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貞観政要 2000年01月 発行

巻第五 論忠義第十四

第一章

馮立、武徳中、東宮率と為り、甚だ隠太子に親遇須せらる。太子の死するや、左右多く逃散す。立、歎じて曰く、豈に生きて其の恩を受けて、死して其の難を逃るる有らんや、と。是に於て、兵を率ゐて玄武門を犯して苦戦し、屯営将軍敬君弘を殺し、其の徒に謂ひて曰く、微しく以て太子に報いたり、と。遂に兵を解きて野に遁る。〔▽三六四頁〕
俄にして来たりて罪を請ふ。太宗、之を数めて曰く、汝、昨者、兵を出して来たり戦ひ、大いに我が兵を殺傷せり。将に何を以て死を逃れんとするや、と。立、飲泣して言ひて曰く、立、出身して主に事へ、之に命を効すを期す。戦の日に当りて、顧憚する所無し、と。因りて欷歔し、悲みて自ら勝へず。太宗、之を慰勉し、左屯衛中郎将を授く。立、親む所に謂ひて曰く、莫大の恩に逢ひ、幸にして存するを獲たり。終に当に死を以て君に奉ずべし、死して後に已まん、と。〔▽三六五頁〕
未だ幾くならざるに、突厥、便橋に至る。立、数百騎を率ゐて、虜と咸陽に戦ひ、殺獲甚だ衆く、向ふ所皆披靡す。太宗、聞きて之を嘉歎して曰く、生死の間に於て、甚だ衆義備はれり。此の如きは則ち彼の尋行数里、事を矯め義を談ずる者、徒らに自ら以て人の為にするは、何ぞ此に逮ばんや、と。〔▽三六五-六頁〕
時に斉王元吉の府の左車騎謝叔方有り、兵を率ゐて、馮立と軍を合はせて拒ぎ戦ふ。敬君弘・中郎将呂衡を殺すに及びて、王師、振はず。秦府の官、護軍尉尉遅敬徳、乃ち元吉の首を伝へて、以て之に示す。叔方、馬より下りて号哭し、拝辞して遁る。明日出でて首す。太宗曰く、義師なり、と。命じて之を釈し、左翊衛郎将を授く。〔▽三六六頁〕

第二章

貞観元年、太宗、嘗て従容として、言、隋亡ぶるの事に及び、慨然として歎じて曰く、姚思廉、兵刃を懼れず、以て大節を明かにす。諸を古人に求むるに、亦何を以て加へんや、と。思廉、時に洛陽に在り、因りて物三百段を寄せ、并せて其れに書を遺りて曰く、卿が節義の風を想ふ。故に斯の贈有り、と。〔▽三六七頁〕
初め大業の末、思廉、隋の代王侑の侍読と為る。義旗、京城に剋つに及びて、時に代王の府寮多く駭き散ず。惟だ思廉のみ王に侍して、其の側を離れず。義師の甲師、将に殿に昇らんとす。思廉、声をまして謂ひて曰く、唐公、義兵を挙ぐるは、本、王室を匡すなり。卿等、宜しく王に礼無かるべからず、と。衆、其の言を壮とす。是に於て稍や却き、陛下に布列す。須臾にして高祖至る。聞きて之を義なりとし、其の侑を扶けて順陽閤下に至るを許す。思廉、泣きて拝して去る。見る者咸く歎じて曰く、忠烈の師なり。仁者必ず勇有りとは、此の謂か、と。〔▽三六八頁〕

第三章

貞観二年、将に故の息隠王建成・海陵王元吉を葬らんとす。尚書右丞魏徴、黄門侍郎王珪と、倍送に預らんことを請ひ、上表して曰く、臣等、昔、命を太上に受け、質を東宮に委し、龍楼に出入すること、将に一紀に垂なんとす。前宮、釁を宗社に結び、罪を人神に得たり。臣等、死亡して甘んじて夷戮に従ふ能はず。其の罪戻を負ひて、周行に*し録(しろく)せらる。徒らに生涯を竭くすとも、将た何ぞ上報せん。陛下、徳、四海に光き、道、前王に冠たり。崗に陟りて感有り、棠棣を追懐し、社稷の大義を明かにし、骨肉の深恩を申べ、二王を卜葬し、遠期、日有り。臣等永く疇昔を惟ひ、忝く旧臣と曰ふ。君を喪ひて君有り。居に事ふるの礼を展ぶと雖も、宿草将に列せんとし、未だ往を送るの哀を申べず。九原を瞻望するに、義、凡百よりも深し。望むらくは葬日に於て、送りて墓所に至らんことを、と。太宗、義なりとして之を許す。是に於て宮府の旧僚吏をして、尽く葬を送らしむ。〔▽三六九-七〇頁〕

