ホーム > 資料室 > 日蓮聖人御直筆写本 > 貞観政要 > 〔附篇〕(初進本である写字臺本)

資料室

貞観政要 2000年01月 発行

〔附篇〕(初進本である写字臺本)

第一章

貞観の初、太宗、虞世南を引きて上客と為す。因りて文学館を開く。館中、号して多士と為す。咸、世南を推して文学の宗と為す。記室を授け、房玄齢と対して文翰を掌る。嘗て命じて列女伝を写し、以て屏風を装せしむ。時に本無し。世南、之を暗書し、一も遺失無し。〔▽八一七頁〕
累りに秘書監に拝せらる。太宗、其の博物を重んじ、機務の隙毎に、独り世南を引きて之と談論し、共に史籍を観る。古先帝王の政を為すの得失に論及し、毎に諷諌を存し、補益する所多し。〔▽八一九頁〕〔類似▽一三〇頁〕
又、嘗て上疏して曰く、臣聞く、冬*せん(せん)し秋狩するは、蓋し惟れ恒典なり。隼を射禽に従ふは、前誥に備はれり、と。伏して惟みるに、陛下、聴覧の余辰に因り、天道に順ひて以て殺伐す。将に斑を摧き掌を砕かんと欲し、親ら皮軒に御し、猛獣の窟穴を窮め、逸材を林薮に尽くす。凶を夷げ暴を翦り、以て黎元を衛り、革を収め羽を擢き、用つて軍器に充て、旗を挙げ獲を効し、式つて前古に遵ふ。然れども黄屋の尊、金輿の貴は、八方の徳を仰ぐ所、万国の心を係くる所なり。道を清めて行くも、猶ほ*銜けつ(がんけつ)を誡む。斯れ蓋し、重く慎みて微を防ぐは、社稷の為めにするなり。是を以て馬卿、前に直諌し、張昭、色を後に変ず。臣誠に微物、敢て斯の義を忘れんや。且つ矢孤星罩、殪す所已に多し。禽を頒ち獲を賜ふ、皇恩亦溥し。伏して惟みるに、時に猟車を息め、且く長戟を韜み、芻蕘の請を拒がず、*涓かい(けんかい)の流を降納し、袒裼徒搏は、之を群下に任ぜんことを。則ち範を百王に貽し、永く万代を光らさん、と。其の忠を納れ犯を宥むること、此の類多し。〔▽八一八-九頁〕〔類似▽七五七-八頁〕
太宗、是を以て益々之を親礼す。年老いて致仕を乞ふ。之を許す。学士は故の如し。高祖の晏駕するに及びて、太宗、喪を執ること礼に過ぎ、哀容*毀すい(きすい)し、久しく万機を替つ。百僚文武、計の出づる所無し。世南、因りて入りて進諌し、安危禍福を具陳し、哀情を寛譬す。後、復た封事もて進諌す。太宗、甚だ之を嘉納す。〔▽八一九-二〇頁〕
嘗て朝に臨みて称す。世南一人遂に五絶を兼ぬ。一に曰く博聞。二に曰く徳行。三に曰く書翰。四に曰く詞藻。五に曰く忠直。此に一有らば、名臣と謂ふに足る。而るに世南は之を兼ぬ。寧ぞ絶類に非ずや、と。尋いで卒す。太宗、之を悼み、哀を別次に挙げ、之を哭して甚だ慟す。喪事官給し、賜ふに東園の秘器を以てす。〔▽八二〇頁〕
魏王泰に手勅して曰く、世南の我に於ける、猶ほ一体のごときなり。遺を拾ひ闕を補ひ、日として暫くも忘るること無し。実に当代の名臣、人倫の準的なり。吾に小善有れば、必ず順ひて之を成し、吾に小失有れば、必ず顔を犯して之を諌む。今、其れ云に亡す。石渠・東観の中、復た人無し。痛惜豈に言ふ可けんや、と。〔▽八二一頁〕〔類似▽一三二頁〕
未だ幾くならずして、太宗、詩一篇を為り、往古の治乱の道を追思す。既にして歎じて曰く、鍾子期死して、伯牙復た琴を鼓せず。朕の此の篇、将た何の示す所ぞ、と。因りて起居郎*ちょ遂良(ちょすいりょう)をして、其の霊帳に詣り、読み訖りて之を焚かしむ。其の重んぜらるるや此の如し。〔▽八二一-二頁〕

第二章

貞観四年、太宗、隋日の禁囚を論ず。魏徴対へて曰く、臣、往に隋朝に在りしとき、曾て盗発の有るを聞く。煬帝、於士澄をして捕逐せしむ。但だ疑似有れば、苦だ拷掠を加ふ。枉げて俗と成る者、二千余人。竝びに同日に斬決せしむ。大理丞張元済、之を怪しむ、試みに其の状を尋ぬるに、乃ち六七人有り、盗発の日、先に他所に禁せられ、放たれて纔に出づれば、亦、推勘に遭ひ、苦痛に勝へず、自ら盗を行ふと誣ふ。元済、此に因りて更に究尋するを事とするに、二千人の内、惟だ九人のみ、逗留して明かならず。官人、諳識する者有り、九人の内に就きて、四人は賊に非ず。有司、煬帝が已に斬結せしめたるを以て、遂に執奏せず。竝びに皆之を殺せり、と。〔▽八二二-三頁〕
太宗曰く、直に煬帝の無道なるのみに非ず、臣下も亦心を尽くさず。須く匡諌して誅戮を避けざるべし。豈に惟だ諂佞を行ひ、苟くも悦誉を求むるのみなるを得んや。君臣、此の如くならば、何ぞ能く敗れざらんや。朕、公等が共に相輔助するに頼り、遂に囹圄空虚なるを得たり。願はくは、公等、始めを善くし終を令くすること、恒に今日の如くならんことを、と。〔▽八二四頁〕

