ホーム > 資料室 > 日蓮聖人御直筆写本 > 貞観政要 > 巻第二 任賢第三

資料室

貞観政要 2000年01月 発行

巻第二 任賢第三

第一章

房玄齢は、*斉州臨し(せいしゅうりんし)の人なり。初め隋に仕へて隰城の尉と為り、事に坐して名を除かれて上郡に徒さる。太宗、地を渭北に徇ふるや、玄齢、策を杖つきて軍門に謁す。太宗、一見して便ち旧識の如く、渭北道の行軍記室参軍に署す。玄齢既に知己に遇ふを喜び、遂に心力を*けい竭(けいけつ)す。是の時、賊冦平ぐ毎に、衆人競ひて金宝を求む。玄齢、独り先づ人物を収め、之を幕府に致す。及び謀臣猛将有れば、皆之と潜に相申結し、各々其の死力を致さしむ。累りに秦王府の記室を授けられ、陝東道の行臺考功郎中を兼ぬ。〔▽一〇五頁〕
玄齢、秦府に在ること十余年、恒に管記を典る。隠太子、太宗の勲徳日に隆きを見、転た忌嫉を生じ、玄齢及び杜如晦、太宗の親礼する所と為るを以て、甚だ之を悪み、高祖に譖す。是に由りて如晦と竝びに駆斥せらる。隠太子の将に変有らんとするや、太宗、玄齢・如晦を召して、道士の衣服を衣せしめ、潜かに引きて閤に入れて事を計る。太宗、春宮に入るに及び、擢でて太子右庶子に拝す。〔▽一〇六-七頁〕
貞観元年、中書令に遷る。三年、尚書左僕射に拝せられ、国史を修む。既に百司に任総し、虔恭夙夜、心を尽くし節を竭くし、一物も所を失ふを欲せず。人の善有るを聞けば、己之を有するが若くす。吏事に明達し、飾るに文学を以てす。法令を審定するに、意は寛平に在り。備はるを求むるを以て人を取らず、己の長を以て物を格せず、能に随ひて収叙し、卑賎を隔つる無し。論者称して良相と為す。累りに梁国公に封ぜらる。十三年、太子少師を加へらる。〔▽一〇八頁〕
玄齢、自ら一たび端揆に居ること十有五年なるを以て、頻に表して位を辞す。優詔して許さず。十有六年、進みて司空を拝せらる。玄齢、復た年老いたるを致仕せんと請ふ。太宗、使を遣はして謂ひて曰く、国家久しく相任使す。一朝忽ち良相無ければ、両手を失ふが如し。公若し筋力衰へずんば、此の譲を煩はすこと無かれ、と。玄齢遂に止む。太宗又嘗て王業の艱難、左命の匡弼を追思し、乃ち威鳳の賦を作りて以て自ら喩へ、因りて玄齢に賜ふ。其の称せらるること類ね此の如し。〔▽一〇八-九頁〕

第二章

杜如晦は、京兆万年の人なり。武徳の初、秦王府の兵曹参軍と為る。俄かに陝州総管府の長史に遷さる。時に府中、英俊多く、外遷せらるるもの衆し。太宗、之を患ふ。記室房玄齢曰く、府僚の去る者、多しと雖も、蓋し惜むに足らず。杜如晦は聡明識達、王佐の才なり。若し大王、藩を守りて端拱せば、之を用ふる所無からん。必ず四方を経営せんと欲せば、此の人に非ざれば、可なる莫からん、と。太宗、遂に奏して府属と為し、常に帷幄に参謀せしむ。時に軍国多事、剖断、流るるが如し。深く時輩の服する所と為る。累りに天策府の従事中郎に除せられ、文学館学士を兼ぬ。〔▽一一〇頁〕
隠太子の敗るるや、如晦、玄齢と功等し。擢んでられて太子左庶子に拝せらる。俄かに兵部尚書に遷さる。進んで蔡国公に封ぜられ、実封一千三百戸を賜る。貞観二年、本官を以て侍中を検校す。三年、尚書左僕射に拝せられ、兼ねて選事を知す。仍ほ房玄齢と共に朝政を掌り、臺閣の規模、典章・文物に至るまで、皆二人の定むる所なり。甚だ当代の誉を獲、時に房杜と称す。〔▽一一一頁〕

