貞観政要 2000年01月 発行
巻第一 政体第二
第一章
貞観の初、太宗、*蕭う(しょうう)に謂ひて曰く、朕、少きより弓矢を好む。自ら謂へらく、能く其の妙を尽くせり、と。近ごろ良弓、十数を得、以て弓工に示す。工曰く、皆、良材に非ざるなり、と。朕、其の故を問ふ。工曰く、木心正しからざれば、則ち脈理皆邪なり。弓、剛勁なりと雖も、箭を遣ること直からず。良弓に非ざるなり、と。朕、始めて悟る。朕、弧矢を以て四方を定め、弓を用ふること多し。而るに猶ほ其の理を得ず。況んや、朕、天下を有つの日浅く、治を為すの意を得ること、固より未だ弓に及ばず。弓すら猶ほ之を失す。何ぞ況んや治に於てをや、と。是より京官五品以上に詔し、更中書内省に宿せしめ、毎に召見して、皆、坐を賜ひ、与に語りて外事を詢訪し、務めて百姓の利害、政教の得失を知る。〔▽五五頁〕
第二章
貞観元年、上、黄門侍郎王珪に謂ひて曰く、中書の出す所の詔勅、頗る意見同じからざる有り。或は錯失を兼ねて是とし、相正すに否を以てす。元、中書・門下を置くは、本、過誤を相防がんことを擬す。人の意見は、毎に同じからざる或り。是非とする所有るは、本、公事の為めなり。或は己の短を護りて、其の失を聞くを忌み、是有り非有れば、咸以て怨と為す有り。或は苟くも私隙を避け、顔面を相惜み非を知れども正さず、遂に即ち施行する有り。一官の小情に違はんことを惜み、頓に万人の大弊を為す。此れ実に亡国の政なり。〔▽五七頁〕
隋日の内外の庶官政、依違を以て禍乱を致す。人、多く深く此の理を思ふ能はず。当時、皆、禍は身に及ばずと謂ひ、面従背言し、以て患と為さず。後、大乱一たび起り、家国倶に喪ぶるに至りて、身を脱するの人有りと雖も、縦ひ刑戮に遭はざるも、皆辛苦して僅かに免れ、甚だ時論の貶黜する所と為れり。卿等特に須く私を滅して公に徇ひ堅く直道を守り、庶事相啓沃し、上下雷同する勿るべきなり、と。〔▽五八頁〕
第三章
貞観二年、太宗、黄門侍次郎王珪に問ひて曰く、近代の君臣、国を理むること、多く前古に劣れるは、何ぞや、と。対へて曰く、古の帝王の政を為すは、皆、志、清静を尚び、百姓を以て心と為す。近代は則ち惟だ百姓を損じて、以て其の欲に適はしめ、其の任用する所の大臣、復た経術の士に非ず。漢家の宰相は、一経に精通せざるは無し。朝廷に若し疑事有れば、皆、経を引きて決定す。是に由りて、人、礼教を識り、理、太平を致せり。近代は武を重んじて儒を軽んじ、或は参ふるに法律を以てす。儒行既に虧け、淳風大いに壊る、と。太宗深く其の言を然りとす。此より百官中、学業優長にして、兼ねて政体を識る者は、多く其の階品を進め、累りに遷擢を加ふ。〔▽五九-六〇頁〕
第四章
貞観三年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、中書・門下は、機要の司なり。才を擢んでて居らしめ、委任実に重し。詔勅如し便ならざる有らば、皆、須く執論すべし。比来、惟だ旨に阿り情に順ふを覚ゆ。唯唯として苟過し、遂に一言の諌争する者無し。豈に是れ道理ならんや。若し惟だ詔勅に署し、文書を行ふのみならば、人誰か堪へざらん。何ぞ簡択して以て相委付するを煩はさんや。今より詔勅に穏便ならざる有るを疑はば、必ず須く執言すべし。妄りに畏懼すること有り、知りて寝黙するを得ること無かれ、と。房玄齢等叩頭して血を出だす。〔▽六一頁〕