第三章

貞観五年、隋の通事舎人鄭仁基の女、年十六七、麗、当時に妙絶す。文徳皇后、訪ひ求めて之を得、嬪御に備へんと請ふ。太宗乃ち聘して充華と為す。詔書已に出で、策使将に発せんとす。〔▽八二五頁〕
魏徴、其の父の康が已に陸氏に許嫁せりと曰ふを聞き、遽に進みて言ひて曰く陛下、民の父母と為り、万姓を子愛す。当に其の憂ふる所を憂へ、其の楽しむ所を楽しむべし。古より、有道の主は、百姓の心を以て心と為す。故に君、*臺しゃ(だいしゃ)に処れば、則ち民の棟宇の安有らんことを欲し、膏梁を食へば、則ち民の饑寒の患無からんことを欲し、嬪御を顧へば、則ち民の室家の歓有らんことを欲す。此れ人主の常道なり。〔▽八二六頁〕
今、鄭氏の女、已に人に許せり。陛下、之を取りて疑はず、顧み問ふ所無く、之を四海に播く。豈に民の父母為るの義ならんや。臣が伝聞せる許す所、或は未だ指的せざるも、然れども盛徳を虧損せんことを恐れ、情、敢て隠さず。君挙すれば必ず書す。願ふ所は特に神慮を留めんことを、と。〔▽八二七頁〕
太宗、之を聞きて大いに驚き、乃ち手詔して之に答へ、深く自ら克責し、遂に策使を停め、即ち女をして旧夫に還さしむ。左僕射房玄齢、中書令温彦博、礼部尚書王珪、御史大夫韋挺等、内外の朝臣咸云ふ、女、陸氏に適くを許せること、顕然の状無し。大礼既に行はる、中止す可からず、と。陸氏又、抗表して云ふ、其の父の康の在りし日、鄭家と還往し、時に資材を相贈遺すれども、初より婚姻の交接無し。親戚竝びに云へり。外人は知らずして、妄に此の語有り、と。大臣皆勧進す。〔▽八二八頁〕
太宗、是に於て、頗る以て疑を為し、魏徴に問ひて云く、群臣は或は旨に順ふ可きも、陸氏何為れぞ理に過ぎて分疎するや、と。徴曰く、臣以て之を度るに、其の意、識る可し。将に陛下を以て太上皇に同じくせんとす、と。太宗曰く、何ぞや、と。〔▽八二九頁〕
徴曰く太上皇初め京城を平ぐるや、辛処倹の婦を得、稍や寵遇を蒙る有り。処倹時に太子の舎人為り。太上、之を聞きて悦ばず、遂に東宮に令し、出して万泉県の令と為す。毎に戦懼を懐き、常に首領を全くせざらんことを恐れたり。陸爽以為へらく、陛下、今、容納すと雖も、陰に譴責を加へん、と。反覆して自ら陳する所以は、意、此に在り。怪みを為すに足らず、と。〔▽八二九-三〇頁〕
太宗笑ひて曰く、外人の意見、或は当に此の如くなるべし。然れば則ち朕の言ふ所、未だ人をして必ずしも信ぜしむること能はず、と。乃ち勅を出して曰く、今聞く、鄭氏の女、先に已に人の礼聘を受けたり、と。前に文書を出せるの日、事、詳審ならざりしは、此れ乃ち朕の不是にして、亦、有司の過なり。充華を授くる者は宜しく停むべし、と。之を聞く者、聖明の主と称せざるは莫し。〔▽八三〇-一頁〕
※『平家物語』巻六、『太平記』巻十八、『源平盛衰記』巻二五、等に引用あり。

第四章

貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、太子の大保は、古より其の選を難しとす。成王幼少なりしとき、周邵を以て保伝と為し、左右皆賢にして、以て仁を長ずるに足り、理、太平を致し、称して聖主と為す。秦の胡亥に及びては、始皇の愛する所にして、趙高を伝と作し、教ふるに刑法を以てす。其の簒ふに及びてや、功臣を誅し、親戚を殺し、酷烈なること已まず。踵を旋らして亦亡ぶ。此を以てして言へば、人の善悪は、誠に近習に由る。朕、弱冠の交遊は、惟だ柴紹・竇誕等のみ。人と為り、既に三益に非ず。朕が茲の宝位に居り、天下を経理するに及びて、尭禹の明に及ばずと雖も、孫皓、高緯の暴を免るるに庶し。此を以てして言へば、復た染に由らざるは何ぞや、と。〔▽八三二-三頁〕〔類似▽二七七-八頁〕
魏徴進言して曰く、中人は、与に善を為す可く、与に悪を為す可し。然れども上智の人は、自ら染まる所無し。陛下、命を受くること天よりし、冦乱を平定し、万民の命を救ひ、理を升平に致す。豈に紹誕の徒、能く聖徳を累はさんや。但だ伝に云ふ、鄭声を放ち、佞人を遠ざけよ、と。近習の間、尤も深く慎む可し、と。太宗、善しと称す。〔▽八三四頁〕

 

