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貞観政要 2000年01月 発行

巻第四 教戒太子諸王第十一

第一章

貞観七年、上、太子の左庶子于志寧、杜正倫に謂ひて曰く、卿等、太子を輔道する、当に須く為めに百姓の間の利害の事を説くべし。朕、年十八、猶ほ人間に在り、百姓の艱難、諳練せざるは莫し。帝位に居るに及びて、毎に商量処置す。或は時に乖疎有り、人の諌諍を得て、方に始めて覚悟す。若し忠諌する者為めに説くこと無くんば、何に因りて好事を行ひ得可けんや。況んや太子、深宮に生長し、百姓の艱難、都て聞見せざるをや。〔▽二九三頁〕
且つ人主は安危の繋る所なり。輒く驕縦を為す可からず。朕若し情を肆にして驕縦せんと欲せば、但だ勅を出して、諌むる者有らば即ち斬らん、と云はば、必ず天下の士庶、敢更にて直言を発する無きを知る。故に己に克ち精を励まし、諌諍を容納す。卿等当に須く此の意を以て共に其れ談説すべし。不是の事有るを見る毎に、宜しく極言切諌し、裨益する所と有らしむべきなり、と。〔▽二九四頁〕

第二章

貞観十八年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、古、世子に胎教する者有り。朕は即ち暇あらず。但だ近ごろ、太子を建立せしより、物に遇へば、必ず誨諭する有り。其の食に臨みて将に飯せんとするを見て、謂ひて曰く、汝、飯を知るや、と。対へて曰く、知らず、と。凡そ稼穡の艱難は、皆、人力より出づ。其の時を奪はざれば、常に此の飯有り、と。其の馬に乗るを見て、又謂ひて曰く、汝、馬を知るや、と。対へて曰く、知らず、と。曰く、能く人の労苦に代る者なり。時を以て消息し、其の力を尽くさざれば、則ち以て常に馬有る可きなり、と。其の船に乗るを見て、問ひて云く、汝、船を知るや、と。対へて曰く、知らず、と。曰く、船は人君に況ふる所以、水は黎庶に比する所以なり。水は能く船を載せ、又能く船を覆す。爾は方に人主たり。畏懼せざる可けんや、と。其の曲木の下に休するを見て、謂ひて曰く、汝、此の樹を知るや、と。対へて曰く、知らず、と。此の木は曲ると雖も、縄を得れば則ち正し。人君と為りて、無道なりと雖も、諌を受くれば、則ち聖なり。此れ亦、伝説の言ふ所なり。以て自ら鑒みる可し、と。〔▽二九五-六頁〕

第三章

貞観七年、太宗、侍中魏徴に謂ひて曰く、古より侯王、能く自ら保全する者は甚だ少し。皆、富貴に生長し、驕逸を好尚し、多くは君子に親しみ小人を遠ざくるを解せざるに由るの故のみ。朕が有らゆる子弟、前言往行を見しめんと欲し、其の以て規範と為さんことを冀ふ、と。因りて徴に命じ、古来の帝王の子弟の成敗の事を録せしめ、名づけて古より諸侯王善悪録と為し、以て諸王に賜ふ。〔▽二九七頁〕
其の序に曰く、夫の期に膺り命を受け、図を握り宇を御するを観るに、咸く懿親を建て、王室に藩屏とす。布きて方策に在り、得て言ふ可し。軒が二十五子を分ち、舜が一十六族を挙げしより、爰に周漢を歴て、以て陳隋に逮ぶまで、山河を分裂し、大いに盤石を啓く者衆し。或は王家に乂保し、時と昇降し、或は其の土宇を失ひ、祀られずして忽諸したり。然れども其の盛衰を考へ、其の興滅を察するに、功成り名立つは、咸く始封の君に資り、国喪び身亡ぶるは、多く継体の后に因る。〔▽二九八頁〕
其の故は何ぞや。始封の君は、時、草昧に逢ひ、王業の漢阻なるを見、父兄の憂勤せるを知る。是を以て、上に在りて驕らず、夙夜、懈らず、或は醴を設けて以て賢を求め、或は*そん(そん)を吐きて士に接す。故に能く忠言の耳に逆ふに甘んじ、百姓の潅心を得、至徳を生前に樹て、遺愛を身後に流す。夫の子孫継体に曁びて、多く太平に属し、深宮の中より生れ、婦人の手に長じ、高危を以て憂懼と為さず。豈に稼穡の艱難を知らんや。小人を昵近し、君子を疎遠し、哲婦に綢繆し、明徳に傲狠し、義を犯し礼に悖り、淫荒、度無く、典憲に遵はず、潜差、等を越え、一顧の権寵を恃み、便ち廃嫡の心を懐き、一事の微労に矜り、遂に厭く無きの望有り、忠貞の正路を棄て、*姦き(かんき)の迷塗を蹈み、諌に愎り卜に違ひ、往きて返らず。梁孝・斉冏の勲庸、淮南・東阿の才俊と雖も、摩霄の*逸かく(いつかく)を摧き、窮轍の涸鱗と成り、桓文の大功を棄て、梁董の顕戮に就く。垂れて鑒戒と為る、惜まざる可けんや。〔▽二九九-三〇〇頁〕
皇帝、聖哲の姿を以て、傾頽の運を拯ひ、七徳を曜かして以て六合を清くし、万国を総べて百霊に朝し、四荒を懐柔し、九族を親睦し、華蕚を棠棣に念ひ、維城を宗子に寄せ、心に愛し、日として思はざるは靡し。爰に下臣に命じて、載籍を攷覧し、博く鑑鏡を求め、厥の孫謀を貽す。臣輒ち愚浅を竭くし、諸を前訓に稽ふるに、凡そ藩と為り翰と為り、国を有ち家を有つもの、其の興るや、必ず善を積むに由り、其の亡ぶや、皆、悪を積むに在り。故に知る、善、積まざれば、以て名を成すに足らず。悪、積まざれば、以て身を滅ぼすに足らざるを。然れば則ち禍福は門無く、吉凶は己に由る。惟だ人の招く所のままなり。豈に徒言ならんや。〔▽三〇一-二頁〕
今、古よりの諸王の行事の得失を録し、其の善悪を分ち、各々一篇と為し、名づけて諸王善悪録と曰ふ。善を見ては斉しからんことを思ひ、以て名を不朽に揚ぐるに足り、悪を聞きては改むるを知り、庶くは大過を免るるを得しめんと欲す。善に従へば則ち誉有り、過を改むれば則ち咎無し。興亡是れ繋る、勉めざる可けんや、と。太宗、覧て善しと称し、諸王に謂ひて曰く、此れ宜しく常に座右に置き、用つて身を立つるの本と為すべし、と。〔▽三〇三頁〕