第五章
貞観四年、太宗、*蕭う(しょうう)に問ひて曰く、隋の文帝は何如なる主ぞや、と。対へて曰く、己に克ちて礼に復り、勤労して政を思ひ、一たび朝に坐する毎に、或は日の側くに至り、五品已上、坐に引きて事を論じ、宿衛の人をして、*そん(そん)を伝へて食はしむるに至る。性、仁明に非ずと雖も、亦是れ励精の主なり、と。〔▽六二-三頁〕
上曰く、公は其の一を知りて、未だ其の二を知らず。此の人は性至察なれども心明かならず。夫れ心暗ければ則ち照すこと通ぜざる有り、至察なれば則ち多く物を疑ふ。又、孤兒寡婦を欺き、以て天下を得、恒に群臣の内に不服を懐かんことを恐れ、肯て百司を信任せず、事毎に皆自ら決断す。神を労し形を苦しむと雖も、未だ尽くは理に合すること能はず。朝臣其の意を知るも、亦、敢て直言せず。宰相以下、惟だ承順するのみ。〔▽六三-四頁〕
朕の意は則ち然らず。天下の広きを以てして、千端万緒、須く変通に合すべし。皆、百司に委ねて商量せしめ、宰相に籌画せしめ、事に於て穏便にして、方めて奏して行ふ可し。豈に一日万機を以て、独り一人の慮に断ずるを得んや。且つ日に十事を断ずれば、五條は中らざらん。中る者は信に善し。其れ中らざる者を如何せん。日を以て月に継ぎ、乃ち累年に至らば、乖謬既に多く、亡びずして何をか待たん。豈に広く賢良に任じ、高く居り深く視るに如かんや。法令厳粛ならば、誰か敢て非を為さん、と。因りて諸司に令し、若し詔勅頒下し、未だ穏便ならざる者有らば、必ず須く執奏すべし。旨に順ひて便即ち施行するを得ず、と。務めて臣下の意を尽くさしむ。〔▽六四-五頁〕
第六章
貞観五年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、国を治むると病を養ふとは異なること無きなり。病は人愈ゆるを覚ゆれば、弥々須く将護すべし。若し触犯有らば、必ず命を殞すに至らん。国を治むるも亦然り。天下稍安ければ、尤も須く競慎すべし。若し便ち驕逸せば、必ず喪敗に至らん。今、天下の安危、之を朕に繋く。故に日に一日慎み、休しとすと雖も休しとすること勿し。然れども耳目股肱は、卿が輩に寄す。既に義、一体に均し。宜しく力を協せ心を同じくすべし。事、安からざる有らば、極言して隠すこと無かる可し。儻し君臣相疑ひ、備に肝膈を尽くす能はずんば、実に国を治むるの大害為るなり、と。〔▽六六頁〕
第七章
貞観六年、上、侍臣に謂ひて曰く、朕、古の帝王を看るに、盛有り、衰有ること、猶ほ朝の暮有るがごとし。皆、其の耳目を蔽ふが為めに時政の得失を知らず。忠正なる者は言はず、邪諂なる者は日に進む。既に過失を見ず、滅亡に至る所以なり。朕、既に九重に在り、尽くは天下の事を見ること能はず。故に之を卿等に布き、以て朕の耳目と為す。天下無事、四海安寧なるを以て、便ち意に存せざること莫かれ。書に云く、愛す可きは君に非ずや。畏る可きは人に非ずや、と。天子は道有れば則ち人推して主と為す。道無ければ則ち人棄てて用ひず。誠に畏る可きなり、と。〔▽六七-八頁〕
