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貞観政要 2000年01月 発行

巻第六 論奢縦第二十五

第一章

貞観二年、太宗、黄門侍郎王珪に謂ひて曰く、隋の開皇十四年、大いに旱し、人多く飢乏す。是の時、倉庫盈溢すれども、竟に賑給するを許さず。乃ち百姓をして糧を逐はしむ。隋文、百姓を憐まずして、倉庫を惜む。末年に至る比、天下の儲積を計るに、五六十年に供するを得。煬帝、此の富饒を恃む。奢華無道にして、遂に滅亡を致せる所以なり。煬帝の国を失ひしも、亦其の父に由る。〔▽五二二-三頁〕
凡そ国を理むる者は、務めて人に積み、其の倉庫を盈たすに在らず。古人云く、百姓足らずんば、君孰れと与にか足らん、と。但だ倉庫をして凶年に備ふ可からしむ。此の外何ぞ儲畜を煩はさん。後嗣若し賢ならば、自ら能く其の天下を保たん。如し其れ不肖ならば、多く倉庫を積むも、徒に其の奢侈を益さん。危亡の本なり、と。〔▽五二三頁〕

第二章

貞観七年、太宗、郭孝恪に西州道行軍総管を授け、歩騎三千人を率ゐ、銀山道に出で、以て焉耆を伐たしむ。夜、往きて其の城を掩襲して之を破り、其の王、龍突騎友を虜にす。太宗、侍臣に謂ひて曰く、計るに八月中旬郭孝恪発去すれば、廿日に至りて応に到るべし。必ず廿二日を以て焉耆を破らん。当に使を馳せて報ずべし。朕、其の行程を計るに、今日応に好消息有るべし、と。言未だ訖らざるに、騎至りて云ふ、孝恪已に焉耆を破る、と。太宗悦ぶ。〔▽五二四頁〕
亀茲を征するに及び、孝恪を以て崑山道副大総管と為す。其の都城を破るや、孝恪を留めて之を守らしむ。余軍、道を分ちて別に進む。城外未だ賓せず。孝恪因りて乃ち出でて外に営す。亀茲の人、来たりて孝恪に謂ふもの有りて曰く、那利は我の国相なり。人心素より帰す。今、亡げて野に在り。必ず変を為すを思はん。城中の人、頗る異志有り。公其れ之に備へよ、と。孝恪以て虞と為さず。那利等、果して衆万余を率ゐて、私かに城内の降胡と相知り、表裏応を為す。孝恪、警候を失す。賊、城に入りて鼓噪す。孝恪、始めて之を覚る。胡矢の中つる所と為りて死す。〔▽五二五頁〕
孝恪、性、奢侈なり。家の僕妾より以て器玩に及ぶまで、務めて鮮華を極む。軍中に在りと雖も、床榻什器、皆、飾るに金玉を以てす。仍りて金床華帳充具を以て、以て行軍大総管阿史那社爾に遣る。社爾、一も受くる所無し。太宗、之を聞き乃ち曰く、二将、何ぞ優劣同じからざるや。郭孝恪、今、冦虜の屠る所と為る自ら伊の咎を招くと謂ふ可きのみ、と。〔▽五二六頁〕

第三章

貞観九年、太宗、魏徴に謂ひて曰く、頃、周斉の史を読むに、末代の亡国の主、悪を為すこと多く相類するなり。斉主は深く奢侈を好む。所有、府庫、之を用ひて略々尽く。関子に至るに及ぶまで、税斂せざるは無し。朕常に謂へらく、此の輩猶ほ*ざん人(ざんじん)の自ら其の身を食ふが如し。肉尽くれば必ず死す、と。人君賦斂已まざれば、百姓既に弊れ、其の君も亦亡ぶ。斉主即ち是れなり。然れども天元と斉主と、若為か優劣せん、と。〔▽五二七頁〕
徴対へて曰く、二主、国を亡ぼすことは同じと雖も、其の行は則ち別なり。斉主は*ぜん弱(ぜんじゃく)にして、政、多門に出で、国に綱紀無く、遂に滅亡に至れり。天元は、性を立つること凶にして強、威福、己に在り。国を亡ぼすの事、皆、其の身に在り。此を以て之を論ずれば、斉主を劣れりと為す、と。〔▽五二八頁〕

第四章

貞観十一年、太宗、所司をして金銀器物五十事を造らしむ。侍御史馬周、上疏して曰く、臣、前代を歴観するに、夏殷より漢氏の天下を有つに及ぶまで、伝祚相継ぎ、多き者は八百余年、少き者も猶ほ四五百年。皆、徳を積み業を累ね、恩、人心に結ぶが為めなり。豈に僻王無からんや。前哲に頼りて以て免る。魏晋より已還、降りて周隋に及ぶまで、多き者も五六十年に過ぎず、少き者は纔に二三十年にして亡ぶ。良に創業の君、恩化を広くするを務めず、当時僅に能く自ら守るも、後、遺徳の思ふ可き無きに由る。故に伝嗣の主、政教少しく衰ふれば、一夫大呼して、天下土崩せり。〔▽五二九頁〕
今、陛下、大功を以て天下を定むと雖も、而も徳を積むこと日浅し。固に当に禹湯文武の道を崇び、広く徳化を施し、恩をして余地有らしめ、子孫の為めに万代の業を立つるを思ふべし。豈に但だ政教をして失する無からしめ、以て当年を持たんと欲するのみにならんや。〔▽五三〇頁〕
且つ古より明王・聖主は、能く身に節倹し、恩、人に加ふる有り。二者を是れ務む。故に其の下、之を愛すること父母の如く、之を仰ぐこと日月の如く、之を敬すること神明の如く、之を畏るること雷霆の如し。此れ其の福祚遐長にして、禍乱作らざる所以の者なり。〔▽五三一頁〕
臣愚、頃聞く、京師の営造、供奉の器物、頗る糜費多く、百姓或は嗟怨の言有り、と。陛下、少きとき人間に処り、百姓の辛苦、前代の成敗を知る。目の親しく見る所、尚ほ猶ほ此の如し。而るに皇太子、深宮に生長し、外事を更ず。則ち万歳の後、固に聖慮の当に憂ふべき所なり。臣竊に往代以来の成敗の事を尋ぬるに、但だ黎庶怨み叛きて、聚まりて盗賊を為す有れば、其の国、即ち滅びざるは無し。人主、改悔せんと欲すと雖も、未だ重ねて能く安全なる者有らず。〔▽五三一-二頁〕
凡そ、政教を修むるには、当に之を修む可きの時に修むべし。若し事変一たび起りて後に之を悔ゆるは、則ち益無きなり。故に人主、前代の亡ぶるを見る毎に、則ち其の政教の由りて喪ぶる所を知る。而も皆、其の身の失有るを知らず。是を以て殷紂、夏桀の亡びしを笑ひ、而して幽も亦殷紂の滅びしを笑ふ。隋帝、大業の初、又、周斉の国を失ひしを笑ふ。然して今の隋の煬帝を視ること、亦猶ほ煬帝の周斉を視しがごときなり。故に京房、漢の元帝に謂ひて曰く、臣、後の今を視ること、亦猶ほ今の古を視るがごとからんことを恐ふ、と。此の言、誡めざる可からざるなり。太宗曰く、近ごろ少しく随身の器物を造らしむ。意はざりき百姓遂に嗟怨有らんとは。此れ則ち朕の過誤なり、と。乃ち命じて之を停めしむ。〔▽五三三頁〕