、非営利性を証明するか、ということの非常に重要なポイントが、料金を提示しないことだと考えています。
お寺のお坊さんは、非常に稀な素晴らしいお仕事をされている。そのお仕事が何故素晴らしいかというと、料金を示さないからです。世の中で料金を示さないで成り立っている仕事など、滅多にありません。料金を示さないで成り立っていて、かつ行政の力が及ばない。これは凄い所です。
何故そんなことができるかと言うと、人助けをしている仕事だからです。人助けをする仕事というのは公共性を持っているわけです。人助けをする仕事に就いてる方達で共通して言えるのは、助けて貰った側がお礼を言うことです。助けて貰った側の人がお礼を言って頭を下げて、お金を差し出すんです。なんでそんなことが許されているのかというと、困っている人達を自分が助けているんだ、という考えです。だけどお前、そんなこと言ったって本気じゃないだろう、なんて言われちゃうわけですが、少なくとも名目上は本気だよ、と言うために行政の補助金が入ってくる。大学にも行政が補助金を入れて、あんまり月謝を上げるなよ、と言っているわけです。だから、授業料を五倍にするなんて言ったら行政は怒ります。補助金をやめて自分でやれよ、となるわけです。それでみんなが付いてきてくれるかどうかというと、今の日本の状況では、残念ながらそうではないでしょう。
お医者さんも、絶対に自分から頭を下げません。患者さんのほうが、ありがとうございましたと頭を下げるわけです。だからあれもサービス業じゃない、サービス業のように見えて、実は非営利事業です。だけど、料金取っているじゃないかということになるけど、あれは診療報酬が決められているわけです。自由診療に移行していったら、お医者さんのほうが頭を下げなければいけなくなると思うんですけどね。
それに対して、お寺のお坊さんは一切そういう行政の関与がない。行政の関与がないのに、やってらっしゃる仕事がなぜ公共的な仕事と言えるんでしょうか。それは自分達で示さなければいけないんです。自分達でどうやって示したらいいか。それは、料金を提示しないということ以外にあり得ないと思います。料金を出したら、営利事業だと言われます。何故なら、法律には宗教事業を定義する項目が一切ない。法律に書いてあることは、この三十三業種は営利事業ですよ、ということしか書いていないんです。そうしたら、皆様方がやってらっしゃるご葬儀のお勤めは請負業じゃないですか、と言われちゃうわけです。墓地の管理は不動産貸付業でしょう。お骨を預かっての供養は倉庫業じゃないか、という話になるわけです。そうすると、実体は宗教活動なんだよ、とちゃんと言えるだけのものを自分で持ってるかどうかです。そして、回りの人も納得してくれるかどうかですね。私は料金を提示しないということに尽きるんじゃないかと思います。
人助けをするのに、料金は相応しくない。人を助ける時に、困っている人を目の前にして、お前、助けて欲しいならこの料金、メニューの中から選べ、ということを言う人はいません。困っている人がいたら、何よりもまず助けてあげるわけじゃないですか。助けてあげた後で、助けてもらった側がお礼をするわけでしょう。それが本来のお坊さんの役割だと思ってます。そこの部分がない限り、私はどんなに宗教活動だ宗教活動だと言っても、将来的には必ず課税の問題が入ってくると思います。
宗教法人の所得に対して法人税をかけるようになる時に、信者さんが本気になって異を唱えてくれるかどうか。信者さんがお坊さんのお布施の代金が高いとか、戒名料が高いとか不満を持っているとします。そしたら、味方になってくれないと思います。いや、お寺からも税金を取るべきだとみんな言うかもしれません。そうなったら、もう守ってくれる人はいなくなる。
宗教は、本来は営利事業じゃないはずです。教えを慕って人々が集まって、教えを授かってみんな満足するわけです。自分が困っている時にその教えに勇気づけられた、或いは、心の支えになってくれてありがとうございました、このお寺が自分にとって必要なんです、と心を込めてお金を差し出す。これが本来の宗教、信仰サービスのやりとりだと思います。現在そういった信仰のあり方を考える上で、教えを授かることは自分にとってどういう意味があるのかを、きっちりと伝えていく必要があるだろう、と思うんです。
私は浄土宗の教えについて本を読んで勉強したと言いましたが、仏様はこんな偉大な存在で、自分はちっぽけな存在です、人間は凡夫ですと。だけど、今の世の中で自分を凡夫だと思っている人なんているでしょうか。殆どの人は凡夫だと思われないように頑張って、競争しているわけですよね。だけど、そういう競争をして何になるんですか、最終的には虚しくなる所に行き着くだけですよ、と教えることも宗教の一つの役割でしょう。頑張って働いて稼いだ結果、何が待っているのかということも教えていかないといけない。
