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貞観政要 2000年01月 発行

巻第六 杜讒佞第二十三

第一章

貞観の初、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、前代の讒佞の徒を観るに、皆、国の*ぼう賊(ぼうぞく)なり。或は言を巧にして色を令くして、朋黨比周す。暗主庸君の若きは、之を以て迷惑せざるは莫し。忠臣孝子、血に泣き冤を銜む所以なり。故に叢蘭、茂らんと欲すれば、秋風、之を敗る。王者、明かならんと欲すれば、讒人、之を蔽ふ。此の事、史籍に著る、具に道ふ能はず。斉隋の間の讒譖の事の如きに至りては、耳目の接する所の者、略ぼ卿等の与に之を言はん。〔▽四九八頁〕
斛律明月は、斉朝の良将にして、威、敵国に振ふ。周家、毎歳、汾河の氷を*き(き)るは、斉兵の西に渡るを慮りてなり。明月が祖孝徴に讒構せられて誅に伏するに及びて、周人、始めて斉を呑むの志有り。*高けい(こうけい)は、経国の大才有り、隋の文帝の為めに、覇業を賛け成し、国政を知ること二十余載、天下頼りて以て康寧なり。文帝惟だ婦言を是れ用ひ、特に擯斥せしむ。煬帝の殺す所と為るに及びて、刑政是に由りて衰へ壊る。〔▽四九九頁〕
又、隋の太子勇は、撫軍監国たること、凡そ二十年間、固に亦早く定分有り。揚素、主を欺き上を罔ひ、良善を賊害し、父子の道をして、一朝にして、天性を滅せしむ。逆乱の源、此より開けり。隋文既に嫡庶を混淆し、竟に禍、其の身に及び、宗社尋いで亦覆敗せり。古人云ふ、代乱るれば則ち讒、直に勝つ、と。誠に妄言に非ず。〔▽五〇〇頁〕
朕毎に微を防ぎ漸を杜ぎ、用つて讒構の端を絶つ。猶ほ心力の至らざる所、或は覚悟する能はざらんことを恐る。前史に云ふ、猛獣、山林に処れば、*黎かく(れいかく)、之が為めに、採らず。直臣、朝廷に在れば、姦邪、之が為めに謀を寝む、と。此れ実に朕が群公に望む所なり、と。〔▽五〇一頁〕
魏徴曰く、礼に云ふ、其の覩ざる所を誡慎し、其の聞かざる所を恐懼す、と。詩に云ふ、*がい悌(がいてい)の君子、讒言を信ずる無れ。讒言は極り罔く、交々四国を乱る、と。又、孔子、利口の邦家を覆すを悪む、と。蓋し此が為めなり。臣嘗て古より国を有ち家を有つ者を観るに、若し曲げて讒譖を受け、妄に忠良を害すれば、必ず宗廟丘墟、市朝霜露たらん。願はくは陛下深く之を慎まんことを、と。〔▽五〇二頁〕

第二章

尚書右僕射杜如晦奏言す。監察御史陳師合、抜士論を上り、兼ねて人の思慮は限有り、一人、数職を総知す可からず、と言ふ。臣等を論ずるに似たり、と。太宗、載冑に謂ひて曰く、朕、至公を以て天下を理む。今、玄齢、如晦を任用するは、勲旧の為めにするに非ず、其の才有るを以ての故なり。此の人妄に毀謗を事とするは、正に我が君臣を離間せんとす。昔、蜀の後主は昏弱、斉の文宣は狂勃なるに、国、治を称する者は、諸葛亮・揚遵彦を以て之を猜はざればなり。朕、今、如晦等に任ずるも、亦復た此の如し、と。是に於て、師合を嶺外に流す。〔▽五〇三頁〕

第三章

貞観中、太宗、玄齢・如晦等に謂ひて曰く、古より帝王、上、天心に合して、以て太平を致す者は、皆、股肱の力なり。朕、比、直諌の路を開く者は、冤屈を知らんことを庶ひ、規諌を聞かんことを欲す。所有、封事を上る人、皆多く百官を告訐す。細事にして殊に採る可き無し。〔▽五〇四-五頁〕
朕、前王を歴選するに、但だ、君、臣を疑ふ有れば、則ち下情、上達すること能はず。忠を尽くし慮を極めんことを求めんと欲するも、何ぞ得可けんや。而るに無識の人は、務めて讒毀を行ひ、交々君臣を乱る。殊に国に益あるに非ず。今より已後、上書して人の小悪を訐く者有らば、朕、当に讒人の罪を以て之を罪すべし、と。〔▽五〇五頁〕