第三章

魏徴は鉅鹿の人なり。近く家を相州の臨黄に徒す。武徳の末、隠太子の洗馬と為る。太宗と隠太子と陰に相傾奪するを見、毎に建成を勧めて早く之が計を為さしむ。太宗、隠太子を誅するに及び、徴を召して之を責めて曰く、汝、我が兄弟を離間するは、何ぞや、と。衆皆之が為めに危懼す。徴、慷慨自若、従容として対へて曰く、皇太子、若し臣が言に従はば、必ず今日の禍無かりしならん、と。太宗、之が為めに容を斂め、厚く礼異を加へ、擢でて諌議大夫に拝し、数々之を臥内に引き、訪ふに政術を以てす。〔▽一一三頁〕
徴、雅より経国の才有り。性又抗直にして、屈撓する所無し。太宗、之と言ふ毎に、未だ嘗て悦ばずんばあらず。徴も亦、知己の主に逢ふを喜び、其の力用を竭くす。又、労ひて曰く、卿が諌むる所、前後三百余事、皆、朕が意に称へり。卿が誠を竭くし国に奉ずるに非ずんば、何ぞ能く是の若くならん、と。三年、秘書監に累遷し、朝政に参預す。深謀遠算、弘益する所多し。太宗嘗て謂ひて曰く、卿が罪は、鉤に中つるよりも重く、我の卿に任ずるは、管仲より逾えたり。近代の君臣相得ること、寧ぞ我の卿に於けるに似たる者有らんや、と。〔▽一一四頁〕
六年、太宗、近臣を宴す。長孫無忌曰く、王珪・魏徴は、往に息隠に事へ、臣、之を見ること讎の若し。謂はざりき今者又此の宴を同じくせんとは、と。太宗曰く、魏徴は往者実に我が讎とする所なりき。但だ其の心を事ふる所に尽くすは、嘉するに足る者有り。朕能く擢でて之を用ふ。何ぞ古烈に慙ぢん。然れども徴毎に顔を犯して切諌し、我が非を為すを許さず。我の之を重んずる所以なり、と。〔▽一一五頁〕
七年、侍中に遷り、累りに鄭国公に封ぜらる。尋いで疾を以て職を解かんことを請ふ。太宗曰く、公独り金の鉱に在るを見ずや、何ぞ貴ぶに足らんや。良冶鍛へて器と為せば、便ち人の宝とする所と為る。朕方に自ら金に比し、卿を以て良匠と為す。卿疾有りと雖も、未だ衰老と為さず。豈に便ち爾るを得んや、と。徴、乃ち止む。後復た固辞す。侍中に解くを聴し、授くるに特進を以てし、仍ほ門下省の事を知せしむ。〔▽一一六頁〕〔類似▽八九九頁〕
十二年、帝、侍臣に謂ひて曰く、貞観以前、我に従ひて天下を平定し、艱険に周旋したるは、玄齢の功、与に譲る所無し。貞観の後、心を我に尽くし*忠とう(ちゅうとう)を献納し、国を安んじ人を利し、我が今日の功業を成し、天下の称する所と為る者は、唯だ魏徴のみ。古の名臣、何を以てか加へん、と。是に於て、親ら佩刀を解き、以て二人に賜ふ。〔▽一一七頁〕〔類似▽八九九頁〕
十七年、太子太師に拝せられ、門下の事を知するは故の如し。尋いで疾に遇ふ。徴の宅内、先に正堂無し。太宗、時に小殿を営まんと欲す。乃ち其の材を輟めて為に造らしむ。五日にして就る。中使を遣はして、賜ふに布被素褥を以てし、其の尚ぶ所を遂げしむ。後数日にして薨ず。太宗親臨して慟哭し、司空を贈り、諡して文貞と曰ふ。太宗親ら為めに碑文を製し、復た自ら石に書す。特に其の家に賜ひ、実封九百戸を食ましむ。〔▽一一八頁〕〔類似▽九〇〇頁〕
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、夫れ銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正す可し。古を以て鏡と為せば、以て興替を知る可し。人を以て鏡と為せば、以て得失を明かにす可し。朕常に此の三鏡を保ち、以て己が過を防ぐ。今、魏徴徂逝し、遂に一鏡を亡へり、と。因りて泣下ること久しうす。詔して曰く、昔、惟だ魏徴のみ、毎に余が過を顕す。其の逝きしより、過つと雖も彰すもの莫し。朕豈に独り往時に非にして、皆茲日に是なること有らんや。故は亦庶僚苟順して、龍鱗に触るるを難る者か。己を虚くして外求し、迷を披きて内省する故なり。言へども用ひざるは、朕の甘心する所なり。用ふれども言はざるは、誰の責ぞや。斯れより以後、各々乃の誠を悉くせ。若し是非有らば、直言して隠すこと無かれ、と。〔▽一一九頁〕〔類似▽九〇〇頁〕

