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貞観政要 2000年01月 発行

巻第六 論仁惻第二十

第一章

貞観の初、太宗、侍臣に謂ひて曰く、婦人、深宮に幽閉さるるは、情、実に愍む可し。隋氏の末年、求採すること已む無く、離宮別館の幸御するに非ざるの所に至るまで、多く宮人を聚む。此れ皆、人の財力を竭くす。朕が取らざる所なり。且つ灑掃の余、更に何の用ふる所あらん。今将に之を出して伉儷を求むるに任せんとす。独り以て費を省くのみに非ず、兼ねて以て人を息す。亦、各々其の性を遂ぐるを得ん、と。是に於て、後宮及び掖庭、前後、出す所、三千余人なり。〔▽四七六-七頁〕

第二章

貞観二年、関中旱し、大いに饑う。太宗、侍臣に謂ひて曰く、水旱、調はざるは、皆、人君の徳を失ふが為めなり。朕が徳の修まらざる、天当に朕を責むべし。百姓、何の罪ありて、多く困窮するや。男女を鬻ぐ者有りと聞く、朕甚だ焉を愍む、と。乃ち御史大夫杜淹を遣はして巡検せしめ、御府の金宝を出して之を贖ひ、其の父母に還さしむ。〔▽四七八頁〕

第三章

貞観七年、襄州の都督張公謹卒す。上、聞きて嗟悼し、出でて次し哀を発す。有司、奏言す、陰陽の書に準ずるに、甲子、辰に在るときは、哭泣す可からず、と。此れ亦流俗の忌む所なり、と。上曰く、君臣の義は、父子に同じ。情、衷より発す。安んぞ辰日を避けんや、と。遂に之を哭す。〔▽四七九頁〕

第四章

貞観十九年、太宗、高麗を征し、定州に次す。兵士の到る者有れば、帝、州城の北門楼に御して之を撫慰す。従卒一人有り、病みて進むこと能はず。招きて牀前に至らしめ、其の苦しむ所を問ひ、仍りて州県の医に勅して之を療せしむ。是を以て、将士、欣然として従ふを願はざるは莫し。〔▽四八〇-一頁〕
大軍回りて柳城に次するに及びて、詔して前後の戦亡人の骸骨を集め、大牢を設けて祭を致し、親しく之を臨哭し、哀を尽くす。軍人、泣を灑がざるは莫し。兵士の祭を観る者、家に帰りて其の父母に言ふ。父母曰く、吾が兒の喪、天子、之を哭す。死するも恨むる所無し、と。太宗、遼東を征し、白巌城を攻むるとき、右衛大将軍李思摩、流矢の中つる所と為る。帝親ら為めに血を吮ふ。将士、感励せざる莫し。〔▽四八一頁〕
※『平治物語』上、『源平盛衰記』巻十一、『太平記』巻三二