貞観政要 2000年01月 発行
巻第六 論謙譲第十九
第一章
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、人言ふ、天子と作れば、則ち自ら尊崇するを得、畏懼する所無し、と。朕は則ち以為へらく、正に合に自ら謙恭して、常に畏懼を懐くべし、と。昔、舜、禹を誡めて曰く、汝惟れ矜らず、天下、汝と能を争ふ莫し。汝惟れ伐らず、天下、汝と功を争ふ莫し、と。又、周易に云く、人道は盈を悪みて謙を好む、と。凡そ天子と為りて、若し惟だ自ら尊崇し、謙恭を守らざる者は、身に在りて儻し不是の事有りとも、誰か肯て顔を犯して諌諍せん。〔▽四七〇頁〕
朕、一言を出し一事を行ふを思ふ毎に、必ず上、皇天を畏れ、下、群臣を懼る。天は高けれども卑きに聴く、何ぞ畏れざるを得ん。群公卿士、皆、瞻仰せらる、何ぞ懼れざるを得ん。此を以て之を思ふに、但だ常に謙し常に懼るるを知れども、猶ほ天心及び百姓の意に称はざらんことを恐るるなり、と。〔▽四七一頁〕
魏徴曰く、古人云ふ、初有らざる靡く、克く終有るは鮮し、と。願はくは陛下、此の常に謙し、常に懼るるの道を守り、日、一日を慎まんことを。則ち宗社永く傾敗すること無からん。尭舜の太平なる所以は、実に此の法を用ふればなり、と。〔▽四七一-二頁〕
第二章
貞観三年、太宗、給事中孔穎達に問ひて曰く、論語に云ふ、能を以て不能に問ひ、多を以て寡に問ひ、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若し、と。何の謂ぞや、と。〔▽四七二頁〕
穎達対へて曰く、聖人の教を設くるは、人の謙光ならんことを欲し、己、能有りと雖も、自ら矜大にせず。仍ほ不能の人に就いて能事を求訪し、己の才芸、多しと雖も、猶ほ以て少しと為し、仍ほ寡少の人に就いて、更に益する所を求め、己の有りと雖も、其の状、無きが若く、己の実てりと雖も、其の容、虚しきが若し。惟だ匹夫庶人のみに非ず、帝王の徳も、亦当に此の如くなるべし。〔▽四七三頁〕
夫れ帝王は、内、神明を蘊み、外、玄黙を須ひ、深くして測る可からず、遠くして知る可からざらしむ。故に易に称す、蒙を以て正を養ひ、明夷を以て衆に莅む、と。若し其の位、尊極に居り、聡明を*げん耀(げんよう)し、才を以て人を陵ぎ、非を飾り諌を拒がば、則ち上下、情隔たり、君臣、道乖かん。古より滅亡するは、此に由らざるは莫きなり、と。太宗曰く、易に云ふ、労謙す、君子、終有り、吉、と。誠に卿の説く所の如し、と。詔して物二百段を賜ふ。〔▽四七三-四頁〕
第三章
河間王孝恭、武徳の初、封ぜられて趙郡王と為る。累りに東南道行臺尚書左僕射を授けらる。孝恭已に蕭銑・*輔公せき(ほこうせき)を討平し、遂に江淮及び嶺南道を領し、皆、之を統摂し、八方を専制し、威名甚だ盛んなり。礼部尚書に累遷す。孝恭、性惟だ退譲にして、驕矜自伐の色無し。時に特進江夏王道宗有り。尤も将略を以て名を馳せ、兼ねて学を好み、賢士を敬慕し、動きて礼譲を修む。太宗竝びに親待を加ふ。諸宗室の中、惟だ孝恭・道宗のみ、与に比を為すもの莫し。一代の宗英為り。〔▽四七五頁〕