私が浄土の教えを理解したのは、アダム・スミスの「見えざる神の手」という話です。一人ひとりが自分の利益のために、満足のために行動した結果として、見えざる神の手に導かれてみんな幸せになれるんだ、とアダム・スミスは言ったんです。だけどその発想は、ただ単にみんなが欲望を追求して、がむしゃらに働いて、営利のためだけに活動すれば世の中うまくいく、という所でとどまっていい発想じゃないと思います。もう一段階上があるんじゃないか。つまり、そういうことをやっても、所詮は神の見えざる手に導かれて動いているだけだと。これは仏様の偉大な手に導かれて我々が動いている、という発想と通じる部分だと私は思うんです。
結局なぜ心が疲れてしまうかと言ったら、働いて働いていろんなストレスが溜まってくるけれども働いて、ということでしょう。回りの人が評価してくれるから働かなきゃ、となってくるわけですよね。そうやって、自分で自分を追い込んでしまっている人達って大勢いると思うんです。ちょっと事業が傾いてくると、自分の評判が下がるから、前よりもっと働かなきゃいけない、と思う。そうやって心の病に蝕まれていくわけです。そういう時に、お金が儲かっても、神の見えざる手、つまり仏様の手に導かれて、たまたまその時うまくいったに過ぎないから、別にお前が偉いわけではない。逆に事業が駄目になったり、リストラされた時も、これはお前に能力がないわけじゃないんだ、たまたま不運が重なったり、仏様が、もうこの仕事をそろそろ辞めたらどうか、お前にもっと向いている仕事があるんじゃないか、と言ってくれてるんだと解釈する。そういう心の支えを提示していく、それが宗教であると。経済学の基本的な考え方も、最終的にはそこに行き着くだろうと思っています。そうでなかったら、何のために働くのかということになります。
豊さは限りはあるかといえば、限りはありません。年収が一千万になったら、今度は二千万、五千万、その次は一億、と際限なく欲望は膨らんでいきます。それで人間が果たしてどこまで幸せになれるんですか、という所まで突き詰めて考えていく、或いはそういうことを伝えていく。それは逆に失敗した時も、まあそれで別にお前が悪かったわけではないんだ、と伝えていく。
私は子供が二人いるんですけど、上の子供が生まれた時から脳性麻痺で、身体障害を持ってるんです。去年二十歳になりまして、自立した生活をしいてるんですが、一緒に暮らしている時は色々と心の葛藤というか、なんでこんな子が生まれたのか、自分だけがどうして、と惨めな思いをするわけです。それで、いつまでもこうやって世話をしなきゃいけないのかなあとか、おトイレの介助とかお風呂の介助とかして、面倒臭い、今日疲れてる、とか思う。その時に、自分の子供が出来ないことばっかりに目を向けていたんですけど、何かいいとこないのかな、と思って。いい所と悪い所って非常にこう表裏一体の所がありますよね。うちの子供は非常に向上心がない、一生懸命僕がリハビリやっても、あんまりやる気がないんですよね。もっと自分がああなりたい、こうなりたい、こういうものが欲しい、ということもあんまり言わないんです。欲がなくてしょうがないと思っていたんですよ。あるとき仏教の本を読んだら、欲を減らせって書いてあるんです。あ、これはすごい、うちの子供はもう仏だ、と思ったんですよ。もう悟りを開いてるんだと。まあ別に悟りを開いたわけじゃないんですけど(笑)。
元々そういう性格なんでしょうけど、欲が少ない人を、欲も向上心もなくてしょうがないなと思うか、これは非常に貴重な存在だ、欲が最初からなくて仏になってると思うかによって、回りの人の考え方ががらっと変わるんです。僕もそう思って、今まで面倒臭いと思って子供の身体を洗っていたんですが、これは仏様を綺麗にさせていただいてるんだ、と思うようにしたんです、自分で。なかなか大変なことなんです、そう思うのは。だけど、そう思うようにしただけで、少なくとも子供の身体を洗うこと自体は嫌ではなくなりました。面倒だとも思わなくなりました。欲が少ないのもいいかな、回りの人達に対して安らぎを与えているかな、と思うようになりました。そういう発想の転換というものを、宗教はやってくれると思ったんです。仏教の教えはまさにそれで、仏教は別に子供の障害を治してくれたわけじゃありません。歩けるようにしてくれたわけじゃない。だけど、自分の心の持ちようを変えてくれたんです。そのことによって、私自身が救われた。同時に子供も救われてると思います。何故かと言ったら、私が親として、もっと欲を出せ、もっと頑張れ、もっとリハビリを一生懸命やれ、と言ったら、本人にとってはおそらく苦痛でしょう。これは、本人の意志に反することですよね。僕がそういう発想からやるんじゃなくて、あくまで彼を仏様、完全な仏様ってわけじゃないですけど、彼を主体に考えてあげることによって、僕も救われて本人も救われた。そういう役割を果たすのが宗教かな、という感じがしたんです。そういう点でいくと、仏教の考え方というのは素晴らしいなと。