魏徴対へて曰く、古より、国を失ふの主は、皆、安きに居りて危きを忘れ、理に処りて乱を忘るるを為す。長久なること能はざる所以なり。今、陛下、富、天下を有ち、内外清晏なるも、能く心を治道に留め、常に深きに臨み薄きを履むが如くならば、国家の暦数、自然に霊長ならん。臣又聞く、古語に云ふ、君は船なり。人は水なり。水は能く舟を載せ、亦能く舟を覆す、と。陛下、以て畏る可しと為す。誠に聖旨の如し、と。〔▽六九頁〕
第八章
貞観六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、古人云ふ、危くして持たず、顛りて扶けずんば、焉んぞ彼の相を用ひん、と。君臣の意、忠を尽くして匡救せざるを得んや。朕嘗て書を読み、桀の関龍逢を殺し、漢の錯を誅するを見、未だ嘗て書を廃して嘆息せずんばあらず。公等、但だ能く正詞直諌し、政教を裨益せよ。終に顔を犯し旨に忤ふを以て妄に誅責すること有らず。〔▽七〇-一頁〕
朕、比来、朝に臨みて断決するに、亦、律令に乖く者有り。公等、以て小事と為し、遂に執言せず。凡そ大事は皆小事より起る。小事、論ぜずんば、大事、又、将に救う可からざらんとす。社稷の傾危、此に由らざるは莫し。隋主残暴にして、身、匹夫の手に死し、率土の蒼生嗟痛するを聞くこと罕なり。願はくは、公等、朕の為めに隋氏の滅亡の事を思ひ、朕、公等の為めに龍逢・錯の誅を思ひ、君臣保全せば、豈に美ならずや、と。〔▽七二頁〕
第九章
貞観七年、太宗、秘書監魏徴と、従容として古よりの治政の得失を論ず。因りて曰く、当今大乱の後、造次に治を致す可からず、と。徴曰く、然らず。凡そ人、安楽に居れば則ち驕逸す。驕逸すれば則ち乱を思ふ。乱を思へば則ち理め難し。危困に在れば則ち死亡を憂ふ。死亡を憂ふれば則ち治を思ふ。治を思へば則ち教へ易す。然らば則ち乱後の治め易きこと、猶ほ飢人の食し易きがごときなり、と。太宗曰く、善人、邦を為むること百年にして、然る後、残に勝ち殺を去る、と。大乱の後、将に治を致すを求めんとす。寧ぞ造次にして望む可けんや、と。〔▽七三頁〕
徴曰く、此れ常人に拠る。聖哲に在らず。聖哲化を施さば、上下、心を同じくし、人の応ずること響きの如し。疾くせずして速かに、朞月にして化す可し。信に難しと為さず。三年にして功を成すも、猶ほ其の晩きを謂ふ、と。太宗、以て然りと為す。封徳彝等に対へて曰く、三代の後、人漸く澆訛す。故に秦は法律に任じ、漢は覇道を雑ふ。皆、治まらんことを欲すれども能はざればなり。豈に治を能くすれども欲せざるならんや。魏徴は書生にして、時務を識らず。若し魏徴の説く所を信ぜば、恐らくは国家を敗乱せん、と。〔▽七四-五頁〕
徴曰く、五帝・三王は、人を易へずして治む。帝道を行へば則ち帝たり。王道を行へば則ち王たり。当時の之を化する所以に在るのみ。之を載籍に考ふれば、得て知る可し。昔、黄帝、蚩尤と七十余戦し、其の乱るること甚し。既に勝つの後、便ち太平を致せり。九黎、徳を乱り*せんぎょく(せんぎょく)、之を征す。既に克つの後、其の治を失はず。桀、暴虐を為して、湯、之を放つ。湯の代に在りて、即ち太平を致せり。紂、無道を為し、武王、之を伐つ。成王の代、亦、太平を致せり。若し、人漸く澆訛にして純樸に反らずと言はば、今に至りては、応に悉く鬼魅と為るべし。寧ぞ復た得て教化す可けんや、と。徳彝等、以て之を難ずるなし。然れども咸以て不可なりと為す。〔▽七六頁〕〔類似▽八五〇頁〕