第四章

王珪は*瑯や(ろうや)臨沂の人なり。初め隠太子の中允と為り、甚だ建成の礼する所と為る。後、其の陰謀の事に連るを以て、*すい州(すいしゅう)に流さる。建成誅せられ、太宗、召して諌議大夫に拝す。毎に誠を推し節を尽くし、献納する所多し。珪嘗て封事を上りて切諌す。太宗謂ひて曰く、卿が朕を論ずる所、皆、朕の失に中る。古より人君、社稷の永安を欲せざるは莫し。然れども得ざる者は、祇だ己の過を聞かず、或は聞けども改むる能はざるが為めの故なり。今、朕、失ふ所有らば、卿能く直言し、朕復た過を聞きて能く改むれば、何ぞ社稷の安からざるを慮らんや、と。太宗、又嘗て珪に謂ひて曰く、卿若し常に諌官に居らば、朕必ず永く過失無からん、と。顧待益厚し。〔▽一二一頁〕
貞観元年、黄門侍郎に遷り、政治に参預し、太子右庶子を兼ぬ。二年、進んで侍中に拝せらる。時に房玄齢・魏徴・李靖・温彦博・載冑、珪と同じく国政を知す。嘗て同に宴に侍す。太宗、珪に謂ひて曰く、卿は識鑒清通、尤も談論を善くす。玄齢等より、咸く宜しく品藻すべし。又、自ら諸子の賢に孰与なるかを量る可し、と。対へて曰く、毎に諌諍を以て心と為し、君の尭舜に及ばざるを恥づるは、臣、魏徴に如かず。孜孜として国に奉じ、知りて為さざる無きは、臣、玄齢に如かず。才、文武を兼ね、出でては将たり入つては相たるは、臣、李靖に如かず。敷奏詳明に出納惟れ允なるは、臣、彦博に如かず。繁を処し劇を理め、衆務必ず挙がるは、臣、載冑に如かず。濁を激し清を揚げ、悪を嫉み善を好むが如きに至りては、臣、数子に於て、頗る亦、一日の長あり、と。太宗深く其の言を嘉す。群公も亦各々以て己が懐ふ所を尽くすと為し、之を確論と謂ふ。〔▽一二二頁〕

