貞観政要 2000年01月 発行
巻第六 論悔過第二十四
第一章
貞観二年、太宗、房玄齢に謂ひて曰く、人と為りては大いに須く学問すべし。朕、往に群兇未だ定まらざるが為めに、東西征討し、躬、戎事を親らし、書を読むに暇あらず。比来、四海安静、身、殿堂に処るも、自ら書巻を執る能はず、人をして読ましめて之を聴く。君臣父子、政教仁義の道、竝びに書内に在り。古人云ふ、学ばざれば牆面す。事に莅みて惟れ繁なり、と。徒言ならざるなり。却つて少小の時の行事を省み、大いに其の非なるを覚ゆるなり、と。〔▽五一四頁〕
第二章
貞観中、太子承乾、多く法度を修めず。魏王泰、尤も才能を以て、太宗の重んずる所と為る。特に泰に詔して移りて武徳殿に居らしむ。魏徴上疏して諌めて曰く、此の殿は内に在り、処所寛閑にして、参奉往来するに、実に隠近と為す。但だ魏王は既に是れ陛下の愛子なり。陛下須く常に安全を保ち、毎事、其の驕奢を抑へ、嫌疑の地に処らざらしむべし。今、移りて此の殿に居り、便ち東宮の西に在り。或ひと云ふ、海陵、昔居り、時に海内陵替し、時人以て不可なりと為す。時異なり事異なると雖も、猶ほ人の多言せんことを恐る。又、王の本心も、亦、寧息せざらん。既に能く寵を以て懼を為す。伏して願はくは人の美を成さんことを、と。太宗曰く、朕、幾ど思量せず、大いに是れ錯誤す、と。遂に泰を遣りて本第に帰らしむ。〔▽五一五-六頁〕
第三章
貞観五年、太宗、侍臣等に謂ひて曰く、斉の文宣は何如なる人君ぞや、と。魏徴対へて曰く、非常なる顛狂なり。然れども人の共に道理を争ふ有りて、自ら短屈を知れば即ち能く之に従ふ。臣聞く、斉の時、*魏がい(ぎがい)先に青州の長史に任ぜらる。嘗て梁に使し、還りて光州の長史に除せらるるも、就かず。揚遵彦、之を奏す。文宣帝、大いに怒り、召して之を責む。*がい(がい)曰く、先に青州大藩の長史に任ぜられ、今使労有り。更に罪過無きに、反りて光州を授けらる。就かざる所以なり、と。乃ち顧みて遵彦に謂ひて曰く、此の漢、理有り、と。因りて命じて之を捨つ、と。〔▽五一七頁〕
太宗曰く、往者盧祖尚、官を受くるを肯ぜず、朕遂に之を殺す。文宣帝、復た癲狂なりと雖も、尚ほ能く容忍す。此の一事、朕の如かざる所なり。祖尚が処分を受けざるは、人臣の礼を失すと雖も、朕即ち之を殺す可けんや。大いに是れ急なるを傷む。一たび死せば再び生く可からず。悔ゆとも及ぶ所無し。宜く其の故官蔭を復すべし、と。〔▽五一八頁〕
第四章
貞観十七年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、人情の至痛なる者は、親を喪ふより過ぎたるは莫きなり。故に孔子曰く、三年の喪は、天下の痛喪なり、と。天子より庶人に達するなり。又曰く、何ぞ必ずしも高宗のみならん。古の人皆然り、と。近代の帝王、遂に漢文の日を以て月に易ふるの制を行ひ、甚だ礼典に乖く。朕、昨、徐幹の中論の復三年喪篇を見るに、義理甚だ精審なり。深く恨むらくは早く此の書を見ず、行ふ所太だ疏略なりしを。但だ自ら咎め自ら責むるを知るのみ。追悔するも何ぞ及ばん、と。因つて悲泣すること久しうす。〔▽五一九-二〇頁〕
第五章
貞観十八年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、夫れ人臣の帝王に対ふるは、多く意を承け旨に順ひ、甘言して容を取る。朕、今、己の過を聞かんと欲す。卿等、皆、直言すべし、と。散騎常侍*劉き(りゅうき)対へて曰く、陛下、公卿と事を論じ、及び上書する者有る毎に、其の旨に称はざるを以て、或は面のあたり詰難を加ふ。慙ぢ退かざるは無し。恐らくは、直言を誘進するの道に非ざらん、と。太宗曰く、朕も亦此の問難有りしを悔ゆ。卿が言是なり。当に卿の為めに之を改むべし、と。〔▽五二一頁〕