貞観政要 2000年01月 発行
巻第二 納諌第五
第一章
貞観の初、太宗、黄門侍郎王珪と宴語す。時に美人有りて側に侍す。本、盧江王*えん(えん)の姫なり。*えん(えん)敗れ、籍没して宮に入る。太宗、指して珪に示して曰く、盧江、不道にして、其の夫を賊殺して、其の室を納る。暴虐の甚だしき、何ぞ亡びざる者有らんや、と。珪、席を避けて対へて曰く、陛下、盧江の之を取るを以て是と為すや、非と為すや、と。太宗曰く、安んぞ人を殺して其の妻を取ること有らんや。卿、乃ち朕に是非を問ふは、何ぞや、と。〔▽一六〇頁〕
対へて曰く、臣聞く、管子曰く、斉の桓公、郭国に之き、其の父老に問ひて曰く、郭は何の故に亡びたるか、と。父老曰く、其の善を善とし、悪を悪としたるを以てなり、と。桓公曰く、子の言の若くんば、乃ち賢君なり。何ぞ亡ぶるに至らんや、と。父老曰く、然らず。郭君は善を善とすれども用ふること能はず。悪を悪とすれども、去ること能はず。亡びし所以なり、と。今、此の婦人、尚ほ左右に在り。臣、竊に聖心、之を是と為すと以へり。陛下、若し以て非と為さば、此れ所謂、悪を知れども去らざるなり、と。太宗、大いに悦び、称して至言となり、遽に美人をして其の親族に還さしむ。〔▽一六一頁〕
第二章
貞観三年、太宗、司空裴寂に謂ひて曰く、比、上書して事を奏する有り。條数甚だ多し。朕総て之を屋壁に黏し、出入に観省す。孜孜として倦まざる所以は、臣下の情を尽くさんことを欲すればなり。一たび理を致さんことを思ふ毎に、或は三更に至りて方めて寝ぬ。亦、公が輩、心を用ふること倦まず、以て朕が懐に副はんことを望む、と。〔▽一六二-三頁〕
第三章
貞観四年、詔して卒を発して洛陽宮の乾元殿を修め、以て巡狩に備ふ。給事中張玄素、上書して諌めて曰く、微臣竊に思ふに、秦の始皇の君たるや、周室の余に藉り、六国の盛に因り、将に之を万代に貽さんとするも、其の子に及びて亡べり。良に嗜を逞しくし慾に奔り、天に逆ひ人を害ふに由る者なり。是に知る。天下は力を以て勝つ可からず、神祇は親を以て恃む可からず、惟だ当に倹約を弘にし、賦斂を薄くすべし。終を慎しむこと始の如くにせば以て永固なる可し。〔▽一六三-四頁〕
方今、百王の末を承け、凋弊の余に属す。必ず之を節するに礼制を以てせんと欲せば、陛下宜しく身を以て先と為すべし。東都は未だ幸期有らざるに、即ち補葺せしむ。諸王、今竝びに藩に出で、又須く営構すべし。興発既に多きは、豈に疲人の望む所ならんや。其の不可なるの一なり。陛下、初め東都を平らげしの始め、層楼広殿、皆、撤毀せしめ、天下翕然として、心を同じくして欣仰せり。豈に初めは則ち其の侈靡を悪み、今は乃ち其の雕麗を襲ふ有らんや。其の不可なるの二なり。音旨を承くる毎に、未だ即ち巡幸せず。此れ即ち不急の務を事とし、虚費の労を成す。国に兼年の積無し、何ぞ両都の好を用ひん。労役、度に過ぎ、*怨とく(えんとく)将に起らんとす。其の不可なるの三なり。百姓、乱離の後を承け、財力凋尽す。天恩含育し、粗ぼ存立を見る。飢寒猶ほ切に、生計未だ安からず。五六年の間には、未だ旧に復する能はざらん。奈何ぞ更に疲人の力を奪はん。其の不可なるの四なり。昔、漢の高祖、将に洛陽に都せんとす。婁敬一言して、即日西に賀す。豈に地は惟れ土の中、貢賦の均しき所なるを知らざらんや。但だ形勝の関内に如かざるを以てなり。伏して惟みるに、凋弊の人を化し、澆漓の俗を革め、日たること尚ほ浅く、未だ甚だしくは淳和ならず。事宜を斟酌するに、*なん(なん)ぞ東幸す可けんや。其の不可なるの五なり。〔▽一六五-六頁〕
