貞観政要 2000年01月 発行
巻第四 論太子諸王定分第九
第一章
貞観七年、蜀王恪に斉州の都督を授く。太宗、侍臣に謂ひて曰く、父子の情、豈に常に相見るを欲せざらんや。但だ家国、事殊なる。須く出して藩屏と作し、且つ其をして早く定分有らしめ、覬覦の心を絶ち、我が百年の後、其の兄に事へて危亡の慮無からしむべきなり、と。〔▽二五九頁〕
第二章
侍御史馬周、貞観十一年、上疏して曰く、漢晋より已来、諸王、皆、樹置宜しきを失ひ、豫め定分を立てざるが為めに、以て滅亡に至る。人主、其の然るを熟知す。但だ私愛に溺る。故に前車既に覆れども、後車をして輒を改めざらしむるなり。今、諸王、寵遇の恩を承くること、厚きに過ぐる者有り。臣の愚慮、惟だ其の恩を恃みて驕矜するを慮るのみならざるなり。〔▽二六〇頁〕
昔、魏の武帝、陳思を寵樹す。文帝、位に即くに及びて、防守禁閉、獄囚に同じき有り。先帝が恩を加ふること太だ多きを以て、故に嗣主、疑ひて之を畏るるなり。此れ則ち武帝の陳思を寵するは、適に之を苦しむる所以なり。且つ帝子は何ぞ富貴ならざるを患へん。身、大国を食み、封戸、少からず。好衣美食の外、又何の須むる所あらん。而して毎年、別に優賜を加ふること、曾て紀極無し。俚語に曰く、貧は倹を学ばず、富は奢を学ばず、と。自然なるを言ふなり。今、陛下、大聖を以て業を創む。豈に惟だ見在の子弟処置するのみならんや。当に須く長久の法を制し、万代をして遵行せしむべし、と。疏奏す。太宗甚だ之を嘉し、物三百段を賜ふ。〔▽二六一頁〕
第三章
貞観十三年、諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)、毎月特に魏王泰の府に料物を給すること皇太子に逾ゆる有るを以て、上疏して諌めて曰く、昔、聖人、礼を制するや、嫡を尊び庶を卑しみ、之を儲君と謂ふ。道、霄極に亜ぎ、甚だ崇重と為す。物を用ふること計らず、泉貨財帛、王者と之を共にす。庶子は体卑し。例と為すを得ず。嫌疑の漸を塞ぎ、禍乱の源を除く所以なり。而して先王必ず人情に本づきて、然る後法を制す。国家を有つに必ず嫡庶有るを知る。然して庶子は愛すと雖も、嫡子の正体に超越し、特に尊崇を須ふるを得ず。如し明かに定分を立つる能はず、遂に当に親しかるべき者をして疎く、当に尊かるべき者をして卑しからしめば、則ち邪佞の徒、機を承けて動かん。私恩、公を害し、或は国を乱るに至らん。〔▽二六三頁〕
臣愚、伏して見るに、儲后の料物、翻つて魏王より少く、朝見野聞、以て是と為さず。伝に曰く、子を愛すれば、之に教ふるに義方を以てす、と。忠孝恭倹は、義方の謂ひなり。昔、漢の竇太后及び景帝、遂に梁の孝王を驕恣ならしめ、四十余城に封じ、苑は方三百里、大いに宮室を営み、複道弥望し、財を積むこと鉅万計入るに警し出づるに蹕す。小しく意を得ず、病を発して死せり。〔▽二六四頁〕
且つ魏王既に新に閤を出づ。伏して願はくは、恒に礼訓を存し、師伝を妙択し、其の成敗を示し、既に之を敦くするに節倹を以てし、又之に勧むるに文学を以てし、惟れ忠惟れ孝、因りて之を奨め、道徳斉礼せんことを。乃ち良器と為らん。此れ謂はゆる聖人の教、粛ならずして成る者なり、と。太宗深く其の言を納れ、即日、魏王の料物を減ず。〔▽二六五-六頁〕
第四章
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、当今、国家、何事か最も急なる。各々我が為めに之を言へ、と。尚書右僕射高士廉曰く、百姓を養ふこと最も急なり、と黄門侍郎*劉き(りゅうき)曰く、四夷を撫すること最も急なり、と。中書侍郎岑文本曰く、伝に称す、之を道くに徳を以てし、之を斉ふるに礼を以てす、と。斯れに由りて言へば、礼義を急と為す、と。〔▽二六六-七頁〕
諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)曰く、即日、四方、徳を仰ぐ、誰か敢て非を為さん。但だ太子・諸王は、須く定分有るべし。陛下、宜しく万代の法を為りて、以て子孫に遺すべし。此れ最も当今の急と為す、と。〔▽二六七頁〕
太宗曰く、此の言、是なり。朕、年将に五十ならんとし、已に衰怠を覚ゆ。既に長子を以て器を東宮に守らしむ。諸弟及び庶子は、数将に四十ならんとす。心常に憂慮するは、正に此に在るのみ。但だ古より嫡庶、良無くんば、何ぞ嘗て家国を傾敗せざらんや。公等、朕の為めに賢徳を捜訪して、以て儲宮を輔け、爰に諸王に及ぶまで、咸く正士を求めよ。且つ官人の王に事ふるは、宜しく歳久しくすべからず。歳久しければ則ち分義、情深し。非意の*ゆ(きゆ)、多く此に由りて作る。其れ王府の官僚は、四考に過ぎしむる勿れ、と。〔▽二六八頁〕
第五章
貞観中、皇子の年少き者、多く授くるに、都督・刺史を以てす。諌議大夫*ちょ遂良(ちょすいりょう)、上疏して諌めて曰く、昔、両漢、郡国を以て人を理む。郡を除く以外には、諸子を分立し、土を割き疆を分ち、周制を雑へ用ふ。皇唐の郡県は、粗ぼ秦の法に依る。幼年にして或は刺史を授けらる。陛下豈に骨肉を以て四方を鎮扞せざらんや。聖人、制を造る、道、前烈に高し。〔▽二六九頁〕
臣の愚見の如きは、小しく未だ尽くさざる有り。何となれば、刺史は師帥にして、万人瞻仰して以て安し。一の善人を得れば、部内蘇息す。一の不善に遇へば、闔州労弊す。是を以て、人君、百姓を愛恤し、常に為めに賢を択ぶ。或は称す、河は九里を潤ほし、京師、福を蒙る、と。或は人、歌詠を興し、生ながら為めに祠を立つ。漢の宣帝云く、我と理を共にする者は、但だ良二千石か、と。〔▽二七〇頁〕
臣の愚見の如き、陛下の兒子の内、年歯尚ほ幼にして、未だ人に臨むに堪へざる者は、且く請ふ京師に留め、教ふるに経学を以てせん。一には則ち天の威を畏れ、敢て禁を犯さざらん。二には則ち常に朝儀を観ば、自然に成立せん。此に因りて積習し、自ら人と為るを知り、州に臨むに堪ふるを審かにして、然る後遣りて出でしめよ。〔▽二七一-二頁〕
謹みて按ずるに、漢の明・章・和三帝、能く子弟を友愛す。茲より已降、以て準的と為し、封じて諸王を立つ。各々土を有つと雖も、年尚ほ幼少なる者は、召して京師に留め、訓ふるに礼法を以てし、垂るるに恩恵を以てす。三帝の世を訖りて、諸王数十人、惟だ二王のみ稍や悪し。自余は*そん和(そんわ)染教して、皆善人と為る。此れ則ち前事已に験あり。惟だ陛下詳かに察せよ、と。太宗、之に従ふ。〔▽二七二-三頁〕