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貞観政要 2000年01月 発行

巻第七 論礼楽第二十九

第一章

太宗、初めて位に即き、侍臣に謂ひて曰く、礼に準ずるに、名は終れば将に之を諱まんとす。前古の帝王、亦、生けるとき其の名を諱まず。故に周の文王、名は昌、周の詩に云ふ、克く厥の後を昌にす、と。春秋の時、魯の荘公、名は同、十六年の経に、斉侯・宗公、幽に同盟す、と書す。唯だ近代の諸帝は、皆、妄りに節制を為し、特に生けるときに其の諱を避けしむ。理、通允に非ず。宜しく改帳する有るべし、と。〔▽五七一頁〕
因りて詔して曰く、礼に依るに、二名は、義、偏諱せず。尼父は達聖なし。前指無きに非ず。近代已来、曲げて節制を為し、両字を兼ね避く。廃闕已に多く、意に率ひて行ふ。経誥に違へる有り。今宜しく礼典に依拠し、務めて簡約に従ひ、仰ぎて先哲に効ひ、法を将来に垂るべし。其の官号人名、及び公私の文籍に、世及び民の両字有りて、連読せざる者は、竝びに避くるを須ひず、と。〔▽五七二頁〕

第二章

貞観二年、中書舎人高季輔、上疏して曰く、竊に密王元暁等を見るに、倶に是れ懿親なり。陛下の友愛の懐は、義、古昔に高く、分つに車服を以てし、委むるに藩維を以てす。須く礼儀に依りて以て瞻望に副ふべし。比、帝子の諸叔を拝するを見るに、諸叔も即ち亦答拝す。今、王爵既に同じく、家人、礼有り。豈に合に此の如く昭穆を顛倒すべけんや。伏して願はくは、一たび訓誡を垂れ、永く彝則を修めんことを、と。太宗乃ち元暁等に詔して、呉王恪・魏王泰兄弟の拝に答ふるを得ざらしむ。〔▽五七四頁〕

第三章

貞観四年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、比聞く、京城の士庶、父母の喪に居る者、乃ち巫書の言を信ずる有りて、辰日には哭せず。此を以て弔問を辞す、と。忌に拘はり哀を輟め、俗を敗り風を傷り、極めて人理に乖く。宜しく州県をして教導し、之を斉ふるに礼典を以てせしむべし、と。〔▽五七四-五頁〕

第四章

貞観五年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、仏道の教を設くるは、本、善事を行ふ。豈に僧尼・道士等をして、妄に自ら尊崇し、坐ながら父母の拝を受けしめんや。風俗を損害し、礼経を悖乱す。宜しく即ち禁断し、仍りて拝を父母に致さしむべし、と。〔▽五七五頁〕