臣又嘗て隋室の初め此の殿を造るを見るに、楹棟宏壮なり。大木は隋近の有る所に非ず、多く豫章より採り来る。二千人、一柱を曳き、其の下に轂を施す。皆、生鉄を以て之を為る。若し木輪を用ふれば、便即ち火出づ。略ぼ一柱を計るに、已に数十万の功を用ふれば、則ち余費又此れに過倍す。臣聞く、阿房成りて、秦人散じ、章華就りて、楚衆離る、と。然して乾陽、功を畢へて、隋人、解体す。且つ陛下の今時の功力を以て、隋日に何如とす。凋残の後を承け、瘡痍の人を役し、億万の功を費し、百王の弊を襲ふ。此を以て之を言へば、恐らくは煬帝よりも甚だしき者あらん。深く願はくは陛下、之を思はんことを。由余の笑ふ所と為る無くんば、則ち天下の幸甚なり、と。〔▽一六七-八頁〕
太宗、玄素に謂ひて曰く、卿、我を以て煬帝に如かずとす。桀紂に何如、と。対へて曰く、若し此の殿卒に興らば、所謂同じく乱に帰するなり、と。太宗歎じて曰く、我、思量せず、遂に此に至る、と。顧みて房玄齢に謂ひて曰く、今、玄素の上表を得たり。洛陽は実に亦未だ宜しく修造すべからず。後必ず事理須く行くべくば、露坐すとも亦復た何ぞ苦しまん。有らゆる作役は、宜しく即ち之を停むべし。然れども卑を以て尊を干すは、古来、易からず。其の至忠至直に非ずんば、安んぞ能く此の如くならん。且つ衆人の唯唯は、一士の諤諤に如かず。絹五百匹を賜ふ可し、と。魏徴歎じて曰く、張公、遂に回天の力有り。仁人の言、其の利博きかな、と謂ふ可し、と。〔▽一六九-七〇頁〕
第四章
貞観六年、太宗、御史大夫韋挺・中書侍郎杜正倫・秘書少監虞世南・著作郎姚思廉等、封事を上りて旨に称へるを以て、召して謂ひて曰く、朕、古よりの人臣、忠を立つるの事を歴観するに、若し明主に値へば、便ち誠を尽くして規諌するを得。龍逢・比干の如きに至つては、竟に孥戮を免れず。君たること易からず、臣たること極めて難し。朕又聞く、龍は擾して馴れしむ可し。然れども喉下に逆鱗有り、之に触るれば則ち人を殺す。人主も亦逆鱗有り、と。卿等、遂に犯触を避けずして、各々封事を進むること、常に能く此の如くならば、朕豈に宗社の傾敗を慮らんや。毎に卿等の此の意を思ひ、暫くも忘るる能はず。故に宴を設けて楽を為すなり、と。仍りて帛を賜ふこと差有り。〔▽一七一頁〕
第五章
太常卿韋挺、嘗て上疏して得失を陳す。太宗、書を賜ひて曰く、上る所の意見を得るに、極めて是れ*とう言(とうげん)にして、辞理、観る可し。甚だ以て慰と為す。昔、斉境の難に、夷吾、鉤を射るの罪有り。蒲城の役に*勃てい(ぼつてい)、袂を斬るの仇たり。而るに小白、以て疑と為さず、重耳、之を待つこと旧の若し。豈に各々主に非ざるに吠え、志、二無きに在るに非ずや。卿の深誠、斯に見はる。若し能く克く此の節を全くせば、則ち永く令名を保たん。如し其れ之を怠らば、惜しまざる可けんや。勉励して此を終へ、範を将来に垂れ、当に後の今を観ること、今の古を視るがごとくならしむべし。亦美ならずや。朕、比、其の過を聞かず、未だ其の闕を覩ず。頼に忠懇を竭くし、数々嘉言を進め、用て朕が懐に沃げ。一に何ぞ道ふ可けんや、と。〔▽一七三頁〕
第六章
李大亮、貞観中、涼州都督と為る。嘗て臺使有り、州境に至る。名鷹有るを見、大亮に諷して之を献ぜしむ。大亮密に表して曰く、陛下久しく畋猟を絶つ。而るに使者、鷹を求む。若し是れ陛下の意ならば、深く昔旨に乖かん。如し其れ自ら擅にせば、便ち是れ使、其の人に非ざらん、と。〔▽一七五頁〕
太宗、其れに書を下して曰く、卿が文武を兼ね資し、志、貞確を懐くを以て、故に藩牧を委ね、茲の重寄に当つ。比、州鎮に在りて、声績遠く彰る。此の忠勤を念ひ、寤寐に忘るること無し。使、鷹を献ぜしむるに、遂に曲順せず。今を論じ古を引き、遠く直言を献じ、腹心を披露し、非常に懇至なり。覧を用つて嘉歎し、已む能はざるのみ。臣有ること此の若し、朕復た何ぞ憂へん。宜しく此の誠を守り、終始、一の如くすべし。詩に曰く、爾の位を靖恭し、是の正直を好む。神之れ之を聴き、爾の景福を介にせん、と。古人称す、一言の重き、千金に*ひと(ひと)し、と。卿の此の言、深く貴ぶに足る。今、卿に金壷瓶・金椀各々一枚を賜ふ。千溢の重き無しと雖も、是れ朕が自用の物なり。〔▽一七五-六頁〕