第四章

貞観十年、太宗、荊王元景・呉王恪等に謂ひて曰く、前代の侯王、甚だ衆し。惟だ東平及び河間王、最も令名有り、其の禄位を保つを得たり。楚王*い(い)の徒の如き、覆亡、一に非ず。我聞く、徳を以て物を服す、と。信に虚説に非ず。〔▽三〇四頁〕
桀紂は、是れ天子なりと雖も、今若し相喚びて桀紂と作さば、人必ず大いに怒らん。顔回・閔子騫・郭林宗・黄叔度は、是れ布衣なりと雖も、今若し相称賛して、此の四賢に類すと道はば、必ず当に大いに喜ぶべし。故に知る、人の身を立つる、貴ぶ所の者は、惟だ徳行に在り。何ぞ必ずしも栄貴を論ずるを要せん。汝等、位、藩王に列し、家、実封を食む。更に能く克く徳行を修めば、豈に具美ならずや。故に我、賢才を簡択して、汝が師伝と為す。宜しく其の諌諍を受くべし。自ら専らにす可からず。欲を縦にし情を肆にして、自ら刑戮に陥る勿れ、と。〔▽三〇五頁〕

第五章

貞観十年、太宗、房玄齢に謂ひて曰く、朕、前代の撥乱創業の主を歴観するに人間に生長し、皆、情偽を識達し、破亡に至ること罕なり。継世守文の君に、逮びては、生れながらにして富貴にして、疾苦を知らず、動もすれば夷滅に至る。朕少小より以来、経営多難にして、備に天下の事を知るも、猶ほ逮ばざる所有らんことを恐る。荊王諸弟の如きに至りては、深宮より長じ、識、遠きに及ばず。豈に能く此を念はんや。朕、一食毎に、便ち稼穡の艱難を念ひ、一衣毎に、則ち紡績の辛苦を思ふ。諸弟何ぞ能く朕を学ばんや。今、良左を選びて、以て藩弼と為す。庶くは其の善人に習近して、愆過を免るるを得んのみ、と。〔▽三〇六-七頁〕

第六章

貞観十一年、太宗、呉王恪に謂ひて曰く、父の子を愛するは、人の常情なり。教訓を待ちて知るに非ざるなり。子能く忠孝なれば則ち善し。若し誨誘に遵はず、礼を忘れ法を棄つれば、必ず自ら刑戮を致さん。父、之を愛すと雖も、将た之を如何せん。昔、漢武既に崩じ、昭帝継ぎて立つ。燕王旦、素より驕縦、*ちゅう張(ちゅうちょう)にして服せず。霍光、一折簡を遣はして之を誅すれば、則ち身死し国除かる。夫れ臣子為るもの、慎まざるを得ず。〔▽三〇八頁〕