第五章

李靖は京兆三原の人なり。大業の末、馬邑郡の丞と為る。会々高祖、太原の留守と為る。靖、高祖を観察し、四方の志有るを知る。因りて自ら候して変を上り、将に江都に詣らんとし、長安に至り、道塞がりて通ぜずして止む。高祖、京城に克ち、靖を執へ、将に之を斬らんとす。靖大いに呼びて曰く、公、義兵を起し暴乱を除く。大事を就さんと欲せずして、私怨を以て壮士を斬るや、と。太宗も亦、救靖を加ふ。高祖遂に之を捨す。〔▽一二四頁〕
武徳中蕭銑・*輔公せき(ほこうせき)を平ぐるの功を以て、揚州大都督府の長史に歴遷す。太宗、位を嗣ぎ、召して刑部尚書に拝す。貞観二年、本官を以て中書令を検校す。三年、兵部尚書に転じ、代州道の行軍総官と為り、進みて突厥の定襄城を撃ちて之を破る。突厥の諸部落、竝磧北に走る。突利可汗来り降り、頡利可汗大いに懼る。四年、退きて鉄山を保ち、使を遣はして入朝して罪に謝し、国を挙げて内附せんと請ふ。〔▽一二五頁〕
頡利、外は降を請ふと雖も、而も内は猶豫を懐く。詔して鴻臚卿唐倹を遣はして之を慰諭せしむ。靖、副将張公謹に謂ひて曰く、詔使、彼に到る、虜は必ず自ら寛くせん。乃ち精騎を選び、二十日の糧を賚し、兵を引きて白道より之を襲はん、と。公謹曰く、既に其の降を許し、詔使、彼に在り。未だ宜しく討撃すべからず、と。靖曰く、此れ兵機なり。時、失ふ可からず、と。遂に軍を督して疾く進む。行きて陰山に到り、其の斥候千余帳に遇ひ、皆、俘にして以て軍に随ふ。頡利、使者を見て甚だ悦び、官兵の至るを虞らざるなり。靖の前鋒、霧に乗じて行く。其の牙帳を去ること七里、頡利始めて覚り、兵を列ぬるも、未だ陣を為すに及ばず、単馬軽走す。虜衆因りて潰散す。男女を俘にすること十余万、土界を斥くこと、陰山の北より大磧に至り、遂に其の国を滅ぼす。尋いで頡利可汗の別部落に獲、余衆悉く降る。〔▽一二七頁〕
太宗大いに悦び、顧みて侍臣に謂ひて曰く、朕聞く、主憂ふれば臣辱められ、主辱めらるれば臣死す、と。往者、国家草創の時、突厥強梁なり。太上皇、百姓の故を以て、臣を頡利に称せり。朕、未だ嘗て痛心疾首せずんばあらず。匈奴を滅ぼさんことを志し、坐、席に安んぜず。食、味を甘んぜず。今者、暫く偏師を動かし、往くとして捷たざるは無く、単于*稽そう(けいそう)恥其れ雪がんか、と。群臣、皆万歳と称す。尋いで靖を尚書左僕射に拝し、実封五百戸を賜ふ。又、西のかた吐谷渾を征し、大いに其の国を破る。改めて衛国公に封ぜらる。靖の妻亡するに及びて、詔有りて墳塋の制度、漢の衛霍の故事に依り闕を築きて突厥の内の鉄山、吐谷渾の内の積石の二山を象るを許し、以て殊績を旌す。〔▽一二八-九頁〕

第六章

虞世南は、会稽余姚の人なり。貞観七年、秘書監に累遷す。太宗、万機の隙毎に、数々之を引きて談論し共に経史を観る。世南、容貌懦弱にして衣に勝へざるが若しと雖も、而も志性抗烈にして、論じて古先帝王の政を為すの得失に及ぶ毎に、必ず規諷を存し、補益する所多し。〔▽一三〇頁〕
太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、朕、暇日に因りて虞世南と古今を商略す。朕に一言の善有れば、世南未だ嘗て悦ばずんばあらず。一言の失有れば、未だ嘗て悵恨せずんばあらず。近ごろ嘗みに戯れに一詩を作り、頗る浮艶に渉る。世南進表して諌めて曰く、陛下の此の作工なりと雖も、体、雅正に非ず。上の好む所、下必ず之に随ふ。此の文一たび行はるれば、恐らく風靡を致さん。軽薄俗を成すは、国を為むるの利に非ず。賜ひて継ぎ和せしむれば、敢て作らずんばあらず。而今よりして後、更に斯の文有らば、継ぐに死を以て請ひ、詔を奉ぜざらん、と。其の懇誠なること此の若し。朕用つて焉を嘉す。群臣、皆世南の若くならば、天下何ぞ理まらざるを憂へん、と。因りて帛一百五十段を賜ふ。〔▽一三一頁〕
太宗嘗て称す、世南に五絶有り。一に曰く、徳行。二に曰く、忠直。三に曰く、博学。四に曰く、詞藻。五に曰く、書翰、と。卒するに及び礼部尚書を贈り、諡して文懿と曰ふ。太宗、魏王泰に手勅して曰く、虞世南の我に於けるは猶ほ一体のごときなり。遺を拾ひ闕を補ひ、日として暫くも忘るること無し。実に当代の名臣、人倫の準的なり。吾に小善有れば、必ず将順して之を成し、吾に小失有れば、必ず顔を犯して之を諌む。今、其れ云に亡す。石渠・東観の中、復た人無し。痛惜豈に言ふ可けんや、と。〔▽一三二頁〕