第四章

魏徴、秘書監と為る。嘗て其の謀反を告ぐる者有り。太宗曰く、徴は本、吾の讎なり。正に事ふる所に忠なるを以て、遂に抜きて之を用ふ。何ぞ乃ち妄りに讒構を生ずるや、と。竟に徴を問はず、遽に告ぐる所の者を斬る。〔▽五〇六頁〕

第五章

貞観十年、権貴、魏徴を疾む者有り。毎に太宗に言ひて曰く、魏徴、凡そ諌諍する所、委曲反覆し、従はずんば止まず。竟に陛下を以て幼主と為し、長君に同じからざらしめんと欲す、と。太宗曰く、朕は是れ達官の子弟にして、少きより学問せず、唯だ弓馬を好めり。起義に至りて、即ち大功有り。既に封ぜられて王と為り、偏に寵愛を蒙る。理道政術、都て心に留めず。亦、解する所に非ず。〔▽五〇七頁〕
太子と為り、初めて東宮に入るに及び、天下を安んぜんことを思ひ、己に克ちて理を為さんと欲す。唯だ魏徴と王珪とのみ、我を導くに礼義を以てし、我を弘むるに政道を以てす。我、勉強して之に従ひ、大いに其の利益なるを覚り、力行して息まず、以て今日の安寧を致せり。竝びに是れ魏徴等の力なり。特に礼重を加へ、毎事聴従する所以は、之に私するに非ざるなり、と。言ふ者乃ち慙ぢて止む。太宗、呵して之を出さしむ。〔▽五〇八頁〕

第六章

貞観十一年、長安県人霍行斌、変を告げて言ふ、尚書右丞魏徴、事に預る、と。太宗、之を覧て、侍臣に謂ひて曰く、此の言太だ由緒無し。竝びに問ふを須ひず。行斌は宜しく所司に付して罪を理むべし、と。徴曰く、臣、近侍を蒙り、未だ善を以て聞えず。大逆の名あるは、罪、万死に合す。縦ひ陛下曲げて矜照を垂るるも、臣将た何を以て自ら安んぜんや。請ふ鞠尋されんことを、と。仍りて頓首拝謝す。太宗曰く、卿が仁を累ね行を積むは、朕の悉く知る所なり。愚人相謗るは、豈に能く己に由らんや。謝を致すを須ひず、と。〔▽五〇九-一〇頁〕

第七章

太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、昨日、皇甫徳参上書して言ふ、朕が洛州の宮殿を修営するは、是れ民を労するなり。地租を収むるは、是れ厚く斂するなり。俗の高髻するは、是れ宮中の化する所なり、と。此の人の心を観るに、必ず国家をして一人を役せず、一租を収めず、宮人に皆、髪無からしめんと欲せば、乃ち其の意に称ふのみ。事既に*さん謗(さんぼう)なれば、当に須く罪を論ずべし、と。〔▽五一〇-一頁〕
魏徴進んで曰く、賈誼、漢文の時に当り、上書して曰く、為めに痛哭す可き者三、為めに長嘆息す可き者五、と。古より上書は、率ね激切なるもの多し。若し激切ならざれば、則ち人主の心を起す能はず。激切は即ち*さん謗(さんぼう)に似たり。所謂狂夫の言、聖人択ぶ、なり。惟だ陛下の裁察するに在るのみ。責む可からざるなり、と。太宗曰く、朕初め此の人を責めんと欲す。但だ已に直言を進むを許せり。若し之を責むれば、則ち後に於て誰か敢て言はんや、と。絹二十匹を賜ひて帰らしむ。〔▽五一一-二頁〕〔類似▽一七八頁〕

第八章

貞観十六年、太宗、諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)に謂ひて曰く、卿、兼ねて起居に知たり。比来、我が行事の善悪を記するや否や、と。遂良曰く、史官の記は、君挙動すれば必ず書す。善は既に必ず書し、過も亦隠すこと無し、と。太宗曰く、朕、今、勤めて三事を行ふ。亦、史官が吾が悪を書せざらんことを望む。一には則ち前代の敗事に鑑み、以て元亀と為す。二には則ち善人を進用し、共に正道を成す。三には則ち群小を斥け棄て、讒言を聴かず。吾能く之を守り、終に転ぜざるなり、と。〔▽五一三頁〕