第一章

貞観三年、詔有りて、関中は二年の調税を免じ、関東は給復すること一年。尋いで勅有り、已に役し已に治むるは、竝びに輸納し了らしめ、明年総べて為めに準折せしむ。給事中魏徴、上書して諌めて曰く、臣伏して八月九日の詔書を見るに、率土、皆給復すること一年、老幼相歓び、或は歌ひ且つ舞ふ。又聞く、勅有りて、丁已に役を配せるは、即ち役をして満たしめ、折造の余物も、亦、輸し了らしめ、明年に至るを待ちて、総て為めに準折せしむ、と。道路の人、咸、望む所を失ふ。此れ誠に万姓を平分し、七子を均同にす。但だ下民は与に始を図り難し。日を用ひて知らず。皆、以て国家、前言を追悔し、其の徳を二三にすとせん。〔▽八三五頁〕
臣竊かに聞く、天の輔くる所の者は仁なり。人の助くる所の者は信なり、と。今、陛下、初めて大宝に膺り、億兆、徳を観る。始めて大号を発し、便ち二言有り。八表の疑心を生じ、四時の大信を失ふ。縦ひ国家、倒県の急有りとも、猶ほ必ず不可なり。況んや泰山の安きを以てして、輒ち此の事を行ふ。陛下の為めに此の計を為す者は、財利に於ては少しく益するも、徳義に於ては大いに損す。臣誠に智識浅短なるも、竊かに陛下の為めに之を惜む。伏して願はくは少しく臣が言を覧て、詳かに利害を択ばんことを。冒昧の罪は、臣の甘心する所なり、と。〔▽八三七頁〕
簡点使出づ。右僕射封徳彝等、竝びに中男の十八已上を、簡取して軍に入れんと欲し、勅三四たび出づ。徴、執奏して以て不可なりと為す。徳彝重ねて奏す、今、簡点使を見るに云ふ、次男の内に、大いに壮なる者有り、と。太宗怒りて、乃ち勅を出して、中男已上、未だ十八ならずと雖も、身形壮大なるは亦取らしむ。徴、又、従はず、勅に署するを肯んぜず。〔▽八三八頁〕
太宗、徴及び王珪を召し、色を作して之を待ちて曰く、中男若し実に小ならば、自ら点して軍に入れず。若し実に大ならば、是れ其れ詐妄なり。式に依りて点取すること、理に於て何ぞ嫌はん。君過ぎて此の如きの固執を作す。朕、公の意を解せず。〔▽八三八-九頁〕
徴、色を正しくして曰く、臣聞く、沢を竭くして漁するは、魚を得ざるに非ざれども、明年、魚無し。林を焚きて畋するは、獣を獲ざるに非ざれども、明年、獣無し。若し次男已上、尽く点して軍に入れば、租賦雑徭、将た何に給を取らん。且つ比来、国家の衛士、攻戦するに堪へざるは、豈に其の少きが為めならんや。但だ礼遇の所を失ふが為めに、遂に人をして戦ふ心無からしむ。若し多く点して人を取り、還って雑使に充てば、其の数多しと雖も、遂に是れ用無からん。若し壮健を精簡し、之を遇するに礼を以てすれば、人、其の勇を百にせん。何ぞ必ずしも多きに在らん。陛下毎に云ふ、我の君為る、誠信を以て物を待し、官人百姓をして、竝びに矯偽の心無からしめんと欲す、と。登極より已来、大事三数、皆是れ不信なり。復た何を以てか信を人に取らん、と。〔▽八三九-四〇頁〕
太宗愕然として曰く、云ふ所の不信とは、是れ何等ぞや、と。徴曰く、陛下初めて即位せしとき、詔書に曰く、逋租宿債、欠負の官物、竝びに悉く原免す、と。即ち所司に命じ、列して事條を為さしむ。秦府の国司も、亦、官物に非ずとす。陛下、秦王より天子と為る。国司、官物為らずんば、其の余の官物、復た何の有る所ぞ。〔▽八四〇-一頁〕
又、関中、二年の租調を免じ、関外は給復すること一年、百姓、恩を蒙り、忻悦せざるは無し。更に勅有りて云ふ、今年は白丁已に多く役し訖る。若し此より放免せば、便ち是れ虚しく国恩を荷はん。若し已に折し已に輸するは、竝びに総て納使し了らしめ、免ずる所の者は、皆、来年を以て始と為さん、と。散じ還るの後、方に更に徴収す。百姓の心、怪しむ無きこと能はず。已に徴して物を得、便ち点して軍に入れ、来年を始めと為さば、何の信を取る所あらん。又、共理の寄する所は、県令・刺史に在り。平常の検閲は、竝びに悉く之を委ぬ。簡点するに至りて、即ち其の詐偽を疑はば、下の誠信を望まんこと、亦難からずや、と。〔▽八四一-二頁〕
太宗曰く、我、君が固く執りて已まざるを見、君が此の事に蔽はるるかと疑へり。今、国家の不信を論ぜるは、廼ち是れ人情に通ぜり。我等、思はず、過ち亦甚だし。行事、往往にして此の如く錯まらば、天下、若為ぞ理を致さん、と。乃ち中男を取るを停め、徴に金甕一口を賜ひ、王珪に絹五十匹を賜ふ。〔▽八四三頁〕
※『平家物語』巻七、『源平盛衰記』巻三十

第二章

貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、義寧の初、国家、関中を有つと雖も、王充・李密は、若ち一遇に拠る。此の日に当りて、諸君の事ふる所の主は、誰か優、誰か劣なるや、と。載冑奏称す、王充は言議分明なれども、繁にして要寡し。理を為すには但だ一時の利を求めて、甚だしく其の後図を思はず、と。魏徴対へて曰く、李密は智計英抜なれども、器局褊小なり、と。〔▽八四四頁〕

第三章

貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、君為ること極めて難し。若し、法、急なれば善人を濫さんことを恐る。法、寛なれば、即ち*奸き(かんき)を粛せず。寛猛の間、若為にして折衷せん、と。魏徴奏称して曰く、古より理を為すには、時に因りて教を設く。若し、人情、急に似たれば、則ち之を済ふに寛を以てし、若し、寛慢有れば、則ち之を糾すに猛を以てす。時既に恒ならず、法令定まること無し、と。〔▽八四五頁〕
太宗又曰く、朕、常に数種の事を思ふ。古より、但だ天下を有つ者は、皆、子孫万世にして、理道、尭舜よりも過ぎんことを欲す。其の行ふ所に及びては、即ち尭舜と相反す。秦の始皇の如きは、亦是れ英雄の主なり。六国を平定するの已後、纔に其の身を免るるも、子に至つて便ち其の国を失ふ。桀紂・幽(ゆうれい)も、亦皆、己を喪ふ。朕、此が為めに誡懼せざるを得ず。且つ天下の百姓、目を傾け耳を側てて、唯だ朕一人の善悪を看る。豈に思量せざるを得んや、と。〔▽八四六頁〕
魏徴奏称す、古より以来、人君を難しと為す。祇だ言を出せば即ち善悪と成るが為めなり。若し、人君、言を出し、己の過ちを聞かんと欲せば、其の国即ち興る。若し言を出し、人をして己の志に従はしめんとせば、其の国即ち喪ぶ。古人云ふ、一言以て邦を興す可く、一言以て邦を喪ぼす可し、とは、正しく当に此が為めなるべし。但だ天下の人は皆自ら陛下に進め、以て其の身を栄えしむ。正人の若きは即ち正道を以て自ら進めんと欲し、佞人は即ち邪道を以て自ら媚び、工巧の者は則ち奇巧異器を進め、鷹犬を好む者は、即ち勧めて田遊せしめんと欲す。自ら進めんと欲する所の者は、非為るを覚らず、皆、己を是なりと言ふ。陛下、正道を守れば、即ち奸人、自ら効すこと能はず。如し其の路を開かば、則ち邪佞、其の心を遂げんと欲す、と。太宗曰く、此の事は誠に卿の言ふ所の如し、と。〔▽八四六-七頁〕