第五章

貞観六年、太宗、尚書左僕射房玄齢に謂ひて曰く、比、山東の崔・盧・李・鄭の四姓有り。累葉陵遅すと雖も、猶ほ其の旧地を恃み、好みて自ら矜大にし、称して士大夫と為す。女を他族に嫁する毎に、必ず広く聘財を索め、多きを以て貴しと為し、数を論じ約を定むること、市賈に同じ。甚だ風俗を損じ、礼経を紊る有り。既に軽重、宜しきを失ふ。理、須く改革すべし、と。〔▽五七六頁〕
乃ち吏部尚書高士廉、御史大夫韋挺、中書侍郎岑文本、礼部侍郎*令狐徳ふん(れいことくふん)等に詔して、姓氏を刊正し、普く天下の譜諜を責め、兼ねて史伝に拠憑し、其の浮華を剪り、其の真偽を定め、忠賢なる者は褒進し、悖逆なる者は乃ち貶黜し、撰して氏族志を為らしむ。士廉、氏族の等第を進定するに及び、遂に崔幹を以て第一等と為す。〔▽五七七頁〕
太宗、謂ひて曰く、我、山東の崔・盧・李・鄭と、旧既に嫌無し。其の世代衰微するが為めに、全く官爵無し。猶ほ自ら士大夫と云ひ、婚姻の際には、則ち多く銭物を索む。或は才識庸下なれども、偃仰して自ら高ぶり、*松か(しょうか)を販鬻し、富貴に依託す。我、人間何為れぞ之を重んずるかを解せず。且つ大丈夫、能く徳を立て功を立つる有りて、爵位崇重に、善く君父に事へて、忠孝、称す可く、或は道義素高く、学芸通博なるは、此れ亦、門戸を為し、天下の士大夫と謂ふ可きに足る。〔▽五七八頁〕
今、崔・盧の属は、唯だ遠葉の衣冠を矜る。寧ぞ当朝の貴に比せんや。公卿已下、何の仮ありてか多く銭物を輸し、兼ねて他の気勢を与し、声に向ひ実に背き、以て栄と為すを得んや。我、今、氏族を定むる者は、誠に今朝の冠冕を崇樹せんと欲す。何に因りて崔幹を猶ほ第一等と為すや。只だ卿等を看るに、我が官爵を貴ばざるか。数代已前を論ずるを須ひず、止だ今日の官品人才を取りて、等級を作し、宜しく一に量定し、用つて永則と為すべし、と。遂に崔幹を以て第三等と為す。十二年に至りて書成る。凡て百巻。天下に頒つ。〔▽五七九頁〕
又詔して曰く、氏族の盛は、実に冠冕に繋る。婚姻の道は、仁義より先なるは莫し。有魏、御を失ひ斉氏云に亡びしより、市朝既に遷り、風俗陵替す。燕趙の古姓、多く衣冠の緒を失ひ、斉韓の旧族、或は徳義の風に乖き、名、州閭に著れず、身、未だ貧賎を免れざるに、自ら膏梁の冑と号し、匹敵の儀を敦くせず。問名は惟だ貲を竊むに在り。*結り(けつり)は必ず富室に帰す。乃ち新官の輩、豊財の家有り、其の祖宗を慕ひ、競ひて婚媾を結び、多く貨賄を納るること、販鬻の如き有り。或は自ら家門を貶して、屈辱を*姻あ(いんあ)に受け、或は其の旧望を矜りて、無礼を舅姑に行ふ。積習、俗を成し、今に迄りて未だ已まず。既に人倫を紊り、実に名教を虧く。朕、夙夜*競てき(きょうてき)し、正道を憂勤し、往代の蠹害、咸く以て懲革す。唯だ此の弊風、未だ尽くは変ずる能はず。今より以後、明かに告示を加へ、嫁娶の序を識らしめ、務めて典礼に合し、朕が意に称はしめよ、と。〔▽五八〇頁〕

第六章

礼部尚書王珪の子敬直、太宗の女南平公主に尚す。珪曰く、礼の婦の舅姑に見ゆるの儀有り。近代、風俗弊薄してより、公主出降するとき、此の礼皆廃せり。主上欽明にして、動くに法政に循ふ。吾、公主の謁見を受くるは、豈に身の栄の為めならんや。国家の美を成す所以のみ、と。遂に其の妻と位に就きて坐し、公主をして親ら笄を執りて盥饋の道を行はしめ、礼成りて退く。太宗聞きて善しと称す。是の後、公主下降し、舅姑有る者は、皆、備に此の礼を行はしむ。〔▽五八二頁〕

第七章

貞観十二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、古者、諸侯入朝すれば、湯沐の邑有り。芻禾百車、待するに客礼を以てす。昼は正殿に坐し、夜は庭燎を設く。与に相見て其の労苦を問はんことを思ふ。又、漢家の京城にも、亦、諸郡の為めに邸舎を立つ。頃聞く、考使、京師に至る者、皆、房を賃して以て坐し、商人と雑居し、纔に身を容るるを得るのみと。既に之を待礼すること足らざるなり。必ず是れ人多く怨歎せん。豈に肯て情を共理に竭くさんや。乃ち京城の閑坊に就きて、諸州の考使の為めに、各々邸第を造らしむ。成るに及び、太宗親しく観行す。〔▽五八三頁〕