第四章

貞観五年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、忠臣・烈士、何の代にか之れ無からん。屈突通、隋の将為り、国家と潼関に戦ふ。京城陥ると聞き、乃ち兵を引きて東に走る。義兵を追ひて桃林に及ぶ。朕、其の家人を遣はして招慰せしむ。遽に其の奴を殺す。また其の子を遣はして往かしむ。乃ち云ふ、我、隋家の駆使を蒙り、已に両帝に事ふ。今者、吾、節に死するの秋なり。汝は旧我に於て父子たり。今は即ち我に於て讎敵たり、と。因りて之を射る。其の子避け走る。領する所の士卒多く潰散す。通、惟だ一身、東南に向ひて慟哭し哀を尽くして曰く、臣、国恩を荷ひ、任、将帥に当る。智力倶に尽き、此の敗亡を致せり。臣が誠を竭くさざるに非ず、と。言尽き、追兵擒獲す。太上皇、其れに官を授く。毎に疾に託して固辞せり。此の忠節、嘉尚すべきに足る、と。因りて所司に勅して、大業中の直諌して誅せられし者の子孫を採訪して聞奏せしむ。〔▽三七二頁〕

第五章

貞観六年、左光禄大夫陳叔達に礼部尚書を授け、因りて謂ひて曰く、武徳中、公曾て直言を太上皇に進め、朕が克定の大功有り、黜退す可からざるを明かにし、云はく、朕、本、性剛烈なり。若し抑挫する有らば、恐らくは憂憤に勝へず、以て疾弊の危きを致さん、と。今、公の挙の忠謇なるを賞す。故に此の遷授有り、と。叔達対へて曰く、臣以みるに隋氏の父子、自ら相誅戮し、以て滅亡に至れり。目に覆車を観て、前轍を改めざる容き無からんや。臣が誠を竭くして進諌する所以なり、と。太宗曰く、朕、公が独り朕一人の為めにするに非ず、実に社稷の計の為めにするを知る、と。〔▽三七三-四頁〕

第六章

貞観中、特進*蕭う(しょうう)、房玄齢等と、嘗て宴会に因りて、太宗、房玄齢に謂ひて曰く、武徳六年以後、太上皇、廃立の心有り。我、此の日に当りて、兄弟の容るる所と為らず。実に功高くして賞せられざるの懼れ有りき。*蕭う(しょうう)は厚利を以て之を誘ふ可からず、刑戮を以て之を維ぐ可からず。真に社稷の臣なり、と。〔▽三七五頁〕
乃ち*う(う)に詩を賜ひて曰く、疾風、勁草を知り、板蕩、誠臣を識る、と。顧みて*う(う)に謂ひて曰く、卿の道を守ること耿介、古人以て過ぐる無きなり。然れば則ち善悪太だ分明なるも、亦、時にして失有らん、と。*う(う)再拝して謝して曰く、特に誡訓を蒙り、又、臣に許すに忠諒を以てす。死するの日と雖も、猶ほ生ける年の如し、と。尋いで太子太保に拝せらる。〔▽三七六頁〕

第七章

貞観七年、将に十六道の黜陟使を発せんとす。畿内道は、未だ其の人有らず。太宗親ら定めんとし、房玄齢等に問ひて云く、此の道は事最も重し。誰か使に充つ可き、と。右僕射李靖曰く、畿内は事大なり。魏徴に非ずんば可なる莫からん、と。太宗色を作して曰く、朕、九成宮に向はんとす。事亦、小なるに非ず。寧ぞ魏徴を遣はして出でて使たらしむ可けんや。朕、行する毎に、与に相離るるを欲せざるは、適に其の朕が是非を見れば、必ず隠す所無きが為なり。今、公等の語に従ひて遣はし去らしめんと欲せば、朕若し是非得失有らば、公等能く朕を正すや否や。何に因りて輒く言ふ所有るや。大いに道理に非ず、と。乃即ち李靖をして使に充てしむ。〔▽三七七頁〕

第八章

貞観八年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、隋の時、百姓は縦ひ財物有るも、豈に自ら保つことを得んや。朕、天下を有ちてより已来、心を撫養に存し、科差する所有る無し。人人、皆、生を営みて其の資材を守るを得るは、即ち朕が賜ふ所なり。向使朕をして科喚すること已まざらしめば、数々賞賜すと雖も、亦、得ざるに如かず、と。侍中魏徴対へて曰く、尭舜、上に在るも、百姓亦云ふ、田を耕して食ひ、井を鑿ちて飲む、と。哺を含み腹を鼓して云ふ、帝何ぞ其の間に力あらん、と。今、陛下、此の若く百姓を含養す。日に用ひて知らずと謂ふ可し、と。〔▽三七九頁〕
又、奏して称す、晋の文公出でて田し、獣を*とう山(とうざん)に逐ひ、大沢に入り、迷ひて出づる所を知らず。其の中に漁者有り。文公謂ひて曰く、我は若が君なり。道将に安くにか出でんとする。我且に厚く若に賜はんとす、と。漁者曰く、臣願はくは献ずる有らん、と。文公曰く、沢を出でて之を受けん、と。是に於て送りて沢を出づ。文公曰く、今、子が寡人に教へんと欲する所の者は何ぞや。願はくは之を受けん、と。漁者曰く、鴻鵠は河海の中に保つ。厭心して移徙して小沢に之けば、則ち必ず*そう丸(そうがん)の憂有り。*げんだ(げんだ)は深泉を保つ。厭心して出でて浅渚に之けば、則ち必ず羅網釣射の憂有り。今、君、獣を*とう(とう)に逐ひ、入りて此に至る。何ぞ行くことの太だ遠きや、と。〔▽三八〇頁〕
文公曰く、善きかな、と。従者に謂ひて曰く、漁者の名を記せよ、と。漁者曰く、君何ぞ名を以て為さん。君、天を尊び、地に事へ、社稷を敬し、四海を保ち、万人を慈愛し、賦斂を薄くし、租税を軽くせば、臣も亦之に与からん。君、天を尊ばず、地に事へず、社稷を敬せず、四国を固くせず、外、礼を諸侯に失ひ、内、人心に逆ひ、一国を流亡せば、漁者、厚賜有りと雖も、保つを得ざらん、と。遂に辞して受けず、と。太宗曰く、卿の言、是なり、と。〔▽三八一-二頁〕
※『太平記』巻二十