太宗、毎に力行して倦まず。数年の間にして、海内康寧なり。因りて群臣に謂ひて曰く、貞観の初、人皆、異論して云ふ、当今は必ず帝道王道を行ふ可からず、と。惟だ魏徴のみ、我に勧む。既に其の言に従ふに、数載を過ぎずして、遂に華夏安寧にして、遠戎賓服するを得たり。突厥は古より以来、常に中国の勍敵たり。今、酋長竝びに刀を帯びて宿衛し、部落、皆衣冠を襲ぬ。我をして干戈を動かさずして、数年の間に、遂に此に至らしめしは、皆、魏徴の力なり、と。〔▽七七-八頁〕
顧みて徴に謂ひて曰く、「玉、美質有りと雖も、石間に在りて、良工の琢磨に値はざれば、瓦礫と別たず。若し良工に遇へば、即ち万代の宝と為る。朕、美質無しと雖も、公の切磋する所と為る。公が朕を約するに仁義を以てし、朕を弘むるに道徳を以てするを労して、朕の功業をして此に至らしむ。公も亦良工と為すに足るのみ。唯だ恨むらくは封徳彝をして之を見しむるを得ざることを、と。徴、再拝して謝して曰く、匈奴破滅し、海内康寧なるは、自ら是れ陛下盛徳の加ふる所にして、実に群下の力に非ず。臣、但だ身、明世に逢ふを喜ぶのみ。敢て天の功を貪らず、と。太宗曰く、朕能く卿に任じ、卿委ぬる所に称ふ。其の功独り朕のみに在らんや。卿何ぞ煩はしく飾譲するや、と。〔▽七九頁〕
第十章
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、往者初めて京師を平げしとき、宮中の美女珍玩、院として満たざるは無し。煬帝は意猶ほ足らずとし、徴求已む無し。兼ねて東西に征討し、兵を窮め武を黷す。百姓、堪へず、遂に滅亡を致せり。此れ皆、朕の目に見る所なり。故に夙夜孜孜として、惟だ清静にして天下をして無事ならしめんと欲す。徭役興らず、年穀豊稔し、百姓安楽なるを得たり。夫れ国を治むるは、猶ほ樹を栽うるが如し。本根、揺がざれば、則ち枝葉茂盛す。君能く清静ならば、百姓なんぞ安楽ならざるを得んや、と。〔▽八一頁〕
第十一章
貞観八年、太宗、房玄齢等に謂ひて曰く、我が居る所の殿は、即ち是れ隋の文帝の造りし所なり。已に四十余年を経るも、損壊の処少し。唯だ承乾の殿は、是れ煬帝の造りしもの。工匠多く新奇を覓め、*斗きょう(ときょう)至小なり。年月近しと雖も、破壊の処多し。今、改更を為さんとし、別に意見を作さんと欲するも、亦、此の屋に似ることを恐るのみ、と。〔▽八二頁〕
魏徴対へて曰く、昔、魏の文侯の時、租賦歳に倍す。人、賀を致すもの有り。文侯曰く、今、戸口加はらずして、租税歳に倍す。是れ課斂多きに由る。譬へば皮を治むるが如し。大ならしむれば則ち薄く、小ならしむれば則ち厚し。民を理むるも亦復た此くの如し、と。是に由りて魏国大いに理まる。臣、今之を量るに、陛下理を為し、百夷賓服す。天下已に安く、但だ須らく今日の理道を守り、亦之を厚きに帰すべし。此れ即ち是れ足らん、と。〔▽八三頁〕
第十二章
貞観八年、太宗、群臣に謂ひて曰く、理を為すの要は、努めて其の本を全うす。若し中国静かならざれば、遠夷至ると雖も、亦何の益あらん。朕、公等と共に天下を理め、中夏をして乂安に四方をして静粛ならしめしは、竝びに公等咸忠誠を尽くし、共に庶績を康んずるの致す所に由るのみ。朕、実に之を喜ぶ。然れども安くして危きを忘れず、亦兼ねて以て懼る。〔▽八四頁〕