第八章

貞観十三年、礼部尚書王珪、奏言す、令に準ずるに、三品以上、親王に路に遇へば、合に馬を下るべからず。今、皆、法に違ひて敬を申ぶ。朝典に乖く有り、と。太宗曰く、卿が輩、自ら崇貴にして、我が兒子を卑しまんと欲するか、と。魏徴対へて曰く、漢魏以来、親王の班は、皆、三公の已下に次す。今、三品は竝びに天子の六尚書・九卿なり。王の為めに馬を下るは、宜しく当るべからざる所なり。諸を故事に求むれば、則ち憑る可き無し。之を今に行へば、又、国憲に乖く。理、誠に不可なり、と。〔▽五八四-五頁〕
帝曰く、国家、太子を立つる者は、以て君と為さんと擬す。人の修短は、老幼に在らず。設し太子無くんば、則ち母弟次ぎて立たん。此を以て言へば、安んぞ我が子を軽んずるを得んや、と。徴又曰く、殷人は質を尚び、兄終れば弟及ぶの義有り。周より以降、嫡を立つるは必ず長をす。*庶げつ(しょげつ)の*窺ゆ(きゆ)を絶ち、禍乱の源本を塞ぐ所以なり。国家を為むる者、宜しく深く慎むべき所なり、と。太宗遂に珪の奏を可とす。〔▽五八五-六頁〕