第四章

貞観四年、太宗、毎に従容として古よりの理政の得失を論ず。因りて曰く、当今大乱の後、造次に理を致す可からず、と。給事中魏徴曰く、然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕溢、驕溢なれば則ち乱を思ふ。乱を思へば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち理を思ふ。理を思へば則ち教化し易し。然らば則ち乱後の教へ易きは、猶ほ飢人の食し易きがごときなり、と。太宗曰く、善人、邦を為むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去るといふ。大乱の後、将に理を致すを求めんとす。寧ぞ造次にして臨む可けんや、と。〔▽八四六-七頁〕〔類似▽七三頁〕
徴曰く、此れ常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施すや、上下、心を同じくす。民応ずること響きの如し。疾からずして速かなり。朞月にして可なること、信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶ほ其の晩きを謂ふ、と。太宗、深く其の言を納る。〔▽八四九頁〕〔類似▽七四頁〕
封徳彝等咸共に之を非として曰く、三代の以後、民漸く澆訛なり。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑ふ。皆、理を欲すれども能はず。豈に理を能くすれども欲せざらんや。魏徴は書生、時務を識らず。若し其の虚偽の論を信ぜば、必ず国家を敗乱せん、と。〔▽八四九-五〇頁〕〔類似▽七四-五頁〕
徴曰く、五帝・三王は、民を易へずして理まる。帝道を行へば則ち帝なり。王道を行へば則ち王なり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱るること甚し。既に勝つの後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱り、*せんぎょく(せんぎょく)、之を征す。既に克つの後、其の理を失はず。桀、乱虐を為して、湯、之を放く。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王、之を征す。成王の世、亦太平を致せり。若し、民漸く澆訛にして、純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅魍魎と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや、と。封徳彝等、以て之を難ずる無し。然れども咸以て不可なりと為す。〔▽八五〇頁〕〔類似▽七六頁〕
太宗、力行して倦まず。三数年の間に、契丹・靺鞨、竝びに皆内附し、突厥破滅し、部落列して編戸と為る。太宗毎に群臣に謂ひて曰く、貞観の初、人皆、異論して云ふ、当今は必ず帝王道を行ふ可からず、と。唯だ魏徴のみ、我に勧めて已まず。朕、其の言に従ひ、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧に、遠戎賓服するを得たり。突厥は、万代以来、常に中国の勍敵為り。今、頭首竝びに刀を帯びて宿衛し、部落、皆衣冠を襲す。我をして干戈を動かさず、数年の間、遂に此に至らしめしは、皆魏徴の力なり、と。〔▽八五一頁〕〔類似▽七七-八頁〕
又、顧みて徴に謂ひて曰く、玉は美質有りと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、君の切磋する所と為る。朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てす。朕をして功業を以て此に至らしむ。君も亦良工と為すに足る。唯だ恨むらくは、封徳彝をして之を見しむるを得ざることを、と。〔▽八五一-二頁〕〔類似▽七九頁〕
徴再拝して謝して曰く、匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下の盛徳の加はる所にして、実に群下の力に非ず。臣、但だ身、明世に逢ふを喜び、敢て天の功を貪らず、と。太宗曰く、朕能く卿に任じ、委ぬる所に称ふ。其の功独り朕に在らんや。卿何ぞ飾譲を煩はさん、と。〔▽八五二頁〕〔類似▽七九頁〕

第五章

貞観五年、治書権万紀、侍御史李仁発、倶に告訐譖毀を以て、数々引見を蒙る。遂に心に任せて弾射し、其の欺罔を肆にす。在上をして震怒し、臣下をして以て自ら安んずる無からしむ。外内、其の不可なるを知れども、能く論争するもの莫し。〔▽八五三頁〕
給事中魏徴、色を正しくして之を奏して曰く、権万紀・李仁発は、竝びに是れ小人にして、大体を識らず、譖毀を以て忠と為し、告訐を直と為す。凡そ弾射する所、皆、罪有るに非ず。陛下、其の短なる所を掩ひ、其の一切を収む。乃ち其の姦計を騁せ、下を讃し上を罔ひ、多く無礼を行ひ、以て強直の名を取る。玄齢を誣ひ、張亮を斥退す。粛(しゅくれい)する所無く、徒らに聖明を損ず。道路の人、皆、謀議有り。〔▽八五三-四頁〕
臣伏して聖心を度るに、必ず其の謀慮深長を以て、委ぬるに棟梁の任を以てす可しとせず、将に其の避忌する所無きを以て、以て群臣を警(けいれい)せんと欲せんとするならん。若し回邪を任使するは、猶ほ小を以て大を謀る可からず。群臣は素より矯偽無し。空しく上下をして心を離さしむ。玄齢・亮の徒すら、猶ほ其の枉直を伸ぶるを得可からず。其の余の疏賎、孰か能く其の欺誣を免れん。〔▽八五四-五頁〕
伏して願はくは、陛下、神を留めて再思せんことを。二人を駆使してより以来、一事の弘益有らば、臣即ち斧鉞に甘心し、不忠の罪を受けん。陛下、縦ひ未だ善を挙げて以て徳を嵩くする能はずとも、豈に姦を進めて自ら損す可けんや、と。〔▽八五五頁〕
太宗、欣然として之を納れ、絹五百匹を賜ふ。其の万紀等、又姦状漸く露はれ、仁発は解黜せられ、万紀は連州司馬に貶せらる。朝廷相慶ぶ。〔▽八五六頁〕

第六章

貞観六年、人尚書右丞徴を告げて、其の親戚に阿黨すと言ふ者有り。太宗、御史大夫温彦博をして其の事を案験せしむ。乃ち告ぐる者、直ならず。彦博奏称す、魏徴既に人臣為れば、須く形迹を存すべし。嫌疑を遠避する事能はずして、人の道ふ所と為る。情、私無きに在りと雖も、亦、責め有る可し、と。遂に彦博をして徴に謂はしめて曰く、爾、我を諌正すること凡そ数百條、豈に小事を以て、便ち衆義の美を損ぜんや。然れども今より以後、形迹を存せざるを得ず、と。〔▽八五七頁〕
居ること数日、太宗、徴に問ひて云く、昨来、外に在りて、何の不是の事有るを聞ける、と。徴、色を正しくして曰く、前日、彦博をして勅を宣して臣に語げしめて、何に因りて形迹を作さざるや、と云ふ。此の言大いに不是なり。臣聞く、君臣は叶契、義、一体に同じ、と。未だ公道を存せずして、惟だ形迹を事とするを聞かず。若し君臣上下、同じく此の路に遵はば、則ち邦の興喪、或は未だ知る可からず、と。太宗、瞿然として容を改めて曰く、前に此の語を発し、尋いで已に之を悔ゆ。実に大いに不是なり。公も亦、此の事に因りて、遂に隠避を懐くことを得ざれ、と。〔▽八五八頁〕
徴乃ち拝して言ひて曰く、臣、身を以て国に許し、道を直くして行ふ。必ず敢て欺負する所有らず。但だ願はくは陛下、臣をして良臣と為らしめよ。臣をして忠臣と為らしむること勿れ、と。太宗曰く、忠良、異なること有りや、と。徴曰く、良臣は、稷・契・*咎よう(こうよう)、是なり。忠臣は、龍逢・比干、是なり。良臣は、身をして美名を獲しめ、君をして顕号を受けしめ、子孫、世に伝へ、福禄、疆無し。忠臣は、身、誅夷を受け、君、大悪に陥り、国家竝びに喪び、独り其の名有り。此を以てして言へば、相去ること遠し、と。太宗曰く、君但だ此の言に違うこと莫れ。我必ず社稷の計を忘れざらん、と。乃ち絹三百匹を賜ふ。〔▽八五九頁〕

