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貞観政要 2000年01月 発行

巻第九 議安辺第三十五

第一章

貞観四年、李靖、突厥の頡利を撃ちて之を敗る、其の部落、帰降する者多し。詔して安辺の術を議す。中書令温彦博議す、請ふ河南に於て之を処かん。漢の建武の時、降れる匈奴を五原塞下に置きしに準じ、其の部落を全くして、捍蔽と為すを得、又、其の土俗を離れずして、因りて之を撫せん。一には則ち空虚の地を実て、二には則ち猜無きの心を示さん。故に是れ含育の道なり、と。太宗、之に従ふ。〔▽七二八頁〕
秘書監魏徴曰く、匈奴、古より今に至るまで、未だ斯の如きの破敗有らず。此は是れ上天の勦絶、宗廟の神武なり。且つ其れ世々中国に冦し、百姓の冤讎なり。陛下、其の降を為すを以て誅滅する能はずば、即ち宜しく河北に遣還し、其の旧土に居らしむべし。匈奴は人面獣心にして、我が族類に非ず。強ければ必ず冦盗し、弱ければ則ち卑服し、恩義を顧みざるは、其の天性なり。秦・漢、此を患ふること是の若し。故に猛将を発し以て之を撃ち、其の河南を収め、以て郡県と為せり。陛下、奈何ぞ内地を以て之を居くや。且つ今、降る者幾ど十万に至る。数年の間、滋息過倍せん。我が肘腋に居り、甫めて王畿に迩づかば、心腹の疾、将に後の患を為さんとす。尤も処くに河南を以てす可からざるなり、と。〔▽七二九頁〕
温彦博曰く、天子の物に於けるや、天覆ひ地載し。我に帰する者有れば、則ち必ず之を養ふ。今、突厥破滅し、余の部落帰附す。陛下、憐愍を加へず、棄てて納れざるは、天地の道に非ず、四夷の意を阻まん。臣愚、甚だ不可と為す。之を河南に処くは、所謂死して之を生かし、亡して之を存するなり。我が厚恩に懐き、終に叛逆する無からん、と。〔▽七三〇頁〕
魏徴又曰く、晋、有魏に代はるや、時に胡落分れて近郡に居る。江統、逐ひて塞外に出さんことを勧むるも、武帝、其の言を用ひず。数年の後、終に*てん洛(てんらく)を傾く。前代の覆車、殷鑒、遠からず。陛下、必ず彦博の言を用ひて河南に居らしめば、所謂獣を養ひて自ら患を遺すなり、と。〔▽七三一頁〕
彦博又曰く、臣聞く、聖人の道は、通ぜざる所無し、と。突厥の余魂、命を以て我に帰す。収めて内地に居き、教ふるに礼法を以てし、其の酋帥を選び、宿衛に居らしめば、威を畏れ徳に懐かん。何の患か之れ有らん。且つ光武、南単于を内郡に居き、以て漢の藩翰と為す。一代を終るまで、叛逆有らず、と。〔▽七三二頁〕
太宗竟に其の議に従ひ、幽州より霊州にいたるまで、順・祐・化・長の四州の都督府を置き、以て之を処く。其の人、長安に居る者、近く且に万家ならんとす。十二年、太宗、九成宮に幸す。突利可汗の弟、中郎将阿史那結社率、陰に所部を結び、并に突利の子賀邏鶻を擁し、夜、御営を犯す。事敗る。皆捕へて之を斬る。太宗、是より、突厥を直とせず、其の部落を中国に処けるを悔い、其の旧部を河北に還し、牙を故の定襄城に建て、李思摩を立てて、*乙弥泥孰俟ひつ可汗(おつびじゅくきりひつかかん)と為し、以て之を主らしむ。〔▽七三二-三頁〕
因りて侍臣に謂ひて曰く、中国の百姓は、天下の根本なり。四夷の人は、乃ち国の枝葉なり。其の根本を擾し、以て枝附を厚くし、用て久安ならんことを求むるは、未だ之れ有らざるなり。初め魏徴の言を納れず、遂に労費の日に甚だしく、幾ど久安の道を失へるを覚ゆ、と。〔▽七三三-四頁〕