第九章

貞観十四年、特進魏徴上疏して曰く、臣聞く、君を元首と為し、臣を股肱と作す。斉契して心を同じくし、合して一体を成す。体、備はらざる或れば、未だ成人と為らず。然れば則ち首は尊高なりと雖も、必ず手足に資りて、以て体を成す。君は明哲なりと雖も、必ず股肱に藉りて以て治を致す。故に礼に云く、人は君を以て心と為し、君は人を以て体と為す。心壮なれば則ち体舒び、心粛めば則ち容敬す、と。書に云く、元首康きかな、股肱良なるかな、万事興るかな。元首*叢ざ(そうざ)なるかな、股肱堕るかな、万事*やぶ(やぶ)るるかな、と。然れば則ち股肱を委棄して、独り胸臆に任じ、体を具へ理を成すは、聞く所に非ざるなり。〔▽五八六-七頁〕
夫れ君臣相遇ふは、古より難しと為す。石を以て水に投ずるは、千載に一たび合ふ。水を以て石に投ずるは、時として有らざるは無し。其れ能く至公の道を開き、天下の用を申べ、内、心膂を尽くし、外、股肱を竭くし、和すること塩梅の若く、固きこと金石に同じき者は、惟だ高位厚秩のみに非ず、之を礼するに在るのみ。〔▽五八八頁〕
昔、周の文王、鳳凰の墟に遊び、*べつ系(べつけい)解けたり。左右を顧みるに、使む可き者莫し。乃ち自ら之を結べり。豈に周文の朝、尽く俊乂為り、聖明の代、独り君子無きならんや。但だ知ると知らざると、礼すると礼せざるとのみ。是を以て、伊尹は*有しん(ゆうしん)の*よう臣(ようしん)、韓信は項氏の亡命なり。殷湯、礼を致して、王業を南巣に定め漢祖、壇に登りて、帝功を垓下に成せり。若し夏桀、伊尹を棄てず、項王、恩を韓信に垂れなば、寧んぞ肯て已に成れるの国を敗りて、滅亡の虜と為らんや。又、微子は骨肉なり、茅土を宋に受く。箕子は良臣なり、洪範を周に陳ぶ。仲尼、其の仁を称し、之を非とする者有る莫し。〔▽五八九頁〕
礼記に称す、魯の穆公、子思に問ひて云く、旧君の為めに反服するは、古か、と。子思云く、古の君子は、人を進むるに礼を以てし、人を退くるに礼を以てす。故に旧君の為に反服するの礼有るなり。今の君子は、人を進むるには将に諸を膝に加へんとするが若く、人を退くるには将に諸を泉に墜さんとするが若し。戎首と為る無くんば、亦善からずや。又、何の反服か之れ有らん、と。〔▽五九一頁〕
晏子に云く、斉の景公、晏子に問ひて云く、忠臣の君に事ふること、如何、と。晏子対へて曰く、難有れば死せず、出亡すれば送らず、と。公云く、地を裂きて以て之を封じ、爵を疏ちて之を待つ。難有れば死せず、出亡すれば送ざるは、何ぞや、と。晏子曰く、言ひて用ひらるれば、終身、難無し、臣何ぞ死せん。諌めて従はるれば、終身、亡げず、臣何ぞ送らん。若し言ひて用ひられざるに、難有りて死するは、是れ妄死なり。諌めて従はられざるに、出亡して送るは、是れ詐忠なり、と。〔▽五九二頁〕
春秋左氏伝に曰く、崔杼、斉の荘公を殺す。晏子、崔氏の門外に立つ。其の人曰く、死せんか、と。曰く、独り吾が君ならんや。吾死せんや、と。曰く、行らんか、と。曰く、吾が罪ならんや。吾亡げんや。故に君、社稷の為めに死すれば、則ち之に死す。社稷の為めに亡ぐれば、則ち之に亡ぐ。若し己が為めに死し、己が為めに亡ぐれば、其の親昵に非ざれば、誰か敢て之に任ぜん、と。門啓きて入り、尸を股に枕せしめて哭し、興ちて三たび踊りて出づ、と。〔▽五九三頁〕
孟子曰く、君の臣を視ること手足の如くなれば、臣の君を視ること腹心の如くす。君の臣を視ること犬馬の如くなれば、臣の君を視ること国人の如くす。君の臣を視ること土芥の如くなれば、臣の君を視ること冦讎の如くす、と。臣の君に事ふること二志有ること無しと雖も、去就の節に至りては、尚ほ恩の薄厚に縁る。然れば則ち人の上為る者、安んぞ以て下に礼無かる可けんや。〔▽五九四頁〕
竊に在朝の群臣を観るに、枢機の寄に当る者は、或は地、秦晋に隣り、或は業、経綸に預り、竝びに事を立て功を立て、皆、一時の選にして、之を衡軸に処く。任為ること重し。之に任ずること重しと雖も、之を信ずること未だ篤からず。之を信ずること篤からざれば、則ち人或は自ら疑ふ。人或は自ら疑へば、則ち心、苟且を懐く。心、苟且を懐けば、則ち節義、立たず。節義、立たざれば、則ち名教、興らず。名教、興らざれば、則ち与に太平の基を固くし、七百の祚を保つ可きこと、未だ之れ有らざるなり。〔▽五九五頁〕