第七章

貞観七年、蜀王の妃の父楊誉、省に在りて婢を競ふ。都官郎中薛仁方、身を留めて勘問す。未だ与奪に及ばず。其の子、千牛為り、殿庭に於て陳訴して云ふ、五品已上は、反逆に非ざれば、合に身を留むべからず。是れ国親なるを以て、故らに節目を生じ、敢て断結せず。歳年を淹歴す、と。太宗、之を聞き、大いに怒りて曰く、是れ我の親戚なるを知りて、故らに此の如きの艱難を作す、と。即ち令して仁方を杖つこと一百、任ずる所の官を解かしむ。〔▽八六一頁〕
侍中魏徴曰く、城狐社鼠は、皆是れ微物なり。其の憑恃するところ有るが為めに、故に之を除くこと易からず。況んや外戚・公主は、旧、理め難しと号す。漢晋以来、能く禁禦するもの莫し。武徳の中、以に驕縦多し。陛下登極し、方に始めて粛然たり。仁方は既に是れ職司、能く国家の為めに法を守る。豈に横に厳罰を加へ、以て外戚の私を成す可けんや。此の源一たび開かば、万端争ひ起らん。後必ず之を悔ゆるも、将に及ぶ所無からんとす。古より、能く此の事を禁断するは、惟だ陛下一人のみ。不虞に備豫するは、国を為むるの道なり。豈に水の未だ横流せざるを以て、便ち自ら*てい防(ていぼう)を毀らんと欲す可けんや。臣竊かに思ひ度るに、未だ其の可なるを見ず、と。〔▽八六二頁〕
太宗曰く、誠に公の語の如し。向者には思はざりき。然れども仁方は輒ち禁じて言はず。頗る是れ専擅なり。重罪に合せずと雖も、宜しく少しく懲粛を加ふべし、と。乃ち杖たしむること二十にして之を赦す。〔▽八六三頁〕

第八章

貞観八年、左僕射房玄齢、右僕射高士廉、路に於て少府監竇徳素に逢ひ、北門、近来、更に何の営造有るか、と問ふ。徳素、以て聞す。太宗乃ち玄齢等に謂ひて曰く、君は但だ南牙の事を知るのみ。我が北門少しく営造すること有るも、何ぞ君が事に預らん、と。玄齢等拝謝す。〔▽八六四頁〕
魏徴進言して曰く、臣、陛下の責むるの意を解せず。亦、玄齢・士廉が拝謝するの意を解せず。玄齢既に大臣に任ぜらる。即ち陛下の股肱耳目なり。営造する所有らば、何ぞ知らざる容けんや。其の官司に訪問するを責むるは、臣が解せざる所なり。〔▽八六四頁〕
且つ為す所に利害有り、功を役するに多少有り。陛下の為す所、若し是ならば、当に陛下を助けて之を成すべし。為す所、是ならざれば、已に営造すと雖も、当に陛下に奏して之を罷むべし。此れ乃ち、君、臣を使ひ、臣、君に事ふるの道なり。玄齢等が問ひしこと既に罪無し。而るに陛下之を責む。玄齢等守る所を識らず、但だ拝謝するのみを知る。臣、亦、解せず、と。太宗深く之を愧づ。〔▽八六五頁〕

第九章

貞観八年、是より先、桂州の都督李弘節、清慎を以て聞ゆ。身没するの後に及びて、其の家、珠を売る。太宗、之を聞き、乃ち朝に宣して曰く、此の人、生平、宰相、皆、其の清きを言へり。今日既に然り。挙ぐる所の者、豈に過無きを得んや。必ず当に深く之を理むべし。捨つ可からざるなり、と。〔▽八六六頁〕
侍中魏徴、間を承けて言ひて曰く、陛下、生平、此の人濁ると言ふも、未だ財を受くるの所を見ず。今、其の珠を売るを聞き、将に挙ぐる者を罪せんとす。臣、謂ふ所を知らず。聖朝より以来、国の為めに忠を尽くし、清貞慎守、終始、渝らざる者は、屈突通・張道源のみ。通の子三人来選せしとき、一匹の羸馬有り。道源の兒子は、存立すること能はず。未だ一言の之に及ぶを見ず。〔▽八六七頁〕
今、弘節、国の為めに功を立て、前後、大いに賞賚を蒙る。官に居りて終歿し、貧賎なるを言はず。妻子、珠を売るは、未だ罪有りと為さず。其の清き者を審かにするも、存問する所無く、其の濁る者を疑ひて、旁ら挙人を責む。悪を疾むの情深し、と云ふと雖も、実に亦、善を好むこと篤からず。臣竊かに思ひ度るに、未だ其の可なるを見ず。恐らくは有識之を聞かば、必ず横議を生ぜん。伏して願はくは心を留めて再思せんことを、と。〔▽八六八頁〕
太宗、掌を撫ちて曰く、造次、思はず、遂に此の語有り。方めて談の容易ならざるを知る。竝びに之を問ふ勿れ。其れ屈突通・張道源の兒子には、宜しく各々一官を与ふべし、と。〔▽八六九頁〕