第七章

李勣は曹州離狐の人なり。本姓は徐氏。初め李密に仕へて右武候大将軍と為る。密、後、王世充の破る所と為り、衆を擁して国に帰す。勣猶ほ旧境十郡の地に拠る。武徳二年、其の長史郭孝恪に謂ひて曰く、魏公既に大唐に帰せり。今、此の人衆土地は、魏公の有する所なり。吾若し上表して之を献ぜば、即ち是れ主の敗を利して、自ら己の功と為し、以て富貴を邀むるなり。是れ吾の恥づる所なり。今宜しく具に州県及び軍人戸口を録し、総て魏公に啓し、公の自ら献ずるに聴すべし。此れ則ち魏公の功なり。亦可ならずや、と。〔▽一三四頁〕
乃ち使を遣はして李密に啓す。使人初めて至るや、高祖、表無くして惟だ啓の李密に与ふる有るのみなるを聞き、甚だ之を怪しむ。使者、勣の意を以て聞奏す。高祖方めて大いに喜びて曰く、徐勣、徳に感じて功を推す。実に純臣なり、と。黎州の総管に拝し、姓を李氏と賜ひ、属籍を宗正に附す。其の父の蓋を封じて済陰王と為す。王爵を固辞す。乃ち舒国公に封じ、散騎常侍を授く。尋いで勣右武候大将軍を加ふ。〔▽一三五頁〕
李密反叛して誅せらるるに及びて、勣、喪を発し服を行ひ、君臣の礼を備へ、表請して密を収葬せんとす。高祖遂に其の屍を帰す。是に於て大いに威儀を具へ、三軍縞素して、黎陽山に葬る。礼成り服を釈きて散ず。朝野、之を義とす。尋いで竇建徳の攻むる所と為り、勣、竇建徳に陥る。又、自ら抜きて京師に帰る。太宗に従ひて王世充・竇建徳を征して之を平らぐ。貞観元年、并州都督に拝せらる。令すれば行はれ禁ずれば止み、号して職に称へりと為す。突厥甚だ畏憚を加ふ。〔▽一三六頁〕
太宗、侍臣に謂ひて曰く、隋の煬帝、賢良を精選して辺境を鎮撫するを解せず。惟だ遠く長城を築き、広く将士を屯して、以て突厥に備ふ。朕、今、李勣に并州を委任し、遂に突厥威に畏れて遠く遁れ、塞垣安静なるを得たり。豈に数千里の長城に勝らずや、と。其の後、并州、改めて大都督府を置き、又、勣を以て長史と為す。累に英国公に封ず。并州に在ること凡て十六年、召して兵部尚書に拝し、兼ねて政事を知せしむ。〔▽一三七頁〕
勣時に暴疾に遇ふ。験方に云ふ、鬚灰を以て之を療す可し、と。太宗自ら鬚を剪り其れが為めに薬を和す。勣、頓首して血を見、泣きて以て陳謝す。太宗曰く、吾、社稷の為めに計るのみ。深謝するを煩はさず。公は往に李密を遺れず。今豈に朕に負かんや、と。〔▽一三八頁〕

第八章

馬周は博州荏平の人なり。貞観五年、京師に至り、中郎将常何の家に舎す。時に太宗、百官をして上書して得失を言はしむ。馬周、何の為めに便宜二十余事を陳べ、之を奏せしむ。事、皆、旨に合す。太宗、其の能を怪しみ、何に問ふ。何答へて曰く、此れ臣が発慮する所に非ず。乃ち臣が家の客馬周なり、と。太宗、即日、之を召す。未だ至らざるの間、凡そ四度、使を遣はして催促す。謁見するに及びて、与に語りて甚だ悦ぶ。門下省に直せしめ、尋いで監察御史を授け、累に中書舎人に除す。〔▽一三九頁〕
周、機弁有り。敷奏を能くし、深く事端を識る。故に動けば中らざる無し。太宗嘗て曰く、我、馬周に於て、暫時、見ざれば、則便ち之を思ふ、と。十八年、中書令に歴遷し、太子右庶子を兼ぬ。周既に職、両宮を兼ね、事を処すること中允にして甚だ当時の誉を獲たり。又、本官を以て吏部尚書を摂す。太宗、嘗て侍臣に謂ひて曰く、馬周、事を見ること敏速、性、甚だ貞正なり。人物を論量するに至りては、道を直くして言ひ、多く朕が意に称ふ。実に此の人に藉りて、共に時政を康くするなり、と。〔▽一四〇頁〕