第九章

貞観十一年、太宗行して漢の太尉楊震の墓に至り、其の忠を以て非命なるを傷み、親ら文を為りて以て之を祭る。房玄齢進みて曰く、楊震、当年夭枉すと雖も、数百年の後、方に聖明に遇ひ、輿を停め蹕を駐め、親ら神位を降す。此れ死すと雖も生けるが如く、没すれども朽ちずと謂ふ可し。覚えず伯起を助く、幸に頼りて九泉の下に欣躍せん。伏して天文を読み、且つ感じ且つ慰む。凡百の君子、焉んぞ名節を勗め励まし、善を為すの効有るを知らざる可けんや、と。〔▽三八二-三頁〕

第十章

貞観十一年、上、侍臣に謂ひて曰く、狄人、衛の懿公を殺し、尽く其の肉を食ひ、独だ其の肝を留む。懿公の臣弘演、天を呼んで大哭し、自ら其の肝を出して、懿公の肝を其の腹中に内る。今、此の人を覓むるも、恐らくは得可からざらん、と。〔▽三八四頁〕
特進魏徴対へて曰く、君の之を待つに在るのみ。昔、豫譲、智伯の為めに讎を報い、趙襄子を刺さんと欲す。襄子、執へて之を獲、譲に謂ひて曰く、子は昔、范・中行氏に事へざりしや。智伯尽く之を滅ぼす。子、乃ち質を智伯に委し、為めに讎を報いざりき。今、智伯の為めに讐を報ゆるは、何ぞや、と。譲、答へて曰く、臣、昔、范・中行に事ふ。中行は衆人を以て我を遇せり。我、衆人を以て之に報いたり。智伯は国士を以て我を遇せり。我、国士を以て之に報ゆ、と。君の之を礼するに在るのみ。何ぞ其れ人無しと為さんや、と。〔▽三八四-五頁〕

第十一章

貞観十二年、太宗、蒲州に幸す。詔して曰く、隋の故の鷹撃郎将尭君素、往に大業に在りて、任を河東に受け、固く忠義を守り、克く臣節を終ふ。桀の犬、尭に吠え、戈を倒にするの志に乖く有りと雖も、疾風勁草、実に歳寒の心を表す。爰に茲の境を践み、往事を追懐す。宜しく寵命を錫ひて、以て勧奨を申ぶべし。蒲州の刺史を追贈す可し、と。仍りて其の子孫を訪ひて以聞せしむ。〔▽三八六-七頁〕

第十二章

貞観十三年、太宗、中書侍郎岑文本に謂ひて曰く、梁陳の名臣、誰か称す可き有りや。復た、子弟の招引するに堪ふるもの有りや否や、と。文本言ふ、隋の師、陳に入るとき、百司奔散す。惟だ尚書僕射袁憲のみ、独り其の主の傍に在り。王世充、将に隋の禅を受けんとするや、群僚、表請勧進す。憲の子国子司業承家、疾に託して独り名を署せず。此の父子、忠烈と称するに足る。承家に弟の承序有り、今、建昌の令と為る。清貞雅操、寔に先風を継ぐ、と。是に因りて召して晋王の友に拝し、兼ねて侍読せしむ。尋いで擢んでて弘文館学士を授く。〔▽三八八頁〕

第十三章

太宗、遼東の安市城を攻む。高麗の人衆、皆、死戦す。詔して権延寿・恵真等をして、降衆を領し、其の城下に止まり以て之を招かしむ。城中、固く守りて動かず。帝の幡旗を見る毎に、必ず城に乗りて鼓噪す。帝、怒ること甚だし。江夏王道宗に詔して、土山を築き以て其の城を攻めしむ。竟に剋つ能はず。太宗、将に師を旋さんとするや、安市城主が固く城を守るの節を嘉し、絹三百匹を賜ひ、以て君に事ふる者を励ます。〔▽三八九頁〕