いろんな所にいろんなニーズって転がっているんです。だけど、そういうニーズというのは非常に個人レベルの話なので、家族全体として考えたら、お坊さん達もお葬儀の時にみんな集まって大勢いるわけですよね。その時に、法話をされるわけです。その時はどうしても一般的な話になってしまう。一般的な話は、もう少し個別、個人レベルに下りていった時に、あ、この子に対してはこういうお話をしてあげたらいい、こういう状況に置かれた人にはこういうお話をしてあげれば救われるんだろうな、というケースがたくさんあると思います。僕はそういう個人レベルに教えが浸透していくことが、最終的には繋がりを生んでいくと思うんです。
個人化というのは、決して個人個人がバラバラになることじゃないと思います。バラバラになるということは、生きていけない、ということを意味します。人間は、繋がってないと生きていかれない。そういうニーズは必ずあるんです。何によって繋がっているかがとても重要で、一人ひとりの信仰心を高めていって、形は違うけどいろんな所でお寺に繋がっている。お寺で繋がっている人達が一堂に会した時に、非常に強いまとまりが生まれると思うんです。僕自身は子供の障害を通して、ある人は自分の鬱病を通して、またある人は別のニーズに応じて、様々な人々が集ってくる。
今ものすごく自殺者が多くて、毎日のように人身事故が起きている。このような状況に対して、宗教家が発言をしていいと思うんです。自分達こそがそういう人達を救える、心の救済ができる、と。そういう人達に対して、こうなって困った時には、自分のお寺へいらっしゃいと。こうやってお話を聞いたらきっと心が救われますよ、ということを示していく。そういうニーズは、いろんな所に転がっていると思います。結果的にそういう人達が集まって、コミュニティを作っていくことは、望ましいコミュニティの力だと。それによって家族の絆が深まる可能性だってあるじゃないですか。今のようにお葬儀の時だけ形式的に集まって、というのではなく、自分から救いを求めてお寺に行く、そういう人達が結果として家族の構成員になっている、ということはとても素晴らしいことだと思います。
最後に、非常に現実的な話になるんですけど、宗派としての組織が、この教えをどう伝えていくか、或いは、戦略というものがあるかどうか、ということなんです。基本的に組織というものは、トップダウンとボトムアップの二種類から成り立っています。トップダウンはカリスマ的なトップがいて、隅々までその人の考え方を行き渡らせる。逆に、個々のお店、或いは事業所が頑張って、顧客に対するサービスを提供している会社もある。宗教の場合、どちらを目指すのか、ということなんです。どちらにしろ、メリット、デメリットがあるんです。
先ほど申し上げた浄土真宗の場合、沖縄で大変苦戦しています。何故沖縄で苦戦しているかというと、トップダウン式だから苦戦するわけですね。幾つかの教えがあって、これを絶対守らなければいけない。現世利益は一切駄目、となると沖縄ではまず駄目です。そうすると何時まで経っても信者さんは増えてこないです。増やすためにはものすごい長い時間が必要。そういった時に、ある程度は個々のお寺の、宗教法人の自主性を認めていくかということになるわけです。それを認めていくと、個々のお寺がバラバラになります。全体の宗派としてのまとまりが非常に少ない。だけども、頑張ってる所はものすごい信者さんが来て、お寺が栄えている、という風にやっていくか。それはもう個々のお寺のご住職次第なんだから、しょうがないでしょう、駄目になっちゃったお寺はもうしょうがないですね、となる。だけど、トップダウン式だと、お寺を新しく開きたいと言えば、宗派として資金援助もしなきゃいけない。お寺が財政的に苦しくなってきた、と言えば、ある程度は資金の再配分もしなきゃいけなくなるでしょう。宗派として、お寺を見捨てるわけにはいかない状況になってくる。