又聞く、国家、功臣を重惜し、旧悪を念はず、と。之を前聖に方ぶるに、一も間する所無し。然れども但だ大事に寛に、小罪に急なり。時に臨みて責怒し、未だ愛憎の心を免れず。以て政を為す可からず。君、其の禁を厳にすれども、臣或は之を犯す。況んや上其の源を啓けば、下必ず甚だしき有り。川壅がりて潰ゆれば、其の傷ること必ず多し。凡百の黎元をして、何に其の手足を措く所あらしめんと欲するや。此れ所謂、君、一源を開き、下、百端を生ず。百端の変は、動乱せざる者無きなり。〔▽五九六頁〕
礼記に曰く、愛すれども其の悪しきを知り、憎めども其の善きを知る、と。若し憎みて其の善きを知らざれば、則ち善を為す者は必ず懼る。愛して其の悪しきを知らざれば、則ち悪を為す者寔に繁し。詩に曰く、君子如し怒らば、乱庶はくは*すみや(すみや)かに沮まん、と。然れば則ち古人の震怒は、将に以て悪を懲らさんとす。今の威罰は、姦を長ずる所以なり。此れ尭舜の心に非ざるなり。禹湯の事に非ざるなり。書に曰く、我を撫すれば則ち后、我を虐すれば則ち讎なり、と。孫卿子曰く、君は舟なり。庶人は水なり。水は舟を載する所以、亦、舟を覆す所以なり、と。孔子曰く、魚は水を失へば則ち死す。水は魚を失ふとも猶ほ水為るなり、と。故に尭舜は戦戦慄慄として、日に一日を慎む。安んぞ之を深思せざる可けんや。安んぞ之を熟慮せざる可けんや。〔▽五九七頁〕
夫れ大臣に委ぬるに大体を以てし、小臣を責むるに小事を以てするは、国を為むるの常なり。治を為すの道なり。今、之に委ぬるに職を以てするには、則ち大臣を重んじて小臣を軽んず。事有るに至りては、則ち小臣を信じて大臣を疑ふ。其の軽んずる所を信じ、其の重んずる所を疑ひ、将に至治を求めんとするも、其れ得可けんや。又、政は恒有ることを貴び、屡々易ふるを求めず。今或は小臣を責むるに大体を以てし、或は大臣を責むるに小事を以てす。小臣は其の拠るところに非ざるに乗じ、大臣は其の守る所を失ふ。大臣は或は小過を以て罪を獲、小臣は或は大体を以て罰を受く。職、其の位に非ず、罰、其の罪に非ず。其の私無からんことを欲し、其の力を尽くさんことを求むるは、亦難からずや。小臣は委ぬるに大事を以てす可からず、大臣は責むるに小罪を以てす可からず。任ずるに大官を以てして、其の細過を求めば、刀筆の吏、旨に順ひ風を承け、文を舞はし法を弄し、其の罪を曲成す。自ら陳ぶるや、則ち以て心、辜に伏せずと為す。言はざるや、則ち以て犯す所皆実なりと為す。進退惟れ谷まり、能く自ら明かにする莫し。能く自ら明かにする莫ければ、則ち苟くも禍を免れんことを求む。大臣苟くも免るれば、則ち譎詐萌生す。譎詐萌生すれば、則ち矯偽、俗を成す。矯偽、俗を成せば、則ち以て至理に臻る可からざるなり。〔▽五九八-九頁〕
又、大臣に委任するは、其の力を尽くさんことを欲す。官闕くる有る毎に、其の人を取るを責む。或は知る所を言へば、則ち以て私意と為す。避忌する所有れば、則ち以て尽くさずと為す。若し挙ぐること其の人を得ば、何ぞ故旧を嫌はん。若し挙ぐること其の任に非ざれば、何ぞ疎遠を貴ばん。之を待するに未だ誠信を尽くさざれば、何を以て其の忠恕を責めんや。臣、或は之を失ふ有りと雖も、君も亦未だ得たりと為さざるなり。〔▽六〇〇-一頁〕
夫れ上の下を信ぜざるは、必ず以て、下、信ず可き無しと為す。若し必ず、下、信ず可き無ければ、則ち上も亦疑ひ有らん。礼に曰く、上の人疑へば、則ち百姓惑ふ。下、知り難ければ、則ち君長労す、と。上下相疑へば、則ち以て至理を言ふ可からず。当今、群臣の内、遠く一方に有り、流言三たび至りて、杼を投ぜざる者は、臣竊かに思ひ度るに、未だ其の人を見ず。夫れ四海の広き、民庶の衆きを以て、豈に一二の之を信ず可きもの無からんや。蓋し之を信ずれば、則ち信ず可からざる者無し。之を疑へば、則ち信ず可き者無し。豈に独り臣の過ならんや。〔▽六〇一-二頁〕
夫れ一介の庸夫を以て、結びて交友と為れば、身を以て相許し、死すとも渝らず。況んや君臣の契合は、実に魚水に同じ。君は尭舜為り。臣は稷契為るが若き、豈に一事に遇へば則ち志を変じ、小利を見れば則ち心を易ふること有らんや。此れ、下の忠を立つること、未だ明著なる能はずと雖も、亦、上の不信を懐きて之を待すること過薄なるの致す所に由る。此れ豈に君は臣を使ふに礼を以てし、臣は君に事ふるに忠を以てするならんや。陛下の聖明を以て、当今の功業を以て、誠に能く博く時俊を求め、上下、心を同じくせば、則ち三皇は追ひて四にす可く、五帝は俯して六にす可からん。夏殷周漢は、夫れ何ぞ数ふるに足らん、と。太宗深く之を嘉納し、駿馬一匹を賜ふ。〔▽六〇三頁〕