第十章

貞観九年、北蕃より帰朝せる人奏称す、突厥の内大いに雪ふり、人饑ゑ、羊馬竝びに死す。中国の人の彼に在る者、皆、山に入りて賊を作し、人情大いに悪し、と。太宗、侍臣に謂ひて曰く、古来の人君を観るに、仁義を行ひ、賢良に任ずれば則ち理まり、暴乱を行ひ、小人に任ずれば則ち敗る。突厥の信任する所の者は、竝びに公等と共に之を見るに、略々忠正なる者無し。頡利、復た百姓を憂へず、情の為す所を恣にす。朕、人事を以て之を観るに、亦何ぞ久かる可けんや、と。〔▽八六九-七頁〕
魏徴進みて曰く、昔、魏の文侯、里克に問ふ、諸侯誰か先づ亡びん、と。克曰く、呉先づ亡びん、と。文侯曰く、何が故ぞ、と。克曰く、数々戦ひ数々勝つ。数々戦へば則ち民疲れ、数々勝てば則ち主驕る。驕を以て疲民を馭す。亡びずして何をか待たん、と。頡利、隋末の中国の喪乱に逢ひ、遂に衆を恃みて内侵し、今尚ほ息まず、此れ必ず亡ぶるの道なり、と。太宗深く此れを然りとす。〔▽八七〇-一頁〕

第十一章

貞観十年、越王は、長孫皇后の生む所、太子の介弟にして、聡敏絶倫、太宗の特に寵異する所なり。貴要、数々三品已上、皆、王を軽蔑す、と言ふ者有り。意、侍中魏徴等を譖毀するに在り、以て太宗を激怒す。〔▽八七二頁〕
太宗、斉政殿に御し、三品已上を引きて入れ、坐定まる。大いに怒り色を作して言ひて曰く、我、一言有り、公等に向ひて道はん。往前の天子は、是れ天子。今時の天子は、天子に非ずや。往前の天子の兒は、是れ天子の兒。今日の天子の兒は、天子の兒に非ずや。我、隋家の諸王を見るに、達官一品以下、皆、其の躓頓を被るを免れず。我の兒子は、自ら其の縦横を許さず、公等何ぞ過ぎて共に相軽蔑するを得容けんや。我若し之を縦さば、豈に公等を躓頓する能はざらんや、と。房玄齢等戦慄し、起ちて皆拝謝す。〔▽八七二-三頁〕
魏徴、色を正して諌めて曰く、当今、群臣、必ず敢て越王を軽んずる者無し。然れども礼に在りて、臣子は一礼なり。伝に称す、王人は微なりと雖も、諸侯の上に列す、と。諸侯、之を用ひて公と為せば即ち是れ公、之を用ひて卿と為せば即ち是れ卿なり。若し公卿と為らざれば、即ち下土の諸侯なり。今、三品已上は、列して公卿と為り、竝びに天子の大臣にして、陛下の礼を加へて敬異する所なり。縦ひ其れ小しく不是有りとも、越王何ぞ軽々しく折辱を加ふ容けんや。〔▽八七四頁〕
若し国家の綱紀廃壊せば、臣が知らざる所なり。当今聖明の時を以て、越王豈に此の如くなるを得んや。且つ隋の高祖は礼義を知らず。諸王を寵樹し、無礼を行はしめ、尋いで罪を以て黜く。国を為むるの礼法を知らず。亦、何ぞ道ふに足らんや、と。〔▽八七三-四頁〕
太宗、其の言を聞き、喜、色に形はれ、群臣に謂ひて曰く、凡そ人の言語、理到れば、服せざる可からず。朕が言ふ所は、当身の私愛なり。魏徴が道ふ所は、国家の礼法なり。朕向者に忿怒し、自ら理在りと謂ひて疑はざりき。魏徴が論ずる所を見るに及びて、始めて大いに道理に非ざるを覚る。人君と為りては、言何ぞ容易ならんや、と。房玄齢等を召して之を切責し、魏徴に絹一千匹を賜ふ。〔▽八七五頁〕

第十二章

貞観十一年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、昨、懐州に往きしとき、封事を上る者有りて云ふ、何為すれぞ恒に山東の衆丁を差して、苑内に於て営造する。即日の徭役は、隋の時に下らざるに似たり。懐洛以東、凋残し、人、命に堪へず。而るに田猟尤ほ数々なるは、驕逸の主なり。今者復た懐州に来りて遊畋す、恐らくは復た洛陽に至るを得ざらん、と。〔▽八七六頁〕
夫れ四時の蒐田は、既に是れ帝王の常礼なり。今者懐州、秋豪も百姓を干さず。凡そ上書諌争するは、自ら常礼有り。臣は辞有るを貴び、主は能く改むるを貴ぶ。斯の如く詆毀するは、呪詛するに似たる有り、と。〔▽八七七頁〕
侍中魏徴、奏称す、国家、直言の路を開く、封事を上る者極めて多き所以なり。陛下親しく自ら披閲し、或は片言の取る可からんことを冀ふ。徼幸の士、醜辞を肆にするを得る所以なり。臣、其の君を諌むるには、甚だ須く折衷して、従容として諷諌す合し。〔▽八七七-八頁〕
漢の元帝、常て宗廟に酎祭し、便門を出で、楼船に御せんとす。御史大夫薛広徳、乗輿の前に当りて冠を免ぎて頓首して曰く、宜しく橋よりすべし。陛下、臣を聴かずんば、臣、自刎して頚血を以て車輪を汗さん。陛下廟に入らざらん、と。元帝、悦ばず。光禄勲張猛、進みて曰く、臣聞く、主聖なれば臣直なり、と。船に乗るは危く、橋に就くは吉なり。聖主は危きに乗ぜず。広徳の言、聴く可し、と。元帝曰く、人を暁すこと、当に此の如くなるべからざらんや、と。乃ち橋よりせり。此を以てして言へば、張猛は能く其の君を諌むと謂ふ可きなり、と。〔▽八七八-九頁〕