日蓮宗の教えを伝えていく、教化活動、布教活動をしていくうえで、どちらのやり方が望ましいのかな、ということを、ある程度考えなきゃいけないと思います。実際には、宗というものが存在して、宗務院や宗務庁というものがあって、そこで宗全体ことを考えているわけですよ。だとしたら、全体のことを考えてる所がどういう方針でいくか。戦略といってもいいんですけど、ある程度考えてこれからは布教活動をやっていかないと、なかなか難しいんじゃないかと思います。
ただ、先ほど申し上げましたように宗教が非常に個人化している状況で、トップダウン形式は非常に難しいかなと。だけども、教えを枉げるわけにはいかないから、地道にやってくしかない。地道にやってくというのは、最初に申し上げた賢い消費者を育てる、賢い信者さん、門信徒さんを育てていくことじゃないでしょうか。非常に時間は長くかかりますが。教えは簡単には伝わりませんから、地道に地道に伝えていって、その成果が十年後、二十年後になってやっと表れてくる、という形にするのか。それとももっと短期的に、いま目の前のニーズがあるんだからそれを汲み上げよう、という考え方ですね。それが現世利益であろうとも、とりあえず何でも構わないんだよ、という形でいくか。だとしたら、お寺はサービス業だ、と言われても仕方ないかも知れません。結局、神社がやってることと殆ど同じになっている。それでもニーズがあるんだから仕方がない話でしょう、となっていくわけですね。それを認めていくのかどうか。これは、宗派全体として考えていくべきだと思います。その時に経済学の立場から言えることは、市場性というのをどこまで取り入れていくか、ということになると思います。
市場は決して万能なものではない。だけど、市場は健全な消費者さえ作っておけば、ある程度ちゃんと機能するものです。悪い事業者は排除されていく。消費者の見る目は非常に鋭いわけですから、それに反したことをやっていては生き残れないわけです。だけど、市場に一〇〇%頼ることも大変なことです。これは、私がよく大学の授業で申し上げるんですが、普通の男女関係考えてみたって分かるでしょうと。市場がそんなに素晴らしいなら、なんで結婚するんですか。一〇〇%市場に頼るなら、その都度自分の好きなパートナーをナンパしてくればいいじゃないですか。今日はこの人、明日はこの人、と毎日繁華街に立って、女の人や男の人をお互いに選び合うわけです。これが市場です。だけどそんなのうまくいかないと分かっている、もう疲れる、中には得意な人もいるし、不得意な人もいるし。だから恋人を作るし、結婚もするわけです。それで、結婚が向かない人、市場性の強い人は、結婚はうまくいきません。自分が常にもてたいと思ってますから。だからやっぱり一人の奥さんだけじゃ満足できないんですね。ついつい他の女の人に関心を持ってしまう、ということもあるわけです。
市場性がどのくらい強くてうまくいくかというのは、その人が持っている性格というか、能力になっているわけです。もてない人ほど結婚というのが重要なんですよ。それがお寺さんと信者さんの関係にあるかも知れない。非常に、もてにくい宗派は、地道に信者を獲得していく必要があると思います。だけども簡単に人に気づいてもらえるというか、人を引きつけられるような教えだったら、それは市場性を取り入れてうまくいくかも知れません。だけど市場は怖い所ですから、すぐお客さんが逃げてしまう可能性もあります。男がもてるといったって、いつもてなくなるか分かりません。だけど、結婚すればおじさんになっても、おばさんになっても、お互いに一緒に暮らすことができるわけです。だからそういうことを考えて、これから信仰サービスをどういうように提供していくか、ということじゃないかな、と思っております。
結論と致しましては、テーマがお寺は生き残れるか、ということで、ニーズはある、ということです。それだけは、はっきり言えるんではないかと。だけども、そのニーズをどういう形でお寺が満たしていくか、という点に関しては、色々な方法があるということです。色々な方法があるけれども、ただ何もしなかったら絶対に滅びる、と。本にも書いたんですけど、いま日本には七万五千のお寺がある。宗教法人格を取っているわけです。沖縄は八千四百世帯に一ヶ寺と申し上げました。もし沖縄のようになっていくと、日本の七万五千のお寺のうち、七万が消えると、日本のお寺は五千になる。これが今、着々と進んでいる現実なんです。その現実を見た上で、ニーズのない所に事業者はあり得ない、という言葉をもう一度皆さん方に噛み締めていただければいいな、と思います。ということで、私の話を終わりにさせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)