朕、隋の煬帝の纂業の初を見るに、天下隆盛なり。徳を棄て兵を窮め、以て顛覆を取る。頡利近ごろ強大と為すに足る。志意既に盈ち、禍乱斯に及び、其の大業を喪ひ、朕に臣と為る。葉護可汗も亦太だ強盛なり。自ら富実を恃み、使を通じて婚を求め、道を失ひ過を怙み、以て破滅を致す。其の子既に立つや、便ち猜忌を肆にし、衆叛き親離れ、基を覆し嗣を絶つ。〔▽八五頁〕
朕、遠く尭舜禹湯の徳を纂ぐ能はざるも、此の輩を目賭すれば、何ぞ誡懼せざるを得んや。公等、朕を輔けて、功績已に成れり。唯だ当に慎んで以て之を守り、自ら長世を獲べし。竝びに宜しく勉力すべし。不是の事有らば、則ち須らく明言すべし。君臣心を同うせば、何ぞ理らざるを得んや、と。〔▽八五-六頁〕
侍中魏徴対へて曰く、陛下、至理を弘め、以て天下を安んじ、功已に成れり。然れども常に非常の慶を覩、弥々危きを慮るの心を切にす。古より至慎以て此に加ふる無し。臣聞く、上の好む所、下必ず之に従ふ、と。明詔の奨励、懦夫をして節を立たしむるに足る、と。〔▽八六頁〕
太宗、拓跋の使人に問ひて曰く、拓跋の兵馬、今、幾許有りや、と。対へて曰く、見に四千余人有り。旧は四万余人有り、と。太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、西胡、珠を愛し、若し好珠を得れば、身を劈きて之を蔵す、と。侍臣咸曰く、財を貪り己を害し、実に笑ふ可しと為す、と。〔▽八七頁〕
太宗曰く、唯だ胡を笑ふ勿れ。今、官人、財を貪りて性命を顧みず。身死するの後、子孫辱めを被れるは、何ぞ西胡の珠を愛するに異ならんや。帝王も亦然り。情を恣にして放逸、楽を好むこと度無く、庶政を荒廃し、長夜返るを忘る。行う所此くの如くなれば、豈に滅亡せざらんや。隋の煬帝は奢侈自ら賢とし、身、匹夫に死す。笑ふ可しと為すに足る、と。〔▽八八頁〕
魏徴対へて曰く、臣聞く、魯の哀公、孔子に謂ひて曰く、人好く忘るる者有り、宅を移して乃ち其の妻を忘る、と。孔子曰く、又、好く忘るること此れよりも甚だしき者有り。丘、桀紂の君を見るに、乃ち其の身を忘れたり、と。太宗曰く、朕、公等と既に人を笑ふことを知る。今、共に、相匡輔し、庶くは人の笑ひを免れん、と。〔▽八八頁〕
第十四章
貞観九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、帝王為る者は、必ず須らく其の与する所を慎むべし。只だ鷹犬鞍馬、声色殊味の如きは、朕若し之を欲すれば、随つて須らく即ち至るべし。此れ等の事の如き、恒に人の正道を敗る。邪佞忠直、亦時君の好む所に在り。若し任ずること賢を得ざれば、何ぞ能く滅びること無からんや、と。〔▽八九頁〕
侍中魏徴対へて曰く、臣聞く、斉の威王、*淳于こん(じゅんうこん)に問ふ。寡人の好む所、古の帝王と同じきや否や、と。*こん(じゅんうこん)曰く、古者の聖王の好む所四有り。今、王の好む所唯だ其の三有り。古者色を好む。王も亦之を好む。古者馬を好む。王も亦之を好む。古者味を好む。王も亦之を好む。唯だ一事の同じからざる者有り。古者賢を好む。王独り好まず、と。斉王曰く、賢の好む可き無ければなり、と。*こん(じゅんうこん)曰く、古の美食は、西施・*毛しょう(もうしょう)有り。奇味は即ち龍肝・豹胎。善馬は即ち飛兎・緑耳有り。此れ等は今既に之無し。王の厨膳、後宮外厩、今亦備具せり。王以て今の賢無しと為す。未だ前世の賢、王と相見るを得るや否やを知らず、と。太宗深く之を然りとす。〔▽九〇頁〕