第十章

貞観十四年、太宗、礼官に謂ひて曰く、同爨すら尚ほ*し麻(しま)の恩有れども、嫂叔には服無し。又、舅と姨とは、親疎相似たれども、服紀殊なる有るは、未だ礼を得たりと為さず。宜しく学者を集めて詳議すべし。余、親重くして服軽き者有らば、亦附して奏文せよ、と。〔▽六〇四頁〕
是の日、尚書八座、礼官と与に議を定めて曰く、竊に之を聞く、礼は、嫌疑を決死、猶豫を定め、同異を別ち、是非を明かにする所以の者なり。豈に天従り下るに非ず、地従り出づるに非ず、人情のみ。人道の先にする所は、九族を敦睦するに在り。九族敦睦なるは、親を親とするに由り、近きを以て遠きに及ぼす。親族等差有り、故に喪紀に降殺有り。恩の薄厚に随ひ、皆、情を称りて以て文を立つ。〔▽六〇五頁〕
原ぬるに夫れ舅と姨とは、同気為りと雖も、之を母に推せば、軽重相懸たる。何となれば則ち舅は母の本宗為り、姨は外成他姓為り。之を母の族に求むるに、姨は焉に預らず。之を経史に考ふるに、舅は誠に重しと為す。故に周王、斉を念ひ、是を舅甥の国と称す。秦伯、晋を懐ひ、実に渭陽の詩に切なり。今、舅は、服、一時為るに止まり、姨の為めには喪に居ること五月なるは、名に徇ひ実を喪ひ、末を逐ひ本を棄つ。此れ古人の情、或は未だ達せざる有り。宜しく損益すべき所、寔に茲に在るか。〔▽六〇六頁〕
礼記に曰く、兄弟の子は猶ほ子のごとくするは、蓋し引きて之を進むるなり。嫂叔の服せざるは、蓋し推して之を遠ざくるなり、と。礼に継父同居すれば、則ち之が為めに期す。未だ嘗て同居せざれば、則ち為めに服せず。従母の夫、舅の妻、二の夫の人相為めに服す、と。或は曰く、同爨は*し麻(しま)す、と。然れば則ち継父従母の夫は、竝びに骨肉に非ず。服の重きは同爨に由り、恩の軽きは異居に在り。固に知る、服を制するは、名に継ぐと雖も、蓋し亦恩の厚薄に縁る者なり。或は長年の嫂有り、孩童の叔に遇ひ、劬労鞠養し、情、所生の若く、飢を分ち寒を共にし、契闊偕老するは、同居の継父に譬ふ。他人の同爨に方ぶるに、情義の深浅、寧ぞ日を同じくして言ふ可けんや。其の生に在るや、乃ち愛、骨肉に同じく、其の死に於けるや、則ち推して之を遠ざくるは、之を本源に求むるに、深く未だ喩らざる所なり。若し推して之を遠ざくるを是と為さば、則ち生きて居を共にす可からず。生きて居を共にするを是と為さば、則ち死して行路に同じくす可からず。其の生を重くして其の死を軽くし、其の始を厚くして其の終を薄くするは、情に称ひて文を立つること、其の義安くにか在る。〔▽六〇七-八頁〕
且つ嫂に事へて称せらるるもの、載籍、一に非ず。鄭忠虞は則ち恩礼甚だ篤し。顔弘都は則ち誠を竭くして感を致す。馬援は則ち見るや必ず冠す。*孔きゅう(こうきゅう)は則ち之を哭するに位を為る。此れ竝びに、躬、教義を践み、仁、孝友に深し。其の行ふ所の旨を察するに、豈に先覚者に非ずや。但だ時に于て、上に哲王無く、礼、下の議する所に非ず、遂に深情をして千載に鬱し、至理をして万古に蔵れしむ。其の来ること久し。豈に惜からずや。〔▽六〇九頁〕
今、陛下以為へらく尊卑の序、煥乎として已に備はると雖も、喪紀の制、或は情礼未だ安からず、と。爰に秩宗に命じ、詳議損益せしむ。臣等、明旨を奉遵し、類に触れて傍く求め、群経を*採せき(さいせき)し、伝記を討論し、或は抑へ或は引き、名を兼ね実を兼ね、其の余り有るを損し、其の足らざるを益し、無文の礼をして咸く秩し、敦睦の情をして畢く挙がらしめ、薄俗を既往に変じ、篤義を将来に垂る。信に六籍の談ずる能はざる所、百王を超えて独り得る者なり。〔▽六一〇頁〕
謹みて按ずるに、曾祖父母は、旧、斉衰三月に服す。請ふ加へて斉衰五月と為さん。嫡子の婦は、旧、大功に服す。今、請ふ、加へて期と為さん。衆子の婦は、旧、小功に服す。今、請ふ兄弟の子婦と同じく大功九月と為さん。嫂叔は、旧、服無し。今、請ふ小功五月とせん。其の弟の妻及び夫の兄に服することも、亦小功五月とせん。舅は、旧、*し麻(しま)に服す。請ふ従母と同じく小功に服せん、と。詔して其の議に従ふ。此れ皆魏徴の詞なり。〔▽六一一頁〕

