貞観政要 2000年01月 発行
巻第七 崇儒学第二十七
第一章
太宗初めて祚を践み、即ち正殿の左に於て、弘文館を置く。天下の文儒を精選し、本官を以て兼ねて学士に署せしめ、給するに五品の珍膳を以てし、更日に宿直し、朝を聴くの隙に、引きて内殿に入れ、墳典を討論し、政事を商略し、或は夜分に至りて乃ち罷む。又、詔して、勲賢三品以上の子孫を弘文館生と為す。〔▽五四九頁〕
第二章
貞観二年に至り、詔りして、周公を先聖と為すを停め、始めて孔子の廟堂を国学に立て、旧典に稽式し、仲尼を以て先聖と為し、顔子を先師と為し、而して辺豆干戚の容、始めて茲に備はる。是の歳、大いに天下の儒士を徴し、擢づるに不次を以てし、布きて廊廟に在る者甚だ衆し。学生の一大経に通ずる已上は、咸く吏に署するを得たり。国学、学舎を増築すること四百余間、国学四門博士、又、生員を増置す。其の書算、各々博士・学生を置き、以て衆芸を備ふ。玄武門の屯営飛騎より、亦、博士を給し、授くるに経業を以てす。能く経に通ずる者有らば、貢挙に預かるを聴す。〔▽五五〇-一頁〕
太宗又数々国学に幸し、祭酒・司業・博士をして講論せしめ、畢りて各々賜ふに束帛を以てす。四方の儒生、書を負ひて至る者、蓋し千を以て数ふ。俄にして高昌・高麗・新羅等の諸夷の酋長も、亦子弟を遣はして学に入らんことを請ふ。是に於て、国学の内、鼓篋して講筵に升る者、幾ど万人に至る。儒学の盛、古昔も未だ有らざるなり。〔▽五五二頁〕
第三章
十四年、詔して曰く、梁の皇侃・*ちょ仲都(ちょちゅうと)、周の熊安生・沈重、陳の沈文阿・周弘正・張譏、隋の何妥・*劉げん(りゅうげん)等は、竝びに前代の明儒にして、経術、紀す可し。加ふるに、所在の学徒、多く其の講疏を行ふを以てす。宜しく優異を加へ、以て後生を勧むべし。其の子孫の見在する者を訪ひ、名を録して奏聞す可し、と。〔▽五五三頁〕
二十一年、又詔して曰く、左丘明・卜子夏・公羊高・穀梁赤・伏生勝・高堂生・載聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・杜子春・馬融・盧植・鄭玄・服虔・何休・王粛・王弼・杜預・*范ねい(はんねい)等二十有一人は、竝びに其の書を用ひ、国冑に垂る。既に其の道を行へば、理、合に褒崇すべし。今より、太学に事有るときは、竝びに尼父の廟堂に配享す可し、と。其の儒学を尊崇すること此の如し。〔▽五五四頁〕
第四章
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、政を為すの要は、惟だ人を得るに有り。用ふること其の才に非ざれば、必ず理を致し難し。今、任用する所は、必ず須く徳行・学識を以て本と為すべし、と。諌議大夫王珪曰く、人臣と為りて、若し学業無くんば、前言往行を識る能はず、豈に大任に堪へんや。漢の昭帝の時は、詐りて衛太子と称するもの有り、聚まり観る者数万人、衆、皆、惑を致す。雋不疑、断ずるに*かいかい(かいかい)の事を以てす。昭帝曰く、公卿大臣は当に経術ありて古義に明かなる者を用ふべし、と。此れ則ち固に刀筆の俗吏の比擬す可き所に非ず、と。太宗曰く、信に卿の言の如し、と。〔▽五五六頁〕
第五章
貞観四年、太宗、経籍、聖を去ること久遠にして、文字訛謬せるを以て、前の中書侍郎顔師古に詔して、秘書省に於て五経を攷定せしむ。功畢るに及びて、復た尚書左僕射房玄齢に詔し、諸儒を集めて重ねて詳議を加へしむ。時に諸儒、師説を伝習し、舛謬已に久しく、皆共に之を非とし、異端鋒起す。師古、輒ち晋宋以来の古本を引きて、方に随ひて暁答し、援拠詳明にして、皆、其の意表に出で、諸儒、歎服せざるは莫し。太宗、善しと称し、帛五百匹を賜ひ、通直散騎常侍を加授す。仍りて其の定むる所の書を天下に頒ち、学者をして焉を習はしむ。〔▽五五七-八頁〕
太宗、又、儒学に門多く、章句繁雑なるを以て、師古に詔して国子祭酒孔穎達等諸儒と、五経の疏義を撰定せしむ。凡て一百八十巻、名づけて五経正義と曰ひ、国学に付して施行す。〔▽五五八-九頁〕
第六章
太宗嘗て中書令岑文本に謂ひて曰く、夫れ人、定性を稟くと雖も、必ず須く博く学びて以て其の道を成すべし。亦、猶ほ蜃の性は水を含めども、月光を待ちて水垂れ、木の性は火を懐けども、燧動くを待ちて焔発するがごとし。人の性は霊を含めども、学成るを待ちて美と為る。是を以て、蘇秦は股を刺し、董生帷を垂る。道芸を勤めざれば、則ち其の名、立たず、と。文本曰く、夫れ人の性は相近し、情は則ち遷移す。必ず須く学を以て情を飾り、以て其の性を成すべし。礼に云く、玉、琢かざれば、器を成さず。人、学ばざれば、道を知らず、と。所以に古人、学問に勤むる、之を懿徳と謂ふ、と。〔▽五五九-六〇頁〕