第十五章
貞観十年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、月令は早晩有りや、と。侍中魏徴対へて曰く、今、礼記の載す所の月令は、呂不韋より起る、と。太宗曰く、但だ化を為すに専ら月令に依らば、善悪復た皆記する所の如きや不や、と。魏徴又曰く、秦漢以来、聖王、月令の事に依るもの多し。若し一に月令に依る者は、亦未だ善有らず。但だ古は教を設け人に勧めて善を為さしむ。行ふ所皆時に順はんと欲せば、、善悪亦未だ必ずしも皆然らざるなり、と。〔▽九二頁〕
太宗又曰く、月令は既に秦時より起る。三皇五帝は、竝びに是れ聖主なり。何に因りて月令を行はざるや、と。徴曰く、計るに月令は、上古より起る。是を以て尚書に云ふ、敬みて民に時を授く、と。呂不韋は止だ是れ古を修むるのみ。月令は未だ必ずしも始めて秦代より起らざるなり、と。〔▽九三頁〕
太宗曰く、朕、比書を読み、見る所の善事は、竝びに即ち之を行ひ、都て疑ふ所無し。人を用ふるに至りては則ち善悪別ち難し。故に人を知るは極めて易からずと為す。朕、比公等数人を使ふ。何に因りて理政猶ほ文景に及ばざるや、と。〔▽九三頁〕
徴又曰く、陛下、心を理に留め、臣等に委任すること、古人に逾ゆ。直だ臣等の庸短に由り、陛下の委寄に称ふ能はざるのみ。四夷の賓服、天下の無事を論ぜんと欲せば、古来、未だ今日に似たるもの有らざるなり。文景に至りては、以て聖徳に比するに足らず、と。徴曰く、古より人君初めて理を為すや、皆、隆を尭舜に比せんと欲す。天下既に安きに至つては、即ち其の善を終ふること能はず。人臣初めて任ぜらるるや、亦、心を尽くし力を竭さんと欲す。富貴に居るに及びては、即ち官爵を全うせんと欲す。若し遂に君臣常に懈怠せざれば、豈に天下安からざるの道有らんや、と。太宗曰く、論至り理誠なること公の此の語の如くせん、と。〔▽九四頁〕
第十六章
貞観十六年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、或は君、上に乱れ、臣、下に理む。或は臣、下に乱れ、君、上に理む。二者苟くも違はば、何者をか甚だしと為す、と。特進魏徴対へて曰く、君、心理まれば即ち照然として下の非を見る。一を誅して百を勧めば、誰か敢て威を畏れて力を尽くさざらん。若し上に昏暴にして、忠諌、従はずんば、百里奚・伍子胥の徒、虞・呉に在りと雖も、其の禍を救はず、敗亡も亦促らん、と。〔▽九五頁〕
太宗曰く、必ず此の如くならば、斉の文宣は昏暴なるに、楊遵彦、正道を以て之を扶けて理を得たるは、何ぞや、と。徴曰く、遵彦、暴主を弥縫し、蒼生を救理し、纔に乱を免るるを得たるも、亦甚だ危苦せり。人主厳明にして、臣下、法を畏れ、直言正諌して、皆、信用せらるるとは、年を同じくして語る可からざるなり、と。〔▽九六-七頁〕
第十七章
