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お知らせ

記事公開日:2016年11月26日

〈いのち〉はいかに語りうるか?―生命科学・生命倫理における人文知の意義

【シンポジウム】
公開シンポジウム 〈いのち〉はいかに語りうるか?―生命科学・生命倫理における人文知の意義

【主催・共催】
主 催:日本学術会議・哲学委員会いのちと心を考える分科会
共 催:日本生命倫理学会・基礎理論部会

【日時】
2016年11月26日 13時30分〜17時

【場所】
日本学術会議講堂

【講演者】
[提題者]
提題1 斎藤光 氏(京都精華大学ポピュラーカルチャー学部教授)
「遺伝子」概念・「細胞」概念のゆらぎと拡散

提題2 小松美彦 氏(武蔵野大学薬学部教養教育教授)
〈いのち〉はいかに理解されてきたのか―科学的生命観と人生論的生命観

提題3 島薗進 氏(上智大学神学部特任教授・グリーフケア研究所所長)
〈いのち〉の始まりをめぐる生命倫理―「限りあるいのち」と「いのちをつくること」

提題4 安藤泰至 氏(鳥取大学医学部准教授)
〈いのち〉の終わりをめぐる生命倫理―「いのちを守る」とはどういうことか?

[特定質問者]
大庭健 氏(専修大学文学部教授)
轟孝夫 氏(防衛大学校人間文化学科教授)

[司会]
香川知晶 氏(山梨大学大学院総合研究部医学域教授)

【趣旨】
 現在、先端医療とバイオテクノロジーの進展にともなって、「生命・いのち」が自然科学ですべて理解できるかのような認識が社会的に強まっている。たしかに、近年の生命現象をめぐる科学的解明はじつに目覚ましいものがあり、これまでたんなる可能性と思われたものが着実に現実化し、人々の間に新たな希望を生み出してもいる。その結果、「生命・いのち」については自然科学による説明以外は不必要であるかのように語られる場合も出てきているのである。しかし、科学技術の急速な展開は、現在では逆に、自然科学のみには尽きない「生命・いのち」の視座の重要性を浮かび上がらせつつある。その点は、たとえば合成生物学やゲノム編集技術をめぐる自然科学者自身による近年の議論にはっきりと指摘できる。
 本シンポジウムは、こうした動向を受けて、「生命・いのち」をめぐる問題を自然科学や科学技術の現状を踏まえながら人文科学の視野から多面的に考えてみようとするものである。「生命・いのち」は人文科学・社会科学はもとより文芸・絵画・音楽等々、自然科学とは異なる領域でも、その長い歴史のなかで主題となってきた。シンポジウムではまず、自然科学・科学技術の生命観の現状と人間の現実との関連を確認し、問題点を考察する。次に、いのちの始まりと終わりの場面に即して、現在、どこに問題があり、何を問うべきなのかを検討する。そうすることで、制度化・学問化の進行によって形式的な事務化の弊害も見られる生命倫理に対して真の課題を明らかにし、議論の活性化をうながすとともに、人文知が「生命・いのち」の問題にどのように寄与しうるのかを具体的に示すことにしたい。それは、全体として、「生命・いのち」の問題が自然科学的認識に尽きないことを改めて確認する作業となるはずである。
(配布告知より抜粋)

【コメント】
シンポジウムの参加者も多く、人々の関心の高さが伺える。科学技術の急速な展開によって、「遺伝子」や「細胞」の概念にゆらぎや拡散が生じ、新たな生命観の模索に繋がっている。科学的生命観に限界があるのであれば、発想の転換として人生論的生命観=人文知へと繋がっていく。遺伝子工学による支援の可能性が大きく開き、増進的介入の是非も問題にされながらも歯止めがきく様子がない。生命倫理における人文知の意義は大きく、人々の間での議論の活性化が促され、実生活の感性から育まれていくことが望まれているようである。