第十三章

貞観十一年、太宗、侍臣魏徴に謂ひて曰く、比来行ふ所、得失政化、往前に何如、と。徴対へて曰く、威の加はる所、遠夷朝貢するが若きは、貞観の始に比すれば、等級して言ふ可からず。徳義潜く通じ、民心悦伏するが若きは、貞観の初に比すれば、相去ること又亦甚だ遠し、と。〔▽八八〇頁〕
太宗曰く、遠夷来服するは、応に徳義の加はる所に由るべし。徳義加はらざれば、往前の功業、何に因りてか大なるを得ん、と。徴曰く、昔者、四方未だ定まらざるや、常に徳義を以て心と為せり。海内虞無きを以て、漸く更に驕奢自ら溢す。功業盛んなりと雖も、終に是れ往初に如かざる所以なり、と。〔▽八八〇-一頁〕
太宗曰く、今日の行ふ所、往前と何をか異なれる、と。徴曰く、貞観の初、人の言はざらんことを恐れ、之を導きて諌めしむ。三年已後、人の諌争を見て、悦びて之に従ふ。一二年より来、人の諌むるを悦ばず、*俛びん(べんびん)して聴受すと雖も、而も終に疑難の色有り、と。〔▽八八一頁〕
太宗曰く、何事に於て此の如くなる、と。徴曰く、即位の初め、元律師を死罪に処す。孫伏伽諌めて曰く、法、死に至らず。濫に酷罰を加ふ容き無し、と。遂に賜ふに蘭陵公主の園の、直銭百万なるを以てす。人或は曰く、言ふ所は乃ち常にして、而も称する所は太だ厚し、と。答へて云く、我即位より来、未だ諌むる者有らず、之を賞する所以なり、と。此れ之を導きて言はしむるなり。〔▽八八二頁〕
徐州の司戸柳雄、隋の資に於て妄に階級を加ふ。人、之を告ぐる者有り。陛下、其をして自首せしむ。首せずんば罪を与えん、と。遂に固く是れ実なり、と言ひ、竟に敢て首せず。大理、推して其の偽りなるを得、将に雄を死罪に処せんとす。少卿載冑奏す、法は止だ徒に合す、と。陛下曰く、我已に其に断当を与え訖れり。但だ当に死罪を与ふべし、と。冑曰く、陛下、既に然せずして、即ち臣法司に付す。罪、死に合せず、酷濫なる可からず、と。陛下、色を作して殺ささめんとす。冑、之を執りて已まず。四五たびに至り、然る後に之を赦す。乃ち法司に謂ひて曰く、但だ能く我が為めに此の如く法を守らば、豈に濫に誅夷有るを畏れんや、と。此れ則ち悦びて以て諌めに従ふなり。〔▽八八三頁〕〔類似▽四〇二-四頁〕
往年、陝県の丞皇甫徳産、上書し、大いに聖旨に忤ふ。陛下、以て*さん謗(さんぼう)すと為す。臣、奏称し、上書は激切ならざれば、人主の意を起す能はず。激切は即ち*さん謗(さんぼう)に似たり、と。時に于て、臣の言に従ひ、物二十段を賞すと雖も、意甚だ平かならず。諌を受くるに難んずるなり、と。〔▽八八四頁〕
太宗曰く、誠に公の言の如し。公に非ずんば、能く此を道ふ者無からん。人、皆、自ら覚らざるに苦しむ。公が向に未だ道はざりし時、都て自ら謂へらく、行ふ所、変ぜず、と。公の論説を見るに及びて、過失、驚くに堪へたり。公但だ此の心を存せよ。朕、終に公の語に違はざらん、と。〔▽八八五頁〕

 

第一章

貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、比三両月来、公等の*とう言(とうげん)を見ず。未だ知らず、朕が諌諍す可からざるを以て、隠して言はざるか。是の庶事を為し、咸く論を須ひざるを得んや、と。侍中魏徴対へて曰く、陛下、一事毎に即ち鑑誡と為す。臣等、深く聖情を識り、必ず事理違ふこと有れば、豈に肯て隠して奏せざらんや。然れども比来大使既に出で、内外、事無し。論ぜざる所以なり、と。〔▽八八六頁〕
太宗曰く、古より来、喪乱に遭ふと雖も、未だ隋日の如き者有らず。朕、皆之を平ぐ。功、古人に何如、と。魏徴対へて曰く、前代、喪乱に遭ふと雖も、皆、牧宰割拠し、数歳に過ぎずして、即ち帰する所有り。隋末に至りては、天下鼎沸し、百姓塗炭すること、十余年を経たり。陛下、天に応じ人に順ひ、一時に平定す。此れ乃ち天地を再造し、重ねて区夏を立つ。此の功業は、古来、未だ之れ有らざるなり、と。〔▽八八七頁〕
太宗、右僕射李靖等に謂ひて曰く、人君の道は、唯だ寛厚ならんことを欲す。但だ刑戮のみに非ず、乃ち鞭撻に至りても、亦行ふを欲せず。比毎に人の我が大寛なるを嫌ふもの有り。未だ此の言の信ず可きや否やを知らず、と。魏徴対へて曰く、古来の帝王、殺戮を以て威を肆にする者は、実に久安の策に非ず。臣等、隋の煬帝を見るに、初めて天かを有つや、亦大いに威厳あり。而るに官人百姓、罪を造すもの一に非ず。今、陛下、天下を仁育し、万姓、安きを獲たり。臣下愚なりと雖も、豈に恩造を識らざるべけんや、と。〔▽八八八頁〕
太宗曰く、人の一身は、縦令病無くとも、疥癬を免れず、時に及んで、小小の悪処有り、と。魏徴対へて曰く、古より化を為すには、唯だ大体を挙ぐ。尭舜の時、全く悪無きに非ず、但だ悪を為す者少し。桀紂の世、全く善無きに非ず、但だ悪を為す者多し。譬ば百丈の木の如し、豈に能く一枝一節無からんや。今、官人の職に居るもの、豈に能く全く非を為さざらんや。但だ罪を犯す者少ければ、是を取りて太だ理るなり、と。〔▽八八九頁〕

第二章

貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、隋主の文集を観るに、実に博物にして才有り。亦、尭舜の風を悦び、桀紂の行を醜むを知る。然れども行事は、即ち言と相反するは何ぞや、と。魏徴対へて曰く、古より理と称するは、皆是れ人君の能を量りて任使すればなり。故に智者は之が為めに謀り、勇者は之が為めに戦ふ。聡明なる聖哲と雖も、尚ほ*とう紘(とうこう)を以て耳を塞ぎ、冕旒を目に垂る。隋主は俊才有りと雖も、君の量無し。才を恃み物に驕り、滅亡に至る所以なり、と。太宗曰く、然り。昔、漢武は征役息まず、戸口減半す。中途にして能く改め、還た祚を子孫に伝ふるを得たり。向使隋主をして早く寤らしめば、亦、滅亡に至らざらん、と。〔▽八九〇頁〕
是より先、慶善楽を以て文舞と為し、破陣楽を武舞と為す。魏徴・虞世南・*ちょ亮(ちょりょう)・李百薬等に詔して之が詞を為らしむ。太宗、侍臣に謂ひて曰く、昔、周公・成王、礼を製し楽を作り、久之乃ち成る。朕、位に即くに逮び、数年の間に、此の二楽を成し、五礼又復た刊定す。未だ知らず、後世の為めに法と作すに堪ふるや否や。朕、前王の民に功有る者を観るに、事を作し令を施し、後に即ち法と為る。所謂其の徳を忘れざる者なり。既に天下を平げ、海内を安堵す。若し徳恵倦まず、始有り終を善くし、我より古を作さば、何ぞ法とせざるを慮らん。若し遂に物に徳無ければ、後何の遵ふ所あらん。此を以て言へば、後の法とするも法とせざるも、猶ほ朕に在るのみ、と。〔▽八九一頁〕
魏徴奏称す、陛下、乱を撥め正に反し、功は百王よりも高く、開闢より以来、未だ陛下に如く者あらざるなり。便ち新楽を創し、兼ねて大礼を修む。我より古を作し、万代、法を取る。豈に子孫に止るのみならんや、と。〔▽八九二頁〕