貞観十九年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、朕、古来の帝王を観るに、驕矜にして敗を取る者、勝げて数ふ可からず。遠く古昔を述ぶる能はざるも、晋武、呉を平げ、隋文、陳を伐つの已後の如きに至りては、心逾驕奢にして、自ら諸を己に矜り、臣下復た敢て言はず。政道茲に因りて弥々紊る。朕、突厥を平定し、高麗を破りしより已後、海内を兼并し、鉄勒以て州県と為し、夷狄遠く服し、声教益々広まる。〔▽九七-八頁〕
朕、驕矜を懐かんことを恐れ、恒に自ら抑折し、日*くれて(暮れて)食し、坐して以て晨を待つ。毎に思ふ、臣下、*とう言(とうげん)直諌し、以て政教に施す可き者有らば、当に目を拭ひて、師友を以て之を待つべし、と。此の如くせば、時康く道泰きに庶幾からん、と。〔▽九八頁〕
第十八章
太宗、即位の始めより、霜旱、災を為し、米穀踊貴し、突厥侵抄し、州県騒然たり。帝の志は人を憂ふるに在り。鋭精、政を為し、節倹を崇尚し、大いに恩徳を布く。是の時、京師より河東・河南・隴右に及ぶまで、飢饉尤も甚しく、一匹の絹、纔に一斗の米を得。百姓、東西に食を逐ふと雖も、未だ嘗て嗟怨せず、自ら安んぜざるは莫し。貞観三年に至りて、関中豊熟し、咸自ら郷に帰り、竟に一人の逃散するもの無し。其の人心を得ること此の如し。加ふるに諌に従ふこと流るるが如きを以てし、雅より儒学を好み、孜孜として士を求め、務は官を択ぶに在り、旧弊を改革し、制度を興復し、毎に一事に因り、類に触れて善を為す。〔▽九九-一〇〇頁〕
初め息隠・海陵の黨、同に太宗を害せんと謀りし者、数百千人。事寧き後引きて左右近侍に居く。心術豁然として、疑阻すること有らず。時論、以て能く大事を断決し、帝王の体を得たりと為す。深く官吏の貪濁を悪み、法を枉ぐるの財を受くる、者有れば、必ず赦免する無し。在京の流外、贓を犯す者有れば、皆、執奏せしめ、其の犯す所に随ひ、*お(お)くに重法を以てす。是に由りて官吏多く自ら清謹なり。〔▽一〇一頁〕
王公妃主の家、大姓豪猾の伍を制馭す。皆、威を畏れて跡を屏め、敢て細人を侵欺する無し。商旅野次し、復た盗賊無く、囹圄常に空しく、馬牛、野に布き、外戸、動もすれば則ち数月閉ぢず。又、頻りに豊稔を致し、米、斗に三四銭。行旅、京師より嶺表に至り、山東より滄海に至るまで、皆、糧を賚すを用ひず、給を道路に取る。又、山東の村落、行客の経過する者、必ず厚く供待を加へ、或は時に贈遺有り。此れ皆、古昔未だ之れ有らざるなり。〔▽一〇一-二頁〕
第十九章
貞観三年、上、房玄齢に謂ひて曰く、古人の善く国を為むる者は、必ず先づ其の身を理む。其の身を理むるには、必ず其の習ふ所を慎む。習ふ所正しければ則ち其の身正し。身正しければ則ち令せずして行はる。習ふ所正しからざれば、則ち身正しからず。身正しからざれば、則ち令すと雖も従はず。是を以て舜、禹を誡めて曰く、隣なる哉、隣なる哉、と。周公、成王を誡めて曰く、其れ明かにせよ、其れ明かにせよ、と。此れ皆、其の習近する所を慎むを言ふなり。〔▽一〇三頁〕
朕、比歳、朝に臨みて事を視るより、園苑の間の遊賞に及ぶまで、皆、魏徴・虞世南を召して侍従せしむ。或は与に政事を謀議し、経典を講論するに、既に常に啓沃を聞けり。直に身に於て益有るのみに非ず、社稷に在りても、亦、久安の道と謂ふべし、と。〔▽一〇三-四頁〕