第二章

貞観十四年、太宗、侍臣と突厥を安置するの事を議す。中書令温彦博対へて曰く、隋の文帝、兵馬を労し、倉庫を費し、可汗を樹立し、其の国に復らしむ。後、遂に恩に孤き信を失ひ、煬帝を雁門に圍めり。今、陛下仁厚にして、其の欲する所に従ひ、河南河北、情に任せて居住せしめば、各々酋長有りて、相統属せず、力散じ勢分れ、安んぞ能く害を為さん、と。〔▽七三四-五頁〕
給事中杜楚客進みて曰く、北狄は人面獣心なり。徳を以て懐け難く、威を以て服し易し。今、其の部落をして、河南に散処し、中華に逼近せしめば、久しうして必ず患を為さん。雁門の役の如きに至りては、是れ突厥が恩に背くと雖も、自ら隋主の無道に由り、中国、之を以て喪乱せり。豈に亡国を興復し、以て此の禍を致す、と云ふを得んや。夷、華を乱らざるは、前哲の明訓なり。亡を存し絶を継ぐは、列聖の通規なり。臣恐る、事、古を師とせざれば、以て長久なり難きを、と。太宗、其の言を嘉すれども、方に懐柔に務めたれば、未だ之に従はざるなり。〔▽七三五-六頁〕
突厥の頡利の破れしより後、諸部落に首領の来り降る者有り、皆、将軍・中郎将に拝せられ、朝廷に布列す。五品已上の者百余人、殆ど朝士と相半す。唯だ拓抜のみ至らず。又、之を招慰せしむ、使者、道に相望む。〔▽七三六頁〕
涼州の都督李大亮、以て事に於て益無く、徒らに中国を費すと為し、上疏して曰く、臣聞く、遠きを綏んぜんと欲する者は、必ず先づ近きを安んず、と。中国の百姓は、天下の根本なり。四夷の人は、猶ほ枝葉に於けるが如し。其の根本を擾し、以て枝附を厚くして、久安ならんことを求むるは、未だ之れ有らざるなり。古より明王、中国を化するに信を以てし、夷狄を馭するに権を以てす。故に春秋に曰く、戎狄は豺狼なり。厭かしむ可からざるなり。諸夏は親昵なり。棄つ可からざるなり、と。〔▽七三七頁〕
陛下、区宇に君臨してより、根を深くし本を固くし、人逸し兵強く、九州殷盛にして、四夷、自ら服す。今者、突厥を招致し、提封に入ると雖も、臣愚稍しく労費なるを覚え、未だ其の益有るを悟らざるなり。然して河西の民庶は、藩夷を鎮禦し、州県蕭條、戸口先少なり。加ふるに隋の乱に因り、減耗尤も多し。突厥未だ平がざるの前、尚ほ業を安んぜず。匈奴微弱なりし以来、始めて農畝に就く。若し即ち労役せば、恐らくは妨損を致さん。臣の愚惑を以てするに、請ふ招慰を停めんことを。〔▽七三八頁〕
且つ之を荒服と謂ふ者は、故、臣とすれども内れざるなり。是を以て、周室、民を愛し狄を攘ひ、竟に七百の齢を延くせり。秦王、軽々しく戦ひて胡を事とし、四十載にして絶滅せり。漢文、兵を養ひて静に守り、天下安豊なり。孝武、威を揚げ遠く略し、海内虚耗せり。輪臺を悔ゆと雖も、追へども已に及ばず。隋室に至りては、早く伊吾を得、兼ねて*ぜん善(ぜんぜん)を統ぶ。且つ夫れ既に得たるの後、労費日に甚だしく、内に虚しくして外に致し、竟に損して益無し。遠く秦漢を尋ね、近く隋室を観れば、動静安危、昭然として備はれり。〔▽七三九頁〕
伊吾、已に臣附すと雖も、遠く藩磧に在り。民は夏人に非ず、地は沙鹵多し。其の自ら竪立して藩・附庸を称する者は、請ふ羈縻して之を受け、塞外に居らしめん。必ず威を畏れ徳に懐き、永く藩臣と為らん。蓋し虚恵を行ひて実福を収むるなり。〔▽七四〇頁〕
近日、突厥、国を傾けて入朝す。既に之を江淮に俘にし、以て其の俗を変ずること能はず、乃ち内地に置き、京を去ること遠からず。則ち寛仁の義なりと雖も、亦、久安の計に非ざるなり。一人の初めて降るを見る毎に、物五匹、袍一領を賜ひ、酋帥には悉く大官を授く。禄厚く位尊く、理、糜費多し。中国の租賦を以て、積悪の凶虜に供す。其の衆益々多し。中国の利に非ざるなり、と。太宗、納れず。〔▽七四一頁〕