第三章

貞観九年、太宗、顧みて侍臣に謂ひて曰く、西蕃、通じ来りてより幾時ぞ、と。侍中魏徴対へて曰く、禹貢に、西は流沙に至る。亦西戎、叙に即く、と。境域の及ぶ所を明かにせず。漢の武帝に至り、燉煌・張掖等の郡を置く。此より已後、漸く西域に通ず、と。〔▽八九三頁〕
太宗曰く、朕聞く、漢の武帝の時、西蕃に通ずるを為し、中国の百姓、死する者大半なり。此の事、史籍に著れ、具述する能はず。但だ隋の後主、葱嶺已西を開かんと欲し、当時の死する者、道路に継ぐ。聞くが如くんば沙州已西に、仍ほ隋時の破壊せる車轂有り、其の辺には即ち白骨の狼籍たる有り、と。北は長城を築き、東は遼水を度り、征伐息まず、人、生を聊んずる無し。天下園班怨叛し、聚りて盗と為る。煬帝、安然として、其の欲する所を恣にし、遂に滅亡に至る。祇だ其の過を聞かざるが為めなり。朕、此の事を以て、永く鑒誡と為す。〔▽八九四頁〕
今、公等と共に百姓を理む。但だ安穏便ならざるの事有らば、即ち朕に向ひて道へ。面従して苟も相悦誉するを得る勿れ。且つ朕は素より術学無く、未だ政道を聞かず。一日万機、耳目を尽くす能はず。有る所の処断は、独見、明かならず、失有るを致さん。公等に委任する所以なり。公等、善く相輔弼し、兆庶をして所を得しめよ。此れ乃ち永く富貴を保ち、蔭、子孫に及ばん。若し尸禄曠官、苟も栄利を貪らば、朕、当に必ず黜辱を加へ、終に容捨せざるべし。朕既に漢の武帝・隋の後主を以て亀鏡と為す。公等恒に此の事を将て共に規諌せよ、と。〔▽八九五頁〕
魏徴進んで曰く、陛下、至理を弘めんことを思ひ、群下を砥砺す。臣等豈に敢て股肱の力を竭さざらんや。但だ識度愚浅にして、万分の一に益する無からんことを恐る。臣聞く、漢の武帝、五代の資を承け、天下無事にして、倉庫充実し、士馬強盛なり。遂に其の欲を騁せんことを思ひ、以て四夷に事あり。蒟醤を聞きて*きょうほく(きょうほく)を開き、良馬を貪りて大宛に通じ、北は匈奴を逐ひ、南は百越を征し、老弱は転輸に疲れ、丁壮は軍旅に死す。海内騒然として、戸口減半し、国用足らず、府庫空虚なるに至る。乃ち塩鉄を*かくこ(かくこ)し、関市に征税し、舟車に課算し、*びん(びん)を告げ爵を売り、百姓を侵凌す。万端倶に起り、外内窮困し、辺費に給せず、戎卒を以て田を営み運を助けんと議す。暮年に迄り、方に始めて覚悟し、哀痛の詔を下し、丞相を封じて富民侯と為し、僅に寿を以て終るも、幾ど大乱を致さんとす。〔▽頁八九六〕
煬帝、其の強盛を恃み、漢武を追従せんと欲するを思ふ。車駕屡々動き、民、生を聊んずること無し。十余年間、国亡び身戮せらる。陛下、威、海外に加はり、遠しとして臻らざるは無し。深く二主を惟ひ以て殷監と為す。所謂一人慶有れば、兆民之に頼る、なり。臣等、奉じて以て周旋し、敢て失墜せざらん。脱し千慮に一失せば、必ず犯す有りて隠す無からんことを望まん、と。〔▽八九八頁〕
七年、徴、侍中に遷る。累に鄭国公に封ぜらる。疾を以て職を解かれんことを請ふ。太宗曰く、公独り見ずや、金の鉱に在るは、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶之を鍛へて器と為せば、人をして之を謂ひて宝と為さしむ。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿、疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中を解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。〔▽八九九頁〕〔類似▽一一六頁〕
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋するは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし、*忠とう(ちゅうとう)を献じ国を安んじ、我が今日の功業を成し、天下に称せらるるを為せる者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。〔▽八九九頁〕〔類似▽一一七頁〕
十七年、太子大師に拝せられ、門下の事を知すること故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。時に太宗、小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗、親ら為めに碑文を制し、復た自ら石に書す。特に其の家に実封九百戸を賜ふ。〔▽九〇〇頁〕〔類似▽一一八頁〕
太宗嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興喪を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴*そ逝(そせい)し、遂に一鏡を亡ふ、と。因りて泣下ること久之、詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕、豈に独り往時に非にして、皆茲の日に是なること有らんや。故に亦庶僚、苟くも順ひ、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚して外に求め、迷を披きて内に省みる所以なり。言へども用ひざるは、朕が甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯より以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。〔▽九〇〇-一頁〕〔類似▽一一九頁〕

 

第一章

貞観七年、太宗、蒲州に幸す。刺史趙元楷、父老に課して黄紗の単衣を服し、迎へて路左に謁す。廨宇を盛飾し、楼雉を修営して、以て媚を求む。又、潜かに羊百余口、魚数千頭を飼ひ、将に貴戚に餽らんとす。〔▽九〇一頁〕
太宗知りて之を数めて曰く、朕、河洛を巡省し、数州を経歴す。凡そ須ふる所有れば、皆、官物に資る。卿、羊を飼ひ魚を養ひ、院宇を雕飾す。此れ乃ち亡隋の弊俗にして、復た行ふ可からず。当に朕が心を識り、卿が旧心を改むべきなり、と。元楷、隋に在りて邪佞の目に陥る。太宗、故に此の言を発し、以て之を誡む。元楷慙ぢ懼れ、数日食はずして卒す。〔▽九〇二頁〕