第十一章

貞観十七年十二月癸丑、太宗、侍臣に謂ひて曰く、今日は是れ朕の生日なり。俗間、生日を以て喜楽す可しと為す。朕の情に在りては、還つて感思を成す。天下に君臨し、富、四海を有ちて、而も侍養を追求するに、永く得可からざるなり。仲由、負米の恨を懐く、良に以有るなり。況んや詩に云ふ、哀哀たる父母、我を生みて劬労す、と。奈何ぞ本劬労の辰為るを以て、遂に宴楽の事を為さん。甚だ是れ礼度に乖く、と。因りて泣下る。〔▽六一二-三頁〕

第十二章

太常少卿祖孝孫、定むる所の新楽を奏す。太宗云く、礼楽を作らるるは、是れ聖人、物に象りて教を設け、以て*そん節(そんせつ)を為すなり。治政の善悪は、豈に此に之れ由らんや、と。御史大夫杜淹対へて曰く、前代の興亡は、実に楽に由る。陳の将に亡びんとするや、玉樹後庭花を為る。斉の将に亡びんとするや、而ち伴侶を為る。行路、之を聞き、悲泣せざるは莫し。所謂亡国の音なり。是を以て之を観れば、実に楽に由る、と。〔▽六一四頁〕
太宗曰く、然らず。夫れ音声、豈に能く人を感ぜしめんや。歓ぶ者之を聞けば則ち悦び、憂ふる者之を聴けば則ち悲む。悲悦は人心に在り、楽に由るに非ざるなり。将に亡びんとするの政は、其の人必ず苦むこと然り。苦心の感ずる所、故に聞きて悲むのみ。何の楽声の哀怨か、能く悦ぶ者をして悲ましむること有らんや。今、玉樹後庭花・伴侶の曲、其の声具に存す。朕当に公の為めに之を奏すべし。公の必ず悲まざらんことを知るのみ、と。尚書右丞魏徴進みて曰く、古人称す、礼と云ひ礼と云ふ、玉帛を云はんや。楽と云ひ楽と云ふ、鐘鼓を云はんや、と。楽は人の和に在り、音調に由らず、と。太宗、之を然りとす。〔▽六一五頁〕

第十三章

貞観十七年、太常卿*蕭う(しょうう)、奏して言はく、今、破陣の楽舞は、天下の共に伝ふる所なり。然れども盛徳の形容を美するには、尚ほ未だ尽くさざる所有り。前後破る所の、劉武周・薛挙・竇建徳・王世充等、臣願はくは、其の形状を図し、以て戦勝攻取の容を写さん、と。〔▽六一六頁〕
太宗曰く、四方未だ定まらざるに縁るに当りて、因りて天下の為めに、焚を救ひ溺を拯ふ。故に已を獲ずして、乃ち征伐の事を行へり。人間に遂に此の舞有る所以なり。国家、茲に因り、亦、其の曲を製す。然れども雅楽の容は、止だ其の梗概を陳ぬるを得。若し委曲に之を写さば、則ち其の状、識り易からん。朕以ふに見在の将相、多く曾経て其の駆使を受けたる者有り、既に一日の君臣と為る。今若し重ねて其の擒獲せらるるの勢を見れば、必ず忍びざる所有らん。我、此等の為めに、為さざる所以なり、と。*蕭う(しょうう)謝して曰く、此の事、臣が思慮の及ぶ所に非ず、と。〔▽六一七頁〕