第三章

貞観十四年、侯君集、高昌を平げしの後、太宗、其の国を以て州県と為さんと欲す。魏徴奏して曰く、陛下初めて天下に臨みしとき、高昌王先づ来りて朝謁せり。自後数々商胡有り。其の貢献を遏絶し、加之大国の詔使に礼あらざるを称し、王誅載ち加ふ。若し罪、文泰に止まらば、斯れ亦可なり。未だ因りて其の人民を撫して其の子を立つるに若かず。所謂罪を伐ち民を弔し、威徳、遐外に被り、国を為むるの善なる者なり。〔▽七四二頁〕
今若し其の土壌を利し、以て州県と為さば、常に須く千余人にて鎮守すべし。数年にして一たび易ふれば、往来交替する毎に、死する者十に三四有らん。衣資を遣弁し、親戚に離別し、十年の後には、隴右空虚とならん。陛下、遂に高昌の撮穀尺布を得て、以て中国を助くる能はざらん。所謂有用を散じて無用を事とするなり。臣未だ其の可なるを見ず、と。太宗、従はず。竟に其の地を以て西州を置く。仍りて西州に於て安西都護府を置き、毎歳、千余人を調発して、其の地を防遏す。〔▽七四三頁〕
黄門侍郎*ちょ遂良(ちょすいりょう)も、亦、以て不可なりと為し、上疏して曰く、臣聞く、古者、哲后、朝に臨み、明王、制を創むるや、必ず華夏を先にして、夷狄を後にし、諸の徳化を広め、遐荒を事とせず。是を以て、周宣は薄か伐ち、境に至りて返れり。始皇は遠く塞し、中国分離せり。陛下、高昌を誅滅し、威、西域に加はり、其の鯨鯢を収め、以て州県と為す。然れば則ち王師初めて発するの歳、河西、役を供するの年、蒭を飛ばし粟を輓き、十室にして九、数郡蕭然として、五年、復せず。〔▽七四四頁〕
陛下、歳に千余人を遣はして、遠く屯戍を事とす。終年別離し、万里、返るを思ふ。去る者の資装は、自ら須く営弁すべく、既に菽粟を売り、其の機杼を傾く。途を経て死亡するは、復た京外に在り。兼ねて罪人を遣はし、其の防遏を増す。遣はす所の内、復た逃亡有り。官司捕捉し、国の為めに事を生ず。〔▽七四五頁〕
高昌の途路は、沙磧千里、冬風は氷烈、夏風は焚くが如く、行人の去来するもの之に遇へば多く死す。易に曰く、安くして危きを忘れず、理まりて乱るるを忘れず、と。設し張掖をして塵飛び、酒泉をして烽挙がらしむとも、陛下豈に能く高昌の一人斗粟を得て、事に及ばんや。終に須く隴右の諸州を飛ばし、星馳電撃すべし。斯に由りて言へば、此の河西は、方に以て腹心にして、彼の高昌は他人の手足なり。豈に中華を糜費して、以て無用を事とするを得んや。〔▽七四六頁〕
陛下、頡利を沙塞に平げ、吐渾を西海に滅ぼす。突厥の余部落、為めに可汗を立て、吐渾の遺萌、更に君長を樹つ。復た高昌を立つるは、前例無きに非ず。此れ所謂罪有りて之を誅し、既に服して之を立つるなり。宜しく高昌の立つ可き者を択び、徴して首領を給し、本国に還らしむべし。洪恩を負戴し、長く藩翰と為り、中国を擾れず、既に富みて且つ寧く、之を子孫に伝へ、以て長代に貽さん、と。疏奏す。納れず。〔▽七四七頁〕
十六年に至りて、西突厥、兵を遣はして西州に冦す。太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、西州、今警急有り、と。害を為すに足らずと雖も、然れども豈に能く憂無からんや。往者、初めて高昌を平げしとき、魏徴・*ちょ遂良(ちょすいりょう)、朕に勧めて麹文泰の子弟を立て、旧に依りて国を為さしむ。朕、竟に其の計を用ふること能はざりき。今日方に自ら悔責す。昔、漢の高祖、平城の圍に遭ひて、婁敬を賞し、袁紹、官度に敗れて、田豊を誅せり。朕恒に此の二事を以て誡と為す。寧ぞ言ふ所の者を忘るるを得んや、と。〔▽七四八頁〕