卿、志を立つること方直、節を竭くすこと至公、職に処り官に当り、毎に委ぬる所に副ふ。方に大いに任使し、以て重寄を申ねんとす。公事の間、宜しく典籍を観るべし。兼ねて卿に荀悦の漢紀一部を賜ふ。此の書、叙致簡要、論議深博、政を為すの体を極め、君臣の義を尽くす。宜しく尋閲を加ふべし、と。〔▽一七七頁〕
第七章
貞観八年、陝県の丞皇甫徳参、上書して旨に忤ふ。太宗以て*さん謗(さんぼう)と為す。侍中魏徴、奏言す、昔、賈誼、漢の文帝の時に当りて、上書して云ふ、痛哭を為す可き者三、長歎を為す可き者五、と。古より上書は、率ね激切多し。若し激切ならざれば、則ち人主の心を起す能はず。激切は即ち*さん謗(さんぼう)に似たり。惟だ陛下、其の可否を詳かにせよ、と。太宗曰く、公に非ざれば、能く此を道ふ者無し、と。徳参に物一百三十段を賜はしむ。〔▽一七八頁〕
第八章
貞観中、使を遣はして西域に詣り、葉護河干立てしむ。未だ還らざるに、又人をして多く金帛を賚し、諸国を歴て馬を市はしむ。魏徴諌めて曰く、今、使を発するは、河干を立つるを以て名と為す。河干未だ立つを定めざるに、即ち諸国に詣りて馬を市はしむ。彼必ず以て意は馬を市ふに在り、専ら河干を立つるが為めならずと為さん。河干、立つを得とも、則ち甚だしくは恩を懐はざらん。立つを得ざれば、則ち深怨を生ぜん。諸蕃、之を聞かば、且に中国を重んぜざらんとす。但だ彼の土をして安寧ならしめば、則ち諸国の馬、求めずして自ら至らん。〔▽一七九-八〇頁〕
昔、漢文、千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、吾、吉行は日に三十、凶行は日に五十、鸞輿、前に在り、属車、後に在り、吾独り千里の馬に乗りて、将に以て安くに之かんとするや、と。乃ち其の道里の費を償ひて之を返せり。又、光武、千里の馬及び宝剣を献ずる者有り。馬は以て鼓車に駕し、剣は以て騎士に賜ふ。〔▽一八〇頁〕
今、陛下の凡そ施為する所、皆*はるか(はるか)に三王の上に過ぎたり。奈何ぞ此に至りて、孝文・光武の下と為らんと欲するや。又、魏の文帝、西域の大珠を市はんことを求む。蘇則曰く、若し陛下、恵、四海に及ばば、則ち求めずして自ら至らん。求めて之を得るは、貴ぶに足らざるなり、と。陛下縦ひ漢文の高行を慕ふ能はずとも、蘇則の正言を畏れざる可けんや、と。太宗、遽に之を止めしむ。〔▽一八一頁〕
第九章
貞観十七年、太子右庶子高李輔、上疏して得失を陳す。特に鍾乳一剤を賜ひ、謂ひて曰く、卿、薬石の言を進む。故に薬石を以て相報ゆ、と。〔▽一八二頁〕
第十章
太宗、嘗て苑西面監穆裕を怒り、朝堂に命じて之を斬らしむ。時に太帝、皇太子たり。遽に顔を犯して進諌す。太宗、意乃ち解く。司徒長孫無忌曰く、古より太子の諌むる、或は閑に乗じて従容として言ふ。今、陛下、天威の怒を発し、太子、顔を犯すの諌を申ぶ。斯れ古今未だ有らず、と。〔▽一八三頁〕
太宗曰く、夫れ人久しく相与に処れば、自然に染習す。朕が天下を御めしより、虚心正直なり。即ち魏徴有りて、朝夕進諌す。徴云に亡せしより、*劉き(りゅうき)・岑文本・馬周・*ちょ遂良(ちょすいりょう)等、之に継ぐ。皇太子幼にして朕の膝前に有り、毎に朕が心に諌者を悦ぶを見、因りて染まりて以て性を成す。故に今日の諌有り、と